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☆ 子音を取り上げます。音素 / m / のオノマトペから発生して成る世界を 
仮説の内に捉えます。

§ 1 / m / :認定相 と捉える。何かを認定したというコト・サマを人は 
子音の/ m /で表わしたという意味です。

(例1)・ ma 目
 ・ ma-i > me 目
 ・ mi-ru 見る

§ 2 / m / :認定相⇒意志相 あるいは逆に 推定相。認定して確信を持
ちそのことを意志する。あるいは 単なる認定として ぎゃくに 推定の相
を帯びた。

(例2)・ ‐mu む:(あ) 行か‐む;行こう(行くつもりだ)=意志相
       // 行か‐む:行こう(行くであろう)=推定相

☆ つまり 主観が認定した相について おのれの意志を示す場合と 主観
のみであるゆえに推定となる場合とである。

§ 3 アラビア語における子音 / m / の役割

(例3)・ ma-gasin / ma-gazine 

☆ これは アラビア語 khazana "to store up."《 たくわえる》の被動完
了相の活用形(過去分詞のごとき)である。ここに / m / が活躍している。

つまり《たくわえられた〔もの・ところ〕》⇒《倉庫・百貨店・雑誌》とい
う語義へと展開した。
▲ http://www.etymonline.com/index.php?term=magazin …

§ 4 つまり――続いてですが―― この《被動完了相(いわゆる受動態)》
を《認定相》の / m / がその標識として示すかたちであろうか。 

(例4)・ Muhammad 
すなわち:
 ・ hamada: たたえる。ほめる
 ・ mu-hammad:(過去分詞のごとく) たたえられた。ほめられるべき。
 ・ http://en.wikipedia.org/wiki/Muhammad_(name)#Ety …

(例5)・ Mu-barak / Barak / Baruch
すなわち:
 ・ barak:ことほぐ。祝福する
 ・ mu-barak: 祝福された


§ 5 dog-ma および syste-ma  はどうか?

このギリシャ語でも / m / が《被動完了相》を示します。位置は語幹のうし
ろです。
(例6)・ dokeo:考える " to think, suppose, expect. imagine "
 ・ dog-ma:考えられた〔もの〕
 ・ http://www.etymonline.com/index.php?term=dogma&a …

(例7)・ syste-m; syste-ma
 ・ syn-histanai:共に-立たせる; 仕組む
 ・ syn-histe-ma:共に立たせられた〔もの〕;仕組まれた〔もの〕
 ・ http://www.etymonline.com/index.php?term=system& …

§ 6. 韓国語における  / m /

《被動》でも《完了相》でもないが 言わば動名詞を一般的につくる。

(例8) ・ sara-m =人
  < sal-da:生きる・暮らす

(例9)・ 받침 bad-chi-m 支え・下敷き・台・パッチム
  < bad-chi-da パッチダ:支える

(例10)・ 반가움 bangau-m うれしさ
  < bangap-da パンガップタ :うれしい

☆ / m / が認定相をになうゆえか。というのが 仮説の中身です。

§ 7. mirror(鏡)は miru(見る)もの?

(例1a) ・ma 目 ;・ma-i > me 目
 ・mi-ru 見る
 ・mo-ru 守る
 ・ma-gu 覓ぐ・求ぐ(もとめる・捜す・尋ねる)

これらに対して
 (例11) ・mirar (ラテン語) 見る
 ・mirage まぼろし・蜃気楼
 ・mirror 鏡
 ・miracle ( miraculum )奇蹟
 ・ad-mire  賛嘆する(見られるべきで讃えられるべきものと見る)

§ 8. 《身》 の話

認定したものが わが身の《身》だったという話です。

(例12)・ mö :身(=も・む)⇒
 ・ mo:蛻(身(も)‐抜け) /
 ・ mu:骸(身(む)‐くろ(≒殻))
 ・ → mö-i > mi ⇒ 身(み)

(例13)・ mö-ku > muku :身‐く( k が変化移行の相)⇒向く
 ・ mokomoko; mukumuku もこもこ;むくむく
 ・ mogomogo もごもご

§ 9. サンスクリットにおける / m /

(例14) ・ dhar-ma ダルマ

▲(ヰキぺ) 「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞 (dhR) から
つくられた名詞であり 本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、
それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」な
どを示す。
 http://www.etymonline.com/index.php?term=dharma& …

(例15) ・ kar-ma カルマ

▲(ヰキぺ) 動詞の「クリ」(kR)(おこなう)の現在分詞である「カ
ルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味
する。いわゆる業(ごう)。
 http://www.etymonline.com/index.php?term=karma&a …

§ 10. 日本語における  / m /

認定相として形容詞〔の語幹〕から動詞などを派生させるところの / m /。

(例16) ・ 浅い→浅め
・ 深い→ 深める・深まる 
・ 低い→ 低め
・ 高い→ 高める・高まる
・ 熱い→熱め (ただし cf. あたためる・あたたまる)
・ 冷たい・・・
・ 寒い・・・
・ 暑い・・・
・ 楽しい→ たのしむ
・ うれしい→ うれしむ(?)
・ かなしい→ かなしむ
・ つらい→ つらめ 
・ はかない→ はかなむ
・ よわい→ 弱める・よわまる
・ つよい→ つよまる・つよめる
・ とうとい→ とうとぶ 
  ( / m / ∽/ b /  ∵ さむい=さぶい;さびしい=さみしい)

§ 11 (例17)・はら(腹)-む=孕む!?
・ もと(元・本)-む⇒ 求める?
・ つと〔に〕(夙に)⇒ 努める・勤める (朝早くから仕事をおこなうの意)
・ かた(形)⇒ かためる(固める)

§ 12. なま(生)

(例18)・な:名
 > な‐る:成る
 > な‐す:成す

☆ ‐る / ‐す の / r / および / s / なる子音は きわめて一般的に自動詞・他
動詞をつくる一種のオノマトペである。

 > な‐ま:生(名を帯びたもののそのままの状態)
 ・ なまなま-し:生々し
 ・ なま-る:訛る
 ・ なま-め-く:艶めく ◾なまめか-し:艶めかし
 ・ なま-け:怠け

 
☆ さて みなさん 果たして ことばは オノマトペから出来てきたか?

A 回答 (2件)

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§1 訓釈詞(nirukti ニルクテイ)について

 A.インドの語源学的説明(Indian etymology , Sk. nirukti ニルクテイ)
 思想、哲学、宗教、すべての分野で、各用語が語源学的に解釈されながら、分解、解説を加えて内容を展開して来ている。それは正確な文法によるものもあるが、多く語源学風と言われる語呂合わせや、こじつけ的解釈が多い。それは、常識であるから、一々断りもないし、学問的に誤った解釈と言われることもなく各典籍を充実させてきた。
辻直四郎氏は、「現在より見ればブラ-フマナ文献中の語源説明(nirukti)は、言語学的に殆ど無価値といってよい。その外形のみを捉えれば、最も奔放な通俗語源と比較しても遜色がない。しかしこれはウパニシャッドを含む古代梵語散文の1特徴であり、古代の瞑想家にとっては、これにより事物の真相に直参せんとする真剣な説明法であり,彼らの教義の一部であった。」(註1)と言われている。
 私はよく例に引くのであるが、「ごろ ごろ ごろ」と我々に聞こえる雷の音は、インドでは、「ダ ダ ダ」と聞こえるというか、そう聞くのである。 その雷の音は、天の声として「 ダda,・ダda,・ダda」であって、「ダda」は「制せよ(damyata)」、「与えよ(datta)」, 「愛せよ(dayadhvam)」(ブリハドア-ラヌヤカ・ウパニシャッド   BAU.Ⅴ,2,3 )なのである。また、「心 (hRdayam)」は「(hR-da-yam)」と分けて解釈し、「abhihar(√hR)anti」(供養する)、「da→√dA(布施するdadati)」、と、このように自覚し布施を実践した者は死後、幸せに天界に往く(ya-eti(√i)」(ブリハドア-ラヌヤカ・ウパニシャッド BAU.Ⅴ、3,1)と解釈する。
 これは、今日、日本佛教でも、授戒の時の説明にも伝わっている。戒体が戒の受者に入るという説明の時に、戒体は天空の方から降りてきて受者の体中に入り、戒体発得するという説き方があるのは、この伝統的解釈を仏教も受けているからであろう。いわば天の声と言うべきか。『授菩薩戒儀則』(註2)「第七正受戒者・・・  第一羯磨時(作動)十方世界(新本、湛然本は法界)一切境上、戒法振動。第二遍之時(羯磨)(作動)・・・戒法従十方如雲来集戒壇之上。第三遍之時(羯磨)所集戒法従空而下 従受者頂入満身中已。(菩薩戒体発得」) 云々の淵源である。
 経典自体に、ニルクテイの文字が現れないのが多いが、『法華経』、『華厳経』には、経自体の内容が、ニルクテイイで展開していくことが多く、経文中、対応の梵文では、niruktiの語も登場する。しかも術語として注意されていない。後代になると、ニルクテイは、訓詞、釈詞、訓釈詞、言辞と訳されて経文中に出る。《法華経》については次の如くである。


平成12年12月2日 於大正大学 日本仏教文化学会講演要旨
訓釈詞(nirukti ニルクテイ)について

真野龍海

http://www.evam.ne.jp/tenkoin/data/study06.html

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ニルクティはともかく、

オノマトペということで

ウパニシャッドのda da daは
雷の音らしい。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ニルクティ
☆ は知りませんでしたが 連想ゲームのような――自由勝手な――
語源さがしみたいですね。

オシヘにつなげて語源ゲームをやるのは 空海や親鸞も同じようにや
っていたのではなかったですか。(それは 漢文の許容度のもんだい
でもあるようですが)。



★ ウパニシャッドのda da daは 雷の音らしい。
☆ のですか。ここからは 通常の語の派生は あまりないですかね。

ゴロゴロは コロコロとともに ころ(転)ぶ や ころ(転)がる
があり得ます。



▲ タターガタ(如来)
☆ には 別のニルクティがあるとは どこかで聞いたような。

お礼日時:2016/07/13 10:49

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Évangile selon Jean

Jean 1

1.1
Au commencement était la Parole, et la Parole était avec Dieu, et la Parole était Dieu.


http://vargenau.free.fr/bible-segond/43.Jean.html

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ルイ・スゴン(Louis Segond, 1810年 - 1885年)は、スイスの神学者。ヘブライ語(旧約)およびギリシア語(新約)の原著をもとにフランス語版の聖書翻訳を行ったことで知られる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ルイ・スゴン

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ルイ・スゴンとかいう人が訳した聖書なのですが、


la Parole で女性名詞になっているのが
意外な感じがしました。

聖書の読み比べはしていないので
どうのこうのいうことはないのですが、


ギリシャ語の logos は男性名詞

ラテン語の verbum は中性名詞

フランス語の parole は女性名詞


父なる神、そして子なる神はイエス・キリストでしょうから
男性と考えられるでしょうけれど、

これだけを読むと

神は男性から中性に、そして女性になってしまったのかと
言いたくなったのであったが、

別に名詞の文法上の性が、名詞が示す事物の性までは規定しないのでしょうね。

海は女というわけではない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

それぞれの言語の違いや単なる文法じょうの問題である以上に・
あるいはそれとは別に 神観の問題があります。

つまり 神に性はありません。自然の性も文法じょうの性も社
会関係じょうの性からも自由な場(または チカラ)です。

ロゴスや言葉という語で仮りに表わした――だけのことです。

シルシです。

シルシを超えて――シルシとしての言葉や表現の問題に縛られ
ずに―― ≪わが固有の時≫にあって心の奥底なる何か・そのそ
れでもナゾなる何ものかを思ってみる。

しかも・つねにそのあたかも旋回するわが思いや心は たとえ
もしそのナゾに行き当たったとしたら・そうだとしても 簡単
に突き放されてしまう。はずです。

ナゾなのです。


この質問は そうではなく 人間の言葉について問い求めるも
のです。



父なる神 子なる神といった表現は あくまで仮りのシルシで
す。

光源から光が出るというタトへのごとく あたかも親から子が
生まれるというタトへです。

精神が精神すると考えると 記憶が記憶するとき そこからそ
の知識や情報が生まれる。つまり 知解が成る。

司法という倉庫もしくは 法の精神というべき場があって み
づからがみづからを起こす。そのとき 具体的な法律が得られ
る。立法が成る。

いのちはとうといという司法の場がある。そこから――その法
の精神がみづからユラギを起こし―― なんぢ ころすなかれ
という律法を生む。これを 具体的な法律とする。生命に危害
をくわえたなら その身は拘束されると。

あとは 光の明るさや温かさのごとくに 聖霊が発出され 意
志の行為があり 政治は愛であるというかのごとく行政が執り
行なわれます。治安に当たります。

神にかんしては ぜんぶタトヘです。
しかも 人間とその社会は 神とのカカハリがある。のではな
いかというのが 神論です。

お礼日時:2016/07/12 07:27

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