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" Angel Of Nanjing " (南京天使)という映画の予告編トレーラーを見て、わたしが真っ先に感じたのは「違和感」でした。

世界でも指折りの自殺者を出す南京長江大橋で、過去11年間(この映画の公開は、昨年2015年)この橋をパトロールし、これまでに300人以上の自殺者未遂者を助けてきた男性、Chen Si 陈思(陳思)チェン・スーさん。
彼は助けた人たちに寄り添い、衣食住を提供します。

けれども「果たして人は人を救えるか?」という疑問に立ち戻った時に、彼はいったいどのような「天使」なのでしょう?

以前、関西で、若者のホームレス支援をやっているベテランのNPOの主催者が、「自分たちに出来るのは、結局最低限の生活環境を整えてあげるだけ。でも人はそれだけじゃ生きられないんだよね。」と言っていたのを思い出しました。

極論すれば、

彼は「天使」どころではないのではないか?
「生きる」という刑を「彼ら」に科しているだけではないのか?

人は「死ね」という言葉に傷つきます。この言葉は「凶器としての言葉」の中でも殺傷能力の極めて高いもののひとつです。
ですから少なくとも「弱者に対して」は決して向けてはならない刃です。

一方で「生きろ」と命じること、またそれをサポートすることは無批判に「善」とされているようです。けれどもそれは無条件に「天使の行い」と呼べるだろうかという強い疑問・懐疑があります。

たまたま目の前で人が飛び込むのを「反射的に助けてしまった」ということはあるにせよ。
この世の扉を押し開けて出て行こうとしている人を押しとどめるということは、果たして「いいこと」なのか?

嘗てシモーヌ・ヴェイユは『不幸な人にしてあげられる最大のことは、彼らに関心を向けてあげることです』と言っていました。

けれども「関心」とはなんでしょう?それは「愛」ではない。

人はどのような条件下で人を救えると思いますか?

「結局善人気取りの自己満足でしょ」と切って捨てるだけではなく、ひろく人が人を救うことは可能か?ということに関してご意見をお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • 若干の訂正です

    人は自ら死んだりはしないものだという事実が存在しない以上。



    人は自ら死んだりはしないものだという大前提が存在しない以上。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/23 02:20
  • 「人が人を救うとはどういうことか」という問いが案の定、「自殺論」自殺の是非論に傾いていってしまったようです。
    そしてやはり「人は人を救うことができない」というよりも、わたしは人間には救われないという思いをとよくしました。無論神仏がわたしを救えないことは言うまでもありません。

      補足日時:2016/08/23 23:55
  • 主にNo.11 yy8さんへ

    いかなる神も特定の個人の肩を抱(いだ)くことはありません。

    マルクス曰く「神は個人には関心がない」

      補足日時:2016/08/24 00:07
  • お礼コメントは明日させていただきます。

    今夜はまたメランコリー(生の倦怠)= Ennui の発作のようです(苦笑)

    PS.(ニャンポコリンさん、ごめんなさい)

      補足日時:2016/08/24 01:00
  • >生を放棄する人はつまり寄る辺のある人だというのがわたしの感触ですよ。だから周りは、あの人が何故自殺したのかと悩むことになる。わかりやすい理由ではない次元で問い続けることになるんです。

    寄る辺がありながら自殺するというのは、それが最早寄る辺に成り得ていないからではないでしょうか?
    言うまでもなく、寄る辺とは、上辺の家族や貯金残高や世俗的な地位や肩書や取り巻きではありません。
    >だから周りは、あの人が何故自殺したのかと悩むことになる。
     ような「周り」はそもそも「寄る辺」でしょうか。

    「自殺しても 悲しんでくれる人が誰もいない だから私は自殺するのだ」

    夢野久作 『猟奇歌』より

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/25 15:50
  • >悲しむ人が居ない、と言うが、それは嘘ですね。他ならぬ自分を悲しませているのだから。自分も他人も悲しませない、そういう生き方をするなら、その人はきっとしあわせになれるでしょう。

    好き好んでかなしんでいる人がいるのでしょうか?

    「自殺しても悲しんでくれる人がいない」ことは悲しいことではありませんか?

    と言いながら、わたしは天涯孤独の身で生きておられるたくさんの人たち(主にお年寄り)の生を貶める気持ちは微塵もないと急いで付け加えておきます。ただ、わたしがそういう境遇に堪えられないというだけです。

    ご回答をありがとうございます。

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/27 01:18
  • ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、わたしは精神障害者で、精神科通院歴23年になります。行く先々のカルテの上に「希死念慮」と記入される人間です。ですから「自殺論」を客観的に論ずることが出来ません。自殺を否定されることは、そのままわたしの生き方を否定されるように感じてしまうのです。そういう意味で、唐突に質問が打ち切られることがあるかもしれませんが、予めご容赦、ご了解をお願いします。

    また「この生命(いのち)誰のもの?」というテーマであれば、最先端医療による「延命措置」と「尊厳死」「安楽死」の問題も絡んでくると思います。このような視点からの「救う」とはどういうことか?というご意見もお聞きしたいところです。

    「生きていればいいことがある」「かも」は「意識が回復する可能性もゼロではない」「かも」とどう違うのか?ひたすら「可能性」を追い求めることがいいことなのか?「尊厳死」は自殺の一種か?等々。

      補足日時:2016/08/27 01:43
  • 1週間以上にわたりお付き合いくださってありがとうございました。今日・明日中に締め切ろうと思います。回答への返礼がだんだん精神的な負担になってきたことと、50近く寄せられた回答によって得られたものは、「あなたと話が合うのは千人にひとりだよ」という主治医(精神科)の言葉がやはり間違ってはいなかったという事実でした。無論主治医の言葉に疑問を持っていたわけではなく、むしろ当人としては千人にひとりというのはちょっとアマイんじゃない?とさえ思っていました。そういいながらも「やっぱり」という静かな落胆、そして諦念が胸の中に波打っています。そして静かな諦念というものも決して悪いものではないという、微笑みたくなるような感情もあります。締め切るまではこれまで通り回答、ご意見をお受けしています。お礼が簡素になるかもしれませんが。。。

    改めて、すべてのご回答を頂いたみなさんに、どうもありがとうございました。

      補足日時:2016/08/30 12:26
  • >生きている間にその人生を全うする、つまり死が終止符ではなく、自分の納得が終止符になるということ。

    これは上で述べた、「死の選択」は「生の選択」であるということに繋がっていませんか?

    あほなさんのことだから、わたしと自死について同意見のはずはありませんけれど、(苦笑)

    >可能性の問題ではなく、その人が人生において何を求め目指すのかという話と、何処に至ったのかという結果の問題になると思います。

    これはまさにわたしの自死観に見事に重なるのです。

    >少し長くなってしまいました。

    ので、お礼に手間取りました。

    重ねて、ありがとうございました。

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/30 16:15
  • みなさん、どうもありがとうございました。

    頂いた回答、ご意見に対して、必ずしも冷静に返答できなかった部分も多々ありましたが、ご容赦、ご理解ください。

    BAは最後にお答えいただいたyy8さん。「必要なのは友達」という甚だ哲学的ではない「正解」に送ります。

    これ以上開いているのは「蛇足」の領域に入ろうという判断で、締め切りました。

    重ねて、お礼申し上げます。

    GR

      補足日時:2016/08/31 03:34

A 回答 (57件中1~10件)

回答№41に、どのような感想を述べるのだろうかと、興味を持っていました。



>「人を救うということの根底に、そのことによって自己が救われているという感覚がなければ、救うものと救われるものの間には対等ならざる隔たりがあるように思います。」

対等でなければ"救う"と云う事は出来ない、という表現は言葉を変えれば対等とは"友達でなければ"と云い変えられるかと思います。

"友達"でなければ救えない。
Grassさんの"求め心"は共感だと思うので、

さらに言い換えれば、
共感=救い

これがGrassさんの求め心の正体、だと思いました。
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この回答へのお礼

こんばんは、yy8さん。

わたしが最初にyy8さんと言葉を交わした質問、「言葉が通じるとはどういうことか?」だったかな?その時にyy8さんが、「結局求めているのは友達ですね」と、甚だ哲学的ならざる回答を寄せてくれて、「その通りです」というわたしの反応に、回答したyy8さん自身が驚いていた、ということを思い出しました。

勿論、お腹がすいて行き倒れている人や、いろんな事情で困っている人、言葉は悪いかもしれませんが、「ぜに・かね」で救える人を救うことは文句なしにいいことだし、そのことを躊躇うことはないと思います。
けれども人の魂は「ゼニ・カネ」では救えない。青臭い言葉でいえば、「愛」=生身の人間の愛情・関心が心の中に注がれてはじめて人は再び生きることが出来るのだと思います。

わたしはyy8さんと違って、日本の歌はほとんど知らないのですが、英語のラブソングはよく聴きました。

『デスペラード』(日本題「ならず者」)という歌の歌詞の最後に、

You better let somebody love you, before it's too late...

というフレーズがあって、好き、というか憧れです。ラ・マンチャの男じゃないけど、「見果てぬ夢」(Unreachable stars ) です。

若いころから、この"Before it's too late..." というフレーズを聴いていた。そして最早 It's too late...なんだな、と思い始めています。(もう50代だからね)

>共感=救い

>これがGrassさんの求め心の正体、だと思いました。

まあ、正解ですね。

わたしの問いって、それほど哲学的じゃないですね(苦笑)

いつもどうもありがとう。

お礼日時:2016/08/31 01:13

しばらく見ていませんでした。


私が自殺の是非を書いてから、流れが少し変わったかもしれませんね。
かと言って、反省しているわけではありませんが。

かなり落ち込んでいました。強気を身上といているつもりの私ではありますが、
近頃の悩みは実は深刻です。
人が信じられないし、人が嫌いになってます。信じられないのは昔からですが、
嫌いにどんどんなってゆくのが苦しいですね。
嫌いな人間の住む社会のために何故努力しようとしているのか俺は?

何か変えることができても、社会はどうせ私を認めないでしょう。皆自分の手柄
にしようとするでしょう。そんなことも分かっています。
分かっているのに何故逡巡するのか?

分かっていないんだよね。人間は盲信なんかできるものではない。深く納得しな
きゃダメなんだね。そういう意味で、今私は「正念場」なのだろうと思う。

G.Rさんとは悩みの内容は違うけれども、「深刻さ」においては同じなのかと思
った。そう考えると、妙な親近感が芽生えてくるもんですね。


「人が救われる」ということはいかなることなのか?
人は死んだらどうなるのか?

論証的思考で、これらの答えが見つかるのか?
今の私には分かりません。
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この回答へのお礼

こんばんは、ニャンポコさん、

しばらく(?)見なかったので、わたしのお礼で気を悪くしたのかと気になっていました。

>G.Rさんとは悩みの内容は違うけれども、「深刻さ」においては同じなのかと思った。そう考えると、妙な親近感が芽生えてくるもんですね。

うーん。わたしは単に「深刻がっている」だけかもしれないし、ニャンポコさんのほうがもっと深刻なのかもしれません。

わたしだって例外ではなく、人って、この回答のような「悩み」をきくと、なにかわかったようなことをいいたくなるものですね。だからわたしはこういうサイトでも、人生相談のようなコーナーに回答はしない。それこそ自分が生きることさえ大変なのに、人に何が言えるのか?(苦笑)2007年頃、Okwebにいたころは時々「メンタルヘルス」のコーナーに回答もしていたけれど、今は無理ですね。経験を積めば積むほど、自分の無力さ、愚かさがよく見えてくる。(苦笑)

>「人が救われる」ということはいかなることなのか?
人は死んだらどうなるのか?

>論証的思考で、これらの答えが見つかるのか?
今の私には分かりません。

わたしの質問では、大体、普遍的な答えというよりも、個人的な答えを求めています。
そしていただいたいろいろな意見を参考にして、じゃあ、わたしが「救われる」ってどういうこと?と、
改めて考えてみる。そういうコミュニケーションです。

お話しできてよかったです。

どうもありがとう。

お礼日時:2016/08/31 01:31

見てください。

こんなにスレッドが伸びています。これは、あなたが各回答に誠実に応答している結果です。しっかりしている人に、しっかりと生きろなんて言う私の頭はどうかしているのかもしれません。
おそらく貴方は十分に生きてきたのでしょう。愛には恵まれなかったかも知れないが、それは自ら愛を示す事で、他者を満たすということで、解決の道がまだ残されている様に思えます。貴方にはそれができると思います。
しかし、仏教的な価値観に触れてきた私は、愛は知っていてもそれにしがみつかない、溺れない、さらりとした触感、そう言うものを良しとしています。それは漂流に見えるかも知れませんが、安らぎへの流れの内にあるものなのです。

愛なき世界に人は生きられるか、主張が逆転してしまいましたが、遠離のこころを生じて安らぎを目指す人は、愛があっても無くても生きることができ、愛を求めて彷徨う人は、愛なくしては生きるのが難しい。もちろんグラスルーツさんはその生き難い方を選択されるのだとは思いますが。。


青い鳥の話、了解しました。もっともだと思います。しかしこの青い鳥は、愛を求める貴方にとっては、その胸の内に秘められている様に思います。その翼を解き放つならば、きっと誰かは振り向いてくれるでしょう。その誰かは、貴方に癒される人だということです。

一つ気になるのは、高校を卒業して以降、世界から疎外され続けて来たという事です。これは、例えば何度も異性に告白して振られ続けて来たという事でしょうか?或いは就職出来なかったとか。それとももっと精神的な事柄でしょうか?

お返事下さりありがとうございました。また、お時間よろしい時にお返事くださると幸いです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

いえいえ、「奇跡のレッスン」には到底及びませんよ(笑)それに回答者、そして回答の質が全てです。

実際のところ、じゃあ君の求めている愛ってどういうもの?と聞かれると言葉に詰まってしまいそうです。
何故って、それこそ「恋に恋する」ような感じではないかという気もしないではないからです。

あほなさんも回答している、瀬里香さんの「怒りという感情はありますか?」ではないけれど、「愛」っていっても具体的にはなにを「愛」と呼んでいるのか?「エロス」(性愛)ももちろんあるでしょう。「友情」もそうでしょう。HUGのような日常的なさりげない触れ合いもそうでしょう。「ふれあい」じゃないけど、「慰めも涙もいらないさ、ぬくもりがほしいだけ」かもしれない。そして先の瀬里香さんの回答にあったように、3Pのpet、Plant(動物・植物)で充たされるのかもしれない。
一つ目のP、People(人間)は案外人生を複雑にするだけかもしれない。

要するにわかってないということです。(家族以外の外部の存在)を「愛したこと」も「愛されたこと」も、多分、ないから。

世界からの疎外というのは、やはり精神に障害を持っていることが大きいと思っています。何処へ行っても仕事の憶えは悪いし、同僚と上手くやれない。異性は、自分に全く自信がないので、ほとんどアプローチをしたことがありません(苦笑)恋をしたことがないので、手ひどい失恋の経験もない。え、SEX?ありますよ、何度も、ほとんどまだ健全な出会い系サイトが当たり前にあったころ、いろんな女性と出会い、一夜を共にした。
でもそれは愛じゃない。相手もまったく同じ気持ちだろうけれど、慰めですらなかった。
そういった「挫折体験」の積み重ねが今のわたしの価値観を生み、ビターな人生観を築き上げたのです。そしてそれは誰のせいでもなく、愛されざる者として生まれてきた者の宿命だと思っています。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/31 02:12

>なんだか牧師さんのお言葉のようですね。



いいえ、精神科医療の現象学派の一部の人が使う言葉です。

>「知」は人を救えない

本は「共感」するもので、読書は「体験」の一種です。
「知」というのは、くしゃくしゃに丸めて呑み込むようなことになってしまい、それを巷ではくそくらえと言うんじゃないのかな。

あまり先のことは考えずに一日一日、ネットの談話や音楽や美術などを楽しんでください。
入っている卵を割れば中のあなたは死んでしまうでしょう。ちょっと目が覗いてて外界から見ると感じの悪い卵かもしれませんが、その殻には意味があったと思います。あなたはまだ生き続けています。それなら、生は一日でも長い方がいいです。一日でも。一分でも。それだけです。理由は数学と哲学を駆使した難解な話なので割愛します。
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この回答へのお礼

こんばんは、

>生は一日でも長い方がいいです。一日でも。一分でも。それだけです。理由は数学と哲学を駆使した難解な話なので割愛します。

助かります。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/31 02:19

何で人は、簡単に締め切るんですか?愛が生涯のテーマだと、するなら、そんなに、簡単に締め切れるのは、どうしてですか?。

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この回答へのお礼

こんばんは。

締め切る理由は、補足にも書きましたが、寄せられた回答を読み、それに(自分なりに誠実に)返事を書くことに、こころの負担を感じるようになったからです。自分の気持ちに正直に書けば書くほど、周囲との隔たりは広がってゆく。

それにわたしは古いタイプの人間で、人間存在の根源的な問題を・・・いや、そうではなく、最早個人的な(人生相談的な)問題となってしまったこの質問を、インターネット上でいつまで話していても結局は徒労であろうと考えるからです。

愛は生涯のテーマです、それならば直に人と向き合って対話し、自分で本を読んで考えればいいのだと思います。
生身の人間と話すことなく、本を読む時間を削ってまで、ネット上で愛について議論をすることに、さほどわたしは重きを置いてはいません。あくまでわたしの個人的な感想ですが、あまり自分に近すぎる話題は、ネット上の議論には向いていないと感じています。

開いているうちは、ご意見をお聞きします。

ありがとうございました。

お礼日時:2016/08/31 00:23

こんにちは、blueさん。

(*´▽`*)
ちょっと場所をお借りしますよ。



主に44番のyy8さんへ。
僕はたぶんポジではなくネガだし、コンセントリックではなくエキセントリックです、だぶん。しかし、ポジでコンセントリックなふりをする習慣を、僕の歴史の中で、たまたま僕は身に着けたのだと思ひます。僕はそのことを喜ぶわけでもないし悲しむわけでもありません。6番にも書いた通り【ふうん。】【だから何?】という思ひで僕は僕を(僕の歴史を)肯定してゐます。



>主観的な時間は常に「現在と過去」を含んでいるよ。
:うん、そうだね。僕は僕の歴史の中を通過した人たちに静かに感謝してるよ。




そういえば回答をまだ書いてなかったね。

>人は人を救えるか?
:はい、救えるよ。
きっかけぐらいはこっちで作ってあげる(by 中森明菜:少女A)という程度だけどね、でもきっかけを作った人は自殺志願者ひとりひとりを信じているのだと思ふよ。【ヒト】という生きものを信じているのとは少し違って、目の前の自殺志願者ひとりひとりを信じているのだと思ふよ。【信じる】の他に【期待】【甘え】なんかも入ってるとは思ふけどね。だから裏切られて絶望したりなんかもしてるんだと思ふよ、きっかけを作った側は。


>愛なき世界 
:僕はこの世に【愛】が無いとは思ひません。僕みたいな壊れ物が42年も生きてゐるのですよ。他に説明が要りますか。始めは母親が僕に母乳を飲ませ、父親が僕の生活費を稼ぎ、僕にメシを食わせ、僕を学校に通わせた。これだけで【僕はじゅうぶんな愛を注がれた!】のだろうなあと思ひます(他人事のやうになつてしまふのは僕は父も母も大嫌いだから想像でしゃべつてゐますという意味です)。
僕はそれから職場の仲間や近隣住民と交わり、それから娘と息子が僕を笑わせてくれたのでした。僕が撃沈して酷いツラで出勤しても「おはようございます!」「こんにちは!」と挨拶する相手がいるというそれだけで、単細胞な僕は充電され、今日も生きていようと思ふのでした。


過去の話を何度もするのは好きませんが、僕が音信不通になったとき(=閉鎖病棟に保護されたとき)、ぶらじゅろ~ぬさんや、眠り猫さん、たすてんかすてんさん、ぷらぽたさん、雨合羽さん、美子さんが、あちこち探し回ってくれたのでした。
僕がそのことを知ったのは病院から時間制限付きの外出許可を得て1ヶ月ぶりに自宅に帰りPCを開いたときでした。保護されたのだから、僕は自分が入院したことを人に伝えるヒマもありませんでした。僕は涙を流しました。申し訳なさの涙と嬉しさの涙と半々。


>愛なき世界
:やはりあなたがそのように世界を眺めるなら、6番にも書いた通り【ふうん。】【だから何?】と。



お付き合いいただきましてありがたうございました。こちらもご批判や反論は質問が〆切られるまでどなたさまからでも受け付けますのでよろしくお願いいたします。
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この回答へのお礼

>僕はこの世に【愛】が無いとは思ひません。僕みたいな壊れ物が42年も生きてゐるのですよ。他に説明が要りますか。始めは母親が僕に母乳を飲ませ、父親が僕の生活費を稼ぎ、僕にメシを食わせ、僕を学校に通わせた。これだけで【僕はじゅうぶんな愛を注がれた!】のだろうなあと思ひます

40年近く独房にいる確定死刑囚がいます。独房で、40年近く、ただ、死刑になるのを待つだけの状態で生きています。死刑にするまでは絶対に死なせません。自分たち=国家の手でくびり殺すまでは決して死を許しません。これも歪んだ愛でしょうか?

>僕はそれから職場の仲間や近隣住民と交わり、それから娘と息子が僕を笑わせてくれたのでした。僕が撃沈して酷いツラで出勤しても「おはようございます!」「こんにちは!」と挨拶する相手がいるというそれだけで、単細胞な僕は充電され、今日も生きていようと思ふのでした。

そういう人(たち)は、わたしにはいません。

>僕が音信不通になったとき(=閉鎖病棟に保護されたとき)、ぶらじゅろ~ぬさんや、眠り猫さん、たすてんかすてんさん、ぷらぽたさん、雨合羽さん、美子さんが、あちこち探し回ってくれたのでした。

それはあなたが、「愛される人」「与える人」(彼ら、彼女らにとって)「意味のある人」だからという単純な理由からではありませんか?

>僕は涙を流しました。申し訳なさの涙と嬉しさの涙と半々。

よかったですね。

お礼日時:2016/08/31 02:27

★(№50お礼欄) いえ、わたしは雨がっぱさんでもぶらじゅ


ろーぬさんでも、一定の信奉者がいることも知っていますし。
☆ ≪信奉者≫と表現したことで 一種の名誉棄損にあたるおそれ
が出たと理解します。
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この回答へのお礼

だから勝手に通報すればいいでしょう?

お礼日時:2016/08/30 14:46

★(№49お礼欄) そしてやはりことし春の幾つかのOKwebで


の「国語カテゴリーマスター」と呼ばれていた人との果てしのな
いやり取り、ぶらじゅろーぬさんは繰り返し繰り返し繰り返し、
ハコブルさんやカテゴリー・マスターに説明しておられましたが
相手は結局わからないままうやむやになりましたね。
☆ (1) 日本語についての文法をめぐってあたらしい理論を
提出した。説明をしても 理解されなかった。

これは それだけのことです。文章が理解されないのではなく
理論が迎えいれられなかったという問題です。ふつうのことです。

(2) はこ氏については そのほかにある事例についても触れ
ます。
こちらの言い分としては≪ばかの壁≫が理解を阻んでいた。という
説明です。あちらにはあちらの言い分があるのでしょう。

つまりこの場合は ≪神論≒信仰の理論≫の問題です。

ジャンルも違い理解の性質も違う例をわざと出して譬えるならば 
ゴッホをただちに理解せよ さもなければ文章ないし絵画作品が
成っていないと言われても仕方がない。――という見方を通そう
という批判の仕方です。こわくありません。
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この回答へのお礼

いえ、わたしは雨がっぱさんでもぶらじゅろーぬさんでも、一定の信奉者がいることも知っていますし。
誰からも理解されなければそもそもここにはいられないはずですから、(わたしなどはさしずめその一人でしょうけれど)理解されにくい一面があるし、またわたしも多くの場合お二人の文章は大変に難解であると思っています。

この話はここまでにします。お詫びはしたはずですし、残念ながら自分でお礼の編集ができませんので、風評被害をご懸念、或いは不当な批判であると思われるのであれば運営へ通報されることをお勧めします。

お礼日時:2016/08/30 14:37

文章が読み取りにくいという問題ですが。



★(№46お礼欄) ぶらじゅろーぬさんの文章が理解が難しいと
いう反応をいくつか見てきたといっただけです。
☆ そういうコメントはほとんど全部と言ってよいほど では具体
的にどのようにかは 触れていないはずです。

(触れている場合には わたしからさらに説明しています)。

ですから 結論でも何でもないうわっつらの結果を そのまま触れ
るのは フェアではありません。

批判をすることは まったく問題ないのですから そういう書き込
みとして触れて欲しい。ご自分も 批判を述べるというかたちで触
れて欲しい。

これは ふつうの物言いであると思います。
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この回答へのお礼

>そういうコメントはほとんど全部と言ってよいほど では具体的にどのようにかは 触れていないはずです。

いえ、過去10年ほどのやり取りの中でも結構ここがわからないというやり取りを見ていますよ。

例えば今年冬から春にかけての複数のハコブルさんとのやりとり。
そしてやはりことし春の幾つかのOKwebでの「国語カテゴリーマスター」と呼ばれていた人との果てしのないやり取り、ぶらじゅろーぬさんは繰り返し繰り返し繰り返し、ハコブルさんやカテゴリー・マスターに説明しておられましたが相手は結局わからないままうやむやになりましたね。

「父の死」というのが創作だと聞いて感心しています。

あれだけの文章が書けるのに・・・という思いです。

お礼日時:2016/08/30 14:07

№40を承けます。



★ 「寄る辺を失う」ということは不思議なことではないはずです。
☆ ≪失う≫には 受け身の場合とおのれの意志行為としてみづから
そうする場合とがあります。

受け身の場合にも そのことに甘んじるというみづからの能動的な
意志行為が――未練問題を別とすれば―― あとでともないます。

≪むつかしく考える≫のではありません。 
また≪寄すがを失くすことは 生活現実の基軸から外れることです
から 現実原則の乱れないし崩壊≫についての話でありそうとすれ
ば ≪芸術的感興≫の問題として考える主題です。



しかし問題の中身は かんたんです。
★★(№29お礼欄) ~~~~~~~~~~~
もうお互いに差し出す手も差し伸べる手もないと知った時に、〔い
とまごいをすることによって〕「情が移る」ようなことをすれば、
結局双方が辛い思いをしなければなりません。

言い換えれば、情があるから言葉を掛けないのではないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これによりますと 次のように整理できましょう。

1. ≪寄る辺を失ったと自覚したそのあと なおいとま乞いをする
余地が残っている≫という見方である。

2. ≪いとま乞いをすると 失った寄る辺なる親友とのあいだにそ
の人情や友情や現実原則なる心がよみがえるかも知れない≫と見る心
がある。

3. そこで ではその自死選択者はなぜ言葉をかけなかったか?
――それは ≪情がよみがえる可能性があるだけではなく なお情が
あるから≫だという見解である。

4. 以上のように整理しうると考えるのですが わたしの見方と
しては (3)において異なります。

5. すなわち かんたんです。≪なお情があるから もう・なお寄
る辺に返り咲くかも知れない親友には声をかけず顔を見ないという。
だとすれば それはそのように自分が決断した≫ということです。

6. ≪いとま乞いをせずに自死の行為におよぶのだけれど 情がな
お蘇えり得るという思いがあり・しかも実際になお残っている。その
ような現実原則にもとづく心が残っている。そのとき この現実原則
なる心をみづからがころした。のである。だから 失くした≫と見ま
すし そう見るよりほかに見方はないでしょう。

7. すなわち こうです。≪自殺しても悲しんでくれる人がいない≫
とは思っていない。けれどもその思いをみづから振り切って 自死を
えらぶ行動を起こす。です。

8. たぶんあなたの場合には この≪情のかよう生活現実の場を去る
という親友に みづからへの信義をやぶる許可をあたえた≫のだと。

9. けれども 自死の道は 信義をやぶることに変わりはありません。

10. このように考えるわたしの立ち場は 次のようなのでしょうか?
★(№40お礼欄) ~~~~~~~~~~
言い換えれば、確固たる「自我」が常に自己を制御・コントロールし得
るし、苦痛から逃れるために自死するということを、「一種の殺人」で
あり「信義にもとる」という現実原則の見地から、人はそれを断念・回
避したり延期したり、または迂回したりしなければならないという立場
です。
~~~~~~~~~~~~~~~~

11. むしろ自死者こそが ≪情を振り切り友情をみづから壊すこと
になっても仕方がない≫という≪自我の人≫なのではないでしょうか?

12. おのれという人間をころすのだという強い自我に立ち 人とし
ての気持ちや心の持ち主たる自己を制御・コントロールし得ると見てい
るし それを実行したのは 誰か?

13. わたし自身は 現実生活たる場に未練があるので みづからを
よう殺さないというだけのことです。≪自殺を断念せよ・延期せよ≫など
とは ひと言も言っていません。

14. いまにも去ろうとする人に 一たんひととおり現実の世界へ引
き戻しそのわけを聞くことはするが それでも去るという場合には 好
きなようにさせる(ただし わたしの近所では避けてくれ)という立ち
場についてすでに説明しています。
★☆ Do not Judge my choices, without understanding my reasons...



15. ★ (№40お礼欄) 優れた映像作品や文学は現実原則を破
ります。ゆえにそこに感興が生まれます。
☆ そうではありません。その生活現実から離れたという事情を描きそ
れについて 実際の現実原則のあり方を問うているのです。信義を破っ
た だから 万々歳! というような芸術はありません。

16. ★ (同上) 人間はイレギュラーな言動をするものです。そ
れを「理」に基づいて、「あり得ない!」と言ってしまえば芸術は不要
です。芸術的感興は疑似的な現実原則からの解放です。
☆ ここでは 現実原則が≪擬似的≫だという見方が 出て来ています。
ぢゃあ 擬似的でない生活現実もある(その理念的なあり方も可能性が
ある)と言っていることになります。

17. つまり 現実原則について細かく仕分けをしそれらの是非を問
う。そこに芸術的感興とともに文化的意義をも帯びる。

18. 安易な≪解放≫を描いたところで 人間の理性は満足しません。
≪イレギュラーな言動もあり得る≫と言いそれを映像で示したところで
人間の心は満足しません。

19. 人間が満足するのは しかるべき生活世界の構築とその場への
復帰です。

20. ≪現実原則を破った≫姿を映し出したから芸術的感興を堪能した
ととなえるのは けっきょく現実逃避であり それはいわゆる現体制を
擁護し 人びとよ 現状に甘んじよと説くことになる≪ガス抜き≫の立ち
場です。≪権力の犬≫というやつです。



★ ところで、先の「父の死」というのは誰かの小説の一部でしょうか?
それともぶらじゅろーぬさんの創作ですか?
☆ №24ですが おおむね実体験にもとづく創作です。それほど詳し
い話を聞いたのでもないので 推測を交えています。父の自殺と子ども
らの迷惑(文字どおりの迷い惑うこと)は 実話です。
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