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真田丸は、佳境に入ってきましたね。
ところで、その真田丸について教えて下さい。
1. 石垣は、造られたのでしょうか? (一見、土塁のようですが)
2. 工期は、どの位だったのでしょうか? (急いでいたのでしょうが)

A 回答 (2件)

1.石垣はないです。


2.幕府と大阪方が完全に手切れになった(外交解決の可能性が完全に消滅して事実上戦争状態になった)のは、片桐勝元が大阪を退去した1614年10月1日です。
  おそらく、この直前or直後くらいから真田丸構築が始まったと思われます。
  駿府記の1614/10/11日の項にすでに後に真田丸と呼ばれることになる出丸の構築の記述があります。
  ちなみに、真田信繁(幸村)が九度山を脱出したと言われているのが10/9日(翁草)、大阪城にいる武将として名前があがるのが10/14日(駿府記)なので、
  真田信繁の大阪に入城してから議論された話ではなくて、その前から、もともと、あの位置に出丸を作ることは計画されていたのではと思われます。
  大阪冬の陣で実際に戦闘が開始されたのは、11/19日の木津川砦の攻防なので、その時期までには一通り完成していたと考えてよいでしょう。
  工期は1ヶ月強といったところでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
石垣ではなっかったのですね。
以下、細かい月日から、実証して頂きました。定説(単なる巷の噂のようなものですが)では、真田丸は、信繁の発案、ということになっていますね。しかし、構築に彼は直接関係しておらず、
<もともと、あの位置に出丸を作ることは計画されていた>
のですね。信繁は、この出丸を任され、活躍したのですね。
<工期は1ヶ月強>
なのですね。重機のない時代には人海作業だったのでししょうね。

お礼日時:2016/09/22 09:04

1.有りません(土塁だと思います。

一部周囲に溝が有ります。)
2.わかりません(迅速に進められたと思います)

大坂城の最南端、幅200mの谷の対岸に築かれ
(武田信玄が築いた)海津城の丸馬出しを基本としながらも
一つの独立した城の役割や新しい機能も加えた
信繁の独創的な出城でした。
父・昌幸(武藤喜兵衛)を通じて、信玄の築城術が受け継がれていた事が面白いし興味深いですね。
【以上 『英雄たちの選択』(http://www4.nhk.or.jp/heroes/)を参照】

戦の前の心情、特に「夏の陣」の前の複雑な心情をどう表現するのか?
まだまだ楽しみが尽きませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
1.石垣、2、不明、なのですね。
真田丸の
<馬出し>+<独立した城>
は、実績もあったのですね。大阪方の中枢は真田を信頼(躊躇したかも)して、独立した城を築かせ預けたものなのでしょうね。ただし、真田は、自分の能力(戦術)には自信を持っていたのでしょうが、必ずも一枚岩ではない大阪方について、
<複雑な心情>
だったでしょうね。

お礼日時:2016/09/21 10:23

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