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親孝行の孝という字について。
以下Wikipedia引用。

孝(こう)とは、子供が自身の親に忠実に従うことを示す道徳概念。

儒教の信奉者が、それを徳目と認識するものの一つ。身近なところから段階的に進められる儒教の徳治において、まず家庭で守られるべき徳として「悌」とともに重視された。「孝悌」と併用され、「孝悌は仁を為すの本」とされる。後述するように、他の宗教にも類するイデオロギーが存在する。

現代では、子供を一方的に蔑む概念だ、「子供にとって有害な親(いわゆる毒親)はいない」という虚妄や、親への絶対の服従を促す概念だとして、否定的にとらえられている見解がある。

引用おわり。

親孝行について、私もWikiに書いてあるとおり否定的な捉え方をしています。するのが当たり前のことだ、善行だ、というトーンで語る人は自分が子孫に大切にされたいだけなんじゃないかと思います。違うんでしょうか?

A 回答 (3件)

お礼ありがとうございます。



私は偽善者なので、良く判りますが、本心は「さもしい」部分も多分に含んでますね。
ただ、偽善者の道を歩むのは、案外、大変で・・損得で言えば「損」かと思いますよ。

すなわち、内心の「立派な人格だと思われたい」と言う動機はさもしいものの。
かと言って、そう言う内心や本性は、他人に曝すワケには行きません。
内心が見抜かれたり、本性を曝した瞬間に、「偽善者」のレッテルを貼られ、動機とは正反対の結果となってしまうので。
おまけに、ちょっとした悪行が発覚しても、「立派ではない」となってしまいます。

従い、偽善者の道を選べば、死ぬまで本性を覆い隠して、善人のフリをし続けねばなりません。
死ぬまで善人のフリをして、概ねの人にバレずに生きられたら、「果たして自分は偽善者か?」と、ちょっと悩むところではありますが。
いずれにせよ、そんな過酷な道を、子供に勧めたいとは思わないなぁ。

ただ、そもそも親孝行やボランティアなんてのも、そんな大層なこととも思っていません。
たとえば、電車で、お年寄りに席を譲ってやるだけでも、立派なボランティア精神かと思いますが、実際は悪性の人格である私でさえ、ヨボヨボのお年寄りが立っているのを見かけたら、さすがに自発的に、「席を譲ってやらねば!」と思いますよ。

また、その程度のことでは、見返りも不要と言うか、見返りが得られるとしても、微々たるものでしょうから、無償で構いません。
この程度の「無償の優しさ」は、子供にも持って欲しいとは願いますし。
良性の本性は、覆い隠す必要もないし、覆い隠すべきものでもないとも思います。

私は子供のためには死ねそうですが、親のためになど、死ぬ気は毛頭ありません。
ただ、私の親も、私と似た様な気持ちの様なので・・・。
自分の命を削ってまで、親孝行をする気はないものの、私のために命を削ってくれたであろう親に対し、自分に出来る範囲のことはしようとは思います。

子供に対しては、基本的には好きに生きたら良いと思いますし、親孝行であることなどは、全く望んでません。
しかし、家族や恋人とか親友に対しては、「自分自身と同等か、それ以上に大事と思える存在を手に入れられたら良いね。」くらいには思ってます。

私が偽善者として生きてるのも、まあ「子供のため」みたいな部分も多い様な気もしますよ。
自分のためなら、もっと自由気ままに生きられます。
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この回答へのお礼

ひねくれてる私みたいなのにも歩み寄ってお話し頂いてありがとうございます。

私は、お年寄りにふと席を譲ってしまうことを善行と呼ぶのに抵抗を覚えるんですね。それは別に孝ではなくて、自分の方が若くて元気だと感じたらうしろめたくって、なんかゴメンネという気持ちで立ってしまうだけ。そうした優しさや気恥ずかしさは行動規範を覚えさせても身につかないんだから、親孝行なんて言葉をきくと別の何かが目的なのかなーなんて勘ぐってしまうんです。

そうじゃなくて単純に言葉をつかってる人が沢山いるのもわかります。お付き合いありがとう^^

お礼日時:2016/07/25 17:46

儒教を含む宗教的な教えというのはいわば


コンビニやファーストフードのマニュアルと同じです

とりあえず心は伴わなくてもこうしとけばよくね?的なもの
そういう意味では何も考えずに従っておけばいいんです
いいとか悪いとか考えるからおかしくなるだけ。
逆に従わなければクレーマーの攻撃対象になりかねません。

マニュアルを心ない単純作業として形式主義と考えるか
マニュアルをお客様の満足度をあげるものと考えもっと
さきのことを考えていけるかは質問者さん次第。
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この回答へのお礼

儒教は宗教ではなく、主に政治に利用されてきた思想だと思います。こうしておけば「誰にとって」よくね?的なものだとお考えなんですか。いいとか悪いとか考えず流されていくと政治に参加できなくなるだけですが、あなたはそれを推奨してるんですか?

クレーマーやお客様って誰なの?
ここただの質問サイトですよね。

お礼日時:2016/07/25 15:02

少なくとも私自身は、親孝行を「善行だ、というトーンで語る」部類ですが、「子孫に大切にされたい」と言う気持ちは、かなり希薄です。



基本的には「ボランティア」に近い様な感覚で。
ボランティアは、自発的に行うから崇高なのであって、他人から強要されてやるものではないでしょ?

それを自発的に行う様なメンタリティは、子供にも涵養したいとは思いますけど。
子供を立派な人格に育て上げるために、親が憎まれ役になることは、躊躇すべきじゃないとは思いますので、そう言う目的で、ボランティア的な行為を強要する様な局面は、あるかも知れません。
しかし強要などすれば、子供にとってボランティアは「嫌なもの」などになってしまい、むしろ逆効果かと。

あるいは、そもそも「孝」「悌」などの概念は、実は生易しいものではなく、かなり激烈な側面もあります。
中国の歴史書などを紐解けば、英雄である父親のために、子供が犠牲になる場面などは、それこそ「当たり前」の様に書かれ、親を生かすために犠牲になった子供は、「親孝行の鑑」の様に絶賛されているのですが。

でも生物学的には「真逆」が正しい姿かと思われ、子孫を残すために、親が犠牲になる様な種はゴロゴロ存在していますし。
私も、親が子供のために命を賭けるのは正しいと思いますが、子供が親の犠牲になるなど、愚の骨頂と感じます。

子供が自発的に、親孝行を「当たり前のこと」「善行だ」と思えるのは、素晴らしいことだし、それは恐らく、子供の幸福にも繋がると思います。
逆に、親が「当たり前のこと」「善行だ」と必死に教育し、その結果、たとえ表面的には親孝行でも、内心に正反対の様な感情があれば、親にとっても子供にとっても、かなり不幸なことではないですかね?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ボランティアにしても「崇高だから」「立派な人格だと思われたいから」するというのはさもしい気がしますが如何でしょうか。子供が周りから立派と言われるようになれば、それによって何か利益が生じて特するだろうから、そうなってほしいという事でしょうか。

私は、お金や時間に余裕があって人の面倒をみても困らないようなクラスの人間が、やってもいいしやらなくてもいいことだと思います。

お礼日時:2016/07/25 11:00

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