アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

イギリスのEU離脱。

大衆は愚衆?
ご意見伺いたいです。

大衆は愚衆だと立証されてしまったのか?

よろしくお願いいたします。

質問者からの補足コメント

  • 大衆が全ての情報を知ったなら、ずっとマシな判断が出来るのか、ちょっと不安でも有ります。

    具体的にどんな状況が出現するのか、漠然としたままであるからだと思いますが想像出来ません。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/01 11:19
  • ずっとマシな判断が出来るというのは、官僚や政治家と比べてという“条件”が付くわけですね?

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/01 11:28
  • 無知な私の評価などあてにならないと思いますが、私にとって現時点では「全体主義に付いて考えてみる」という意味に於いて納得させられる回答となっています。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/01 11:45
  • 皆さん。
    もうこの辺で意見交換をしていただくことは、止めたいと思います。

    私は感覚人間だから思います。
    お二方の御意見から、物事を一方は肯定的に、他方は否定的に捉えようという性行の違いを感じました。

    頂いた回答にご返事出来てないのもあるので、今すぐには閉められませんが。

      補足日時:2016/07/01 13:19
  • 他の回答も含めて再三読み返してみて、やけに気になるのが“主義”と言う言葉です。

    排他的心情は生物の持つ必要な能力の一つであることは、肉体の異物への反応の有ることから推測してみてもこれは正常な働きであると思えます。

    その必要な能力を“主義”とするから、こんどはその“主義”に拘束され拘ることになるのだと思うと、そこが人間の愚かさなんだと思いました。

    No.24の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/01 15:50
  • 今は、民衆或いは大衆という集団的な知性に依るところの行動が、民主主義を好ましい思想?とすることになるのかな、と思いました。

    知性ある感情。

    うまく言えませんが。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/01 19:02
  • トップダウンではなくボトムアップに!

    こうした主張かと思います。

    平屋は平和を手に入れる事は出来そうですが、なんか活気のない社会のように思います。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/02 07:48
  • 感情の高まりを通して扉を開けてみれば、そこにはまだ一本の道さえ見えないのだから、戸惑うのも当然と思えます。

    それに民意はほぼ真っ二つだから政治家はその事を念頭に置いた政策を取るべきで、民衆もそれについて理解を示さなければならない、なんて考えてみました。

    No.26の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/02 12:08
  • 哲人政治はいいですね。
    理想かもしれません。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/02 13:01
  • 最後の感想はお二方のやり取りに。
    議論の内容については口を挟みません。成るほどと思います。

    私の関心はなぜこうして平行線を辿っているような議論になってしまうのか、と言うことでした。
    一旦は一方は肯定的に、他方は否定的に、物事を捉えようという性行があるように思う、と言った意見を述べましたが、なにか的確とは言えないように感じていたので考えていました。

    今はこれを「外向き志向.思考」と「内向き志向.思考」としてみました。
    内省、という言葉も使われていましたが、この内省その物に重きを置く事になってしまう心理と、内省を通してその先に表れる何か、の方に比重を掛けた思考に興味を感じてしまう心理。

    これを性格の違いと言うならば、この性格の違いこそが議論を平行にさせていると言えるのではないかと思います。

    でも平行に走る二輪車に乗った私は、平行線を走るがゆえに、得るものがたくさんありました。

      補足日時:2016/07/02 16:54

A 回答 (45件中1~10件)

民主主義の見本のようだと感じました



口では主権は国民にあると言われていますがいつの間にか政治家(一部の国民)の思惑で政治が動かされ一般大衆(真の主権者)の望む方向とは違った方向に進んでいた。その結果が示されたのだと思います
これからイギリスの政治家の方々は民意の実現・国益を守るため困難な選択・判断を迫られますが全知全能を傾け民意の実現と国益を損なわないよう活躍することと思います
大変厳しい選択ですがそこに政治家の質が試されているのですイギリスの政治家の皆様はきっと私達を驚かせる結果を導き出すことでしょう

日本の政治家の方々も”政治家のあり方”とは何かをこの機会に勉強してほしいものです
この回答への補足あり
    • good
    • 0
この回答へのお礼

冷静な御意見、有り難うございました。

お礼日時:2016/07/01 12:37

★(№39お礼欄) ~~~~~~~


小学校低学年かまだ幼稚園児か、そんな年齢の子供を無理矢理に連
れて行こうとする親に、泣き叫んで抵抗するその子供。

この子の心は傷だらけ。

修復不能なほどに傷を負ってしまう子もいるのではないでしょうか。
~~~~~~~~~~~~
☆ そうかも知れません。
☆☆(回答№39) 人間の心は けっして傷つけられることはあ
りません。
☆ と言い切っていますから。

思うことは 子ども時代に親とのあいだに何らかの〔まだ自覚のな
い〕マジハリがあればよいのではないか です。

つまり 例によってあまえです。この経験があれば 心は心として
自然本性のすなほさにおいて形成されて来ていると考えます。

あるいはつまり 挙げてもらって事例で子どもが
★ 泣き叫んで抵抗する
☆ という事態に注目します。これなら 相手つまり親ですがとの
間に何らかのカカハリを――マジハリをとおして――築いて来てい
るのではないかと理解します。

さらにあるいは そうすることで(抵抗することで) 生まれつき
そなわった心をみづからのおこないとしても自覚するかたちで形成
しつつある。のではないかと。




つまりは 子ども時代は まだ心をかたちづくる段階でもあるので
そこで傷がつくかどうかという問題とは別の状態にあるのではない
かと。



子どもが見知らぬ人にさそわれついて行くといった事態があります。
この場合なども まだまだこころの・つまりは≪わたしがわたしであ
ること≫の形成段階にあるのではないか。

もしくはすでに自己形成しつつある≪わたし≫が しかるべき試練を
経て行く過程にあるのではないかと。

言いかえると 自分のことという問題のほかに 相手がいるという
問題。これを マを違えつつあやまちを指摘され侵しつつ まなん
で行く過程。



この段階や過程を経る前に 心が傷つけられていては もう人間は
たまったものではない。と思いますけれど。誰もが ヒトラー級の
ひねくれ者になってもおかしくなくなります。


≪傷を負ってしまう≫というよりは 引っ込み思案になったり情緒が
安定しない状態に落ち入ったりというような心の表面に現われる心
理的なクセを身に着けてしまう。のではないか。

でも 心理は その時その場その情況に限られまた長続きしないク
セであって 心という海の表面に起こる波風の問題であると考えま
す。



ひねくれたあとの状態では みづからがウソ・イツハリを成す事態
が始まっていますから これは 心の問題です。

ですが このときにも なおすなほな心として やましさ反応が起
きます。だからそれにも逆らっての行動は まさに自分がそのよう
に自分の心に傷をつけている。ことになるはずです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

傷つく。

これを別の表現にしてみます。

心は経験を刻み込む、と。

有り難うございました。

お礼日時:2016/07/02 21:48

★(№15への補足) 平屋は平和を手に入れる事は出来そうですが、


なんか活気のない社会のように思います。
☆ タテの関係で・二階建ての階段を上がったり下りたりする活気で
はなく そうではなく ひとつのムラ(市町村)が世界中のムラムラ
とヨコの関係で 特に人間どうしのマジハリをとおして活気よくなる
かとは思います。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

今回はだいぶ学べました。
だからぶらじゅろんぬさんの意見も何となくですが感じを掴めて来たように思います。

やっぱり社会を動かすにはある程度の纏まりが必要で、その最小単位である村を外向きに活発化させよう、と呼び掛けているんですね。

この解釈で間違いなければ同感です。

お礼日時:2016/07/02 11:42

No.40の猪突さんのご意見に対して、



改めてこちらでも質問を立てようと思っていますが、姉妹サイトで「歴史認識」について行ったわたしの質問に対して、以下のような回答が寄せられました。



『「歴史を学ぶ」とは 認めさせる事では無い・・

事実かどうかよりも 悲惨な出来事を後世に繰り返す事の無い様にすれば良いだけ・・

酷い歴史なら ホロコーストだけじゃ無い・・

原爆も戦争も・・身近な処では犯罪も交通事故死や自殺までも・・

そういったのを未来に持ち込まない事の方が大切な だけ・・』

それに対するわたしのお礼兼コメントは以下の通りです。



仰ることはその通りです。

ですが「彼らは」「わたしたちは」その時「何をしていたか?」
そのことを見つめなおし、なぜそうなったかを検証しなければ、同じ過ち、同じ愚行が何度でも繰り返されるのではないか?という気持ちです。

事実を踏まえた上で、はじめて、「その後」「次回」が起きないように対策を講じられるのだろうと思います。
それは交通事故でも、殺人でも、自殺でも同じことではないでしょうか?

。。。つまり「未来への眼差し」という点でわたしと猪突さんとの間にそれほど意見の相違があるわけではなさそうです。

けれども、「今、目の前にいる」「心に」「からだに」痛みを、傷を抱えている人の存在を捨象して、血の通わない検証をしてもそれは今後に生かされるとは思えないのです。今を看過するものには未来をも救えません。

政治家は常に「未来」を語ります。けれども今、わたしたちが立っている地平を整えることなしに、未来へ伸びてゆく途を語ることは無意味に見えます。「研究」は確かに基礎として欠かすことのできない知識であり経験です、けれども、「臨床」の立場に臨み、今ここにある危機を考えることは歴史ではない、とは思えないのです。
    • good
    • 1

大衆は知の宝庫である、とコールリッジだったかな?は言いました。


しかしずいぶん昔の話です。大衆知が偏ったり纏まったりする前の話です。
マスメディアの登場で、大衆はセンセーションの中に耽溺することを覚えてしまいました。
愚衆と呼ぶよりは、1つ穴に落ちたというところで、それが後で良い結果に成るのか悪い結果に成るのかによって、打撃が大きい、ということの他には言うことは無さそうです。
人類はまるで舟に乗っているような按配になってしまったのでしょう。でもそのおかげで、宇宙船地球号なんてな感じで舵取りしようという決心に満ちているのですから、やっぱり宝庫状態だった大衆より良い面もあるのかもしれませんね。

多様で煩雑でまとまらない、という形態は、非線形非平衡系の科学者である猪突先生に念を押されなくとも、未来に開いた活発な知性の重要な糧でありましょうし、とりわけ人間社会の場合に重要なことは、その玉石混淆の中にはすぐれて飛び抜けて賢い玉があるということと、それよりさらに重要な点として、そんな映え抜きの玉といえども影響力は爆発的でなく緩やかだということであろうと思います。そういう社会では、わたしたちは旅をして、人を訪ねて、古い記憶を辿って、数々の点を線で結ぶような喜びを得ます。文字通りの草の根運動のように展開するこの旅の成果は、しかし、適度な所でぶつ切りの根茎にされるのが望ましいのではないでしょうか。なぜでしょう。纏められた知には、センセーションが起こるからです。感情を掻き立てるという細い経糸をつたって物語化は起こるのであり、物語があるから感情を掻き立てられるのではないのです。
歴史学の難しさは、纏め知を形成する作業の難しさであり、より纏められているものは、より真実から遠いという事態を引き起こすに違いないでしょう。事実は、多様で煩雑でまとまらないという状態から動かしづらく、ばらけた事実のピースの中からはたしてどんな真実が掴みだせるかというと、それはその時その場所でわたしたちが思う、輪郭のないような、一部にすぎない鋭利な小さな真実なのだろうと思います。古い動機とか、証拠とかにまつわる限定的な真実なわけです。

台湾をはじめ、東南アジアを旅したとき、日本語を覚えている老人が話しかけてきました。
それはお茶や煙草とともに聞くものであって、本人たちにも1つの感情では片付かない話であり、日本軍の素晴らしい評価と災いの評価とがただ混ざり合っている、智慧と教養のある人の言葉で語られる、という以外に纏めようがないものです。ただ遺産が余りあるということに目を瞑るのか煙草の煙が目にしみているのか判然としないのであります。
    • good
    • 4
この回答へのお礼

たいへん内容の濃い、というか“そんな感じ”にしか受け取れませんが、
何度も読み返してみて、歴史の学び方が分かるようになりたいと思います。

有り難うございました。

お礼日時:2016/07/02 16:15

民衆、大衆、とひとくくりにしようとするのが間違い?。


現実の存在は個々です。
個々がすべての情報を知る、「すべて」現実にありえません。
たとえ知っても、ただそれだけ。
それに基づきどんな判断、どんな行動を起こすか全部個々で異なります。
個々の出した結果を集めてみた結果です。
結果を見ただけで、逆は推測できません、個々に突きとめても、その個々には当然個々の事情があり、愚とは言い切れません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

個々が集団の"意"に即するようにした行為には妥協、迎合、が必須か?と思いました。
また、個々の出す結果から共通するものを集めた結果が"民意"として扱われるのかな、とも。

有難うございました。

お礼日時:2016/07/01 22:23

№39をおぎないます。



ヒバクシャの態度は 見本だと思います。
    • good
    • 0

#37、38関連で。



そこで論じたGrass_Rootsさんの疑問、

>ところで、当事者の存在しない「被害者たち」が死んでしまった後の「戦争の検証」とはいったいなんでしょうか?

に対して、私の答えはこうです。

歴史学の学としての重要な役割は、過去の経験から学んで同じ失敗を繰り返さない方法を探ると言うことです。確かに、戦争で被害者が出てその悲劇は筆舌に尽くし難いでしょう。だからこそ、過去の事象を出来るだけ私心を交えずに客観的に論じることができれば、過去に起こってしまった悲劇はどうにも出来ないが、しかし、今後に起こるであろう悲劇を減らすことができるのないか。その希望の下に歴史学が学として論じられているのです。もちろん、人間である限り、客観的で公平な見方をすることは不可能だと私は思います。でも、客観的で公平な見方を漸近解として、そこに到達できなくても、そことの距離を縮めて行く事は出来ます。だから、歴史学では私情を排して出来るだけ冷徹に過去の事象を分析する態度が要求されるのです。歴史学とは過去の清算をするためにあるのではなくて、我々の未来に起こる個々の状況に対して、どう行動したらの指針を探るためにあるのです。

私は理系の学生に常々次の事を言っております:

理詰めの論理のあり方を学ぶには数学を学べ、この世界で何が現実に起こりうるかを学ぶには歴史を学べ。
    • good
    • 2

人間の心は けっして傷つけられることはありません。



ただ おのれがウソをつきイツハリを侵すその意志行為と度合いに
応じて ゆがみと欠けが心に生じます。

つまり 心の傷というのはすべて自業自得によるものであり それ
のみです。



戦争にしろ何にしろ 過去の歴史を振り返るとき おのが心の傷か
ら出発しその傷をほかの人間にうったえこれを償えと言うのは あ
さましい心であるしかないと考えます。

ひとのとうとい意志の発動としての行為でありながら その意志や
意志の主体(つまり自分を含めた存在)をないがしろにすることは
無効の行為となります。

この無効をうったえるのみだと考えます。心の傷について思いやっ
てくれというのは 余分なことだと考えます。

自転車が盗まれたという無効の意志行為について 原状復帰つまり
自転車が元に戻されることが 過去の事件についての償いと和解で
あるのだと考えます。


ふつう大衆はいかに衆愚であっても その愚かさが心の傷を癒せと
訴えるあさましさの問題にまでは落ち入らないものと思います。

敵もつよかったとか あいつら汚い手を使いやがってとか あるい
は勢いに乗ってそうとう酷いをことやってしまったとか(この場合
には 自省を起こし自分の心を痛める)・・・ここらへん止まりで
ある。


誹謗中傷や名誉棄損という被害に遭っても それらの原状復帰をの
ぞむことこそを訴えるのみです。じっさい心が傷つけられたという
ことはないのです。(社会生命の発揮に支障をきたすことがありま
すが。つまりその自由の回復をうったえるのであって 心を押し出
すことはありません)。

歴史における・あるいは社会生活における勝者か敗者かいづれであ
っても 同じことだと考えます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

小学校低学年かまだ幼稚園児か、そんな年齢の子供を無理矢理に連れて行こうとする親に、泣き叫んで抵抗するその子供。

この子の心は傷だらけ。

修復不能なほどに傷を負ってしまう子もいるのではないでしょうか。

お礼日時:2016/07/02 16:00

No.37の猪突さんのご意見に対して、



「学」としての歴史であるかないかは、わたしにとって大事なことではありません。「学」と呼ばれる必要もない。
なるほどそれは「政治」であるかもしれない。いずれにしてもわたしにとって大事なのは、からだに、心に傷を負った人たちのことです。
被害者はいうまでもなく、加害者もこころの傷を負うこともあるでしょう。その事実から決して目をそらさないこと。それだけです。
それは「学」ではないというのなら、「学」ではないからこそ、大事なのです。

敢えて付け加えるなら、研究者の主観の介在しない「学問」ってあるのでしょうか?今から100年後、(仮にまだ人類が存在していたとして)誰かが、日本の15年戦争を「研究」したときに、そこには誰の「主観」も、いかなるバイアスも存在していないと言えるでしょうか?
一方に感情移入してしまうということはありえないのでしょうか?「それでは研究者失格だ!」結構、けれどもそれは「人間」です。
人間である以上、「戦争」あるいは「ある事件」(ホロコースト、原爆、侵略、革命、テロル)そのような、「我と同じ」「人間の行為」に対して、機械のごとく心を真空状態にしておくことは不可能です。対象が研究者自身がそうであるところの「人間」である以上、数字や原子や時空を扱う学問とは異なるのは当然です。

>類似した例では、裁判における本人や証人の言述の正否の認定には裁判制度独自の評価基準がある。ただ単に本人がそうだったと言っただけでは認められないのです。

しかし「心証」に訴えるのが裁判の弁論であり、その弁論いかんで陪審員および判事の決定がなされるのです。
>ただ単に本人がそうだったと言っただけでは認められないのです。
その「言葉にならない言葉を」読み取り、掬いとり、言述とするのが裁判であり、ひいては歴史ではないか?そのように考えるのです。
    • good
    • 1
1  2  3  4  5 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!