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古典落語に「あくび指南」という演目があります。
天下泰平の江戸の世、みながいつもファ~ファとやっているのは実は「駄あくび」で、
ある若い衆が、あくび指南所で、師匠にみっちり「正当なあくび」を教えてもらうという噺です。

実際に「本式のあくび」や「駄あくび」があるわけではありませんが、わたしたちが日常使っていて、生きてゆくのに不可欠な「道具」である「言葉」に関しては、その「道」というものはありません。言葉という、わたしたちが使用する見えない道具は、しかし時にひとを殺傷することも可能な「武器」でもあるのです。

「あくび道」はなくとも「言葉」に対するなんらかの「美学」のようなものがあってもいいような気がします。

そして同時に、向田邦子の言葉ですが、「悪態も含めて、持ってる言葉の辞書が厚い人の方が、その人生は豊かだ」ということも事実でしょう。

『シラノ・ド・ベルジュラック』を基にした、スティーブ・マーティンのコメディ『愛しのロクサーヌ』では、バーで、「鼻」を馬鹿にされた「彼」が、剣ならぬテニスのラケットで、無礼な男の特徴を巧みに皮肉りながらカウンターパンチを食わせてゆきます。「高度な悪態」はほとんど話芸であり、文芸、詩の領域に達しています。

また「ことば」と一言にいっても、その様相、相手に伝える形は、このような液晶画面に表示される文字であったり、手蹟 = (手書き)の文字であったり、または肉声であり、録音された声でありと様々です。「言葉の作法」として、便箋を選ぶこと、ペンを選びインクを選び、封筒を選び、そこに自分の手書きの文字を載せる。数日後、何処かでポストに見つけた「手紙」から、読み手は様々な情報を得ることができます。

・・・と、前置きはこのくらいにして、みなさんの「ことば道」、言葉という道具について思うところ様々、お聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • 「言葉を失った」「息をのんだ」というのはどのような状態のことをいうのでしょうか?

      補足日時:2016/09/24 03:05
  • どうでもいいことですが....地球上に初めて現れたはずの怪獣の名前を、科学特捜隊の隊員が「あ!バルタン星人だ!」などと叫ぶのはなぜでしょう?

      補足日時:2016/09/24 04:07
  • 言葉は人を傷つけることのできる「武器」。そしてそれはしばしば刃物に譬えられます。
    昔は人を「物理的に」切ることのできる「刀」を持つことは武家に限られていました。
    武家の子弟は刀の取り扱い方を習いますが、彼らのすべての師が、この物騒な人斬り包丁の取扱いに際しての精神的なモラル、佩刀する者の美意識を伝えたかは多く疑問の残るところです。
    また仮にそれが伝えられたとしても、切れ物の使い方は、畢竟使い手の心の在り様に任されるのです。

    人のこころに見えない傷を与えるのは、これまた目に見えない「言葉」という切れ物です。
    「武器道」を考えることは即ち「喧嘩道」を考えることでしょう。質問でも書いたように「悪態も芸のうち」です。落語の世界では悪態がポンポン飛び交いますが、聴く人の心持を陰湿にはしない。
    『山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し』、「悪態道」を考えると共に自戒したいところです。

      補足日時:2016/09/25 17:05
  • No.27、28で、引用した先の先の質問『人は人を救えるか』のリンクを貼っておきます。

    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9389486.html?pg=3&i …

    ご指摘、気づかれた点などありましたら教えてください。

      補足日時:2016/09/27 01:27
  • 「無理矢理笑わせようとするんじゃなく、聴いている人が思わず知らず、くすくすと笑ってしまう、それが落語だよ」と、柳家小さん(先代)は言っています。

    そうだとすると、枝雀師匠の爆笑落語は「邪道」ということになりそうですが、
    小さんの言っているのは「芸」、枝雀師匠のは「サービス」です。枝雀師匠は人を笑わせることで自分もハッピーな気分になりたかったのでしょう。

      補足日時:2016/09/27 14:54
  • 人間が成長すること、さまざなことを見聞きし、経験し、学んでゆくということは、その人独自のものの見方、スタイル、テイスト、ポリシーを持つこと、つまりはその人のカラーを身に着けてゆくことではないでしょうか?世界に対する己が色がなければ、アーティストは生まれません。

    言葉はそもそも無色=「無垢」であるとはあまりにイノセントな見方、感じ方ではないでしょうか?

    innocence のシノニム(同義語)に
    guiltlessness,「無罪」 blamelessness, 「欠点のない」freedom from guilt,「潔白」 freedom from blame, irreproachability, 「非の打ち所のない」clean hands 「穢れのない手」 
    ...等があります。

    生きていくことって、これらから遠ざかってゆくこと、穢れを身にまとってゆくことではないでしょうか。

    No.34の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/09/28 15:41
  • 主にyy8さん、 ciaopolpo2さんへ、落語と数学ということで思い出すのは枝雀師匠の「壺算」です。



    みなさん、たくさんのご意見をお聞かせ下さってありがとうございました。

    週末には〆ようと思います。

    今回もお付き合いくださりお礼申し上げます。

    よい週末、素敵な10月をお迎えください。

      補足日時:2016/09/30 17:41

A 回答 (44件中1~10件)

良いお話をいろいろ聞けました。

お医者様に相談していらっしゃるということですが、中々どうして、ご立派な司会力だと思います。結局、丸く納めて、いろいろと豊かなお話しになるようにしてしまいました。

人の色、言葉の色というものは常にあるのではないかと思っております。人は生きていく中で周囲の色に染まり続けて、もはや自分が何色か分からなくなりつつあるというのが、実際のところではないかと思います。ただ自分の生来の色と思うものは誰しもあって、そこに立ち返っては、新鮮な気持ちになったり、自分を取り戻したりするということはあるでしょう。こういう浄化の衝動は誰にでもあるものかと思います。しかし、あまりに浄化したいという衝動が強いものになったり、他人にあれこれ口出しするようになれば、排他的なものになるでしょう。自分の色は自分の色、他人の色は他人の色と分け、多種多様なものの存在を認める鷹揚さは必要だと思うのですね。

同時に年相応の振る舞いもあろうかとは思います。一般論として思うことを書いているのですが、やはり中年が、自分は純粋無垢で透明な存在です、と言い出したら、カマトトなのかな、と首を傾げます。若い人にこそ、純粋無垢という言葉は相応しいものです。中年ならば、自分の色をしっかりと理解しそれを誇れる人が、魅力的であると思うのです。これは、自分自身を適切に理解していることが成熟だと考えるからです。

人や言葉に色が入ってしまうのは、どうしてなのでしょう。それは人の限界かと思います。晩年の境地で何か透き通ってくる人はいると思います。例えば、古くは浅葱色というのは、官位を示す禁色でした。これは歳をとればとる程、白に近づけたそうです。しかしそれでも純白には達しないのでした。白は最も神聖な色だからです。人間にできることと、できないことはあります。

哲学者も言っていますが、「事実=物自体=原光景」を認識することは、人にとって難しいことです。それでもひょんなことで、ふっと醒めて、色の無い原光景が見える瞬間があります。原光景の荒々しさに圧倒された時、美を感じる感覚が生まれます。

さて見方を変えると、人に色があるということは、意見の共有の難しさを示しています。突き詰めれば、同じ色の人同士、近い色の人同士でなければ、感性が通じないということになるからです。同じ傾向の人を探すことは、大切なことだとは思います。しかし一方で、私自身は次のように思います。同じものを見ていても別々の光景が広がってというのも、面白いことではないのか、と。そして「すれ違い」は、言葉の使い方次第で、味わい深いものになるのだと思います。「私と違う。あんたは間違っている」と言えば、ただ不愉快でしかないでしょう。お互いを尊重し、興味を持ち合い、言葉を引き出し合うことができれば、それは友達なのでしょう。

さて、グラスルーツさんにはグラスルーツさんの秋が。おそらく私には私の秋が。別の方には別の秋が。
どうぞ、それぞれのやり方で、それぞれの季節を存分に楽しまれますように。
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この回答へのお礼

こんばんは。

わたしは若いころ(30代)で社会とのつながりが切れてしまいましたし、それまでも社会人として曲がりなりにもやってきたという実績がありませんので、正直なところ、「自分の色」というものがあるのかないのかよくわかりません。
ひとはやはり人と擦れ合うことで、その葛藤、相克、愛憎の関係性の中で自己を見出してゆくものだと思います。しかし社会と実際的な繋がりを持っていなくても、人は白無垢でいることはできません。「孤独」は「真空地帯」ではありませんから、限定された生の中で乏しいながらも見聞きし、感じたことはその人のこころの色になるのでしょう。独房の中にいても人は自ずと色づいてゆきます。

「晩年の透き通った境地」...わたしは色として「純白」という色、それに伴う(純粋、無垢)といったイメージがあまり好きではないのです。といって「年はとっても浮気はやまぬ、やまぬはずだよ先がない」といった「ひひジジイ」というのも苦手です。「浄化」とか「昇華」というより、むしろ疼きを抱えている人が人間らしいと感じてしまうのです。バロックというのか、あるいは表現主義というのか、そういう「イビツさ」「たわみ」「醜悪さ」というものに逆説的な美を見てしまいます。
「美」(美学)については機会があればまたサイコロさんとお話ししたいと思います。

「理解する」ということは必ずしも相手を敬うことと同じではありません。「言ってることはわかるけどあいつは嫌い」ということはよくあることです。つまり生身の人間が持つ「好悪」やその他の感情を捨象して、互いの「意見・主張」だけを突き出しても話は通じない、相手を自分と同じ人間として敬う気持ちが持てないのなら、話し合いは無駄であろうと思っています。

お話しできて楽しかったです。

またここでお会いできることを楽しみに、サイコロさんもいい秋をお迎えください。

お付き合いくださりありがとうございました。

お礼日時:2016/10/02 00:39

私の回答№39への感想をamaguappaさんからいただきました。



「気になるんですね。笑」と。

やったー!

次回もよろしくお願いいたします。
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この回答へのお礼

(笑)

お礼日時:2016/10/02 01:12

39のyy8さん


気になるんですね。笑
助詞の「は」がトピックマーカーになりうるからかな?
「午後は爆睡だ」
「国際法は落第です」
「田所ゼミは破門なので、秋野ゼミに入れてください」
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遅くなりました。

35を補遺します。

つぎの文中にある〈出来事〉のうち、
「事実」はどれで、
「自分が思ったこと」はどれでしょう


> 久しぶりにビリー・ホリデーを聴きながら、
> 窓の外から漂ってくる金木犀の香りを感じていると、
> 重箱の隅を楊枝でつつくような議論が、
> 人生について考えることとはまったく正反対の方向に
> 向かっているように感じてしまいます。


ビリー・ホリデイ、窓の外、金木犀の香り ...........事実

重箱の隅を楊枝でつつくような議論 ...........自分が思ったこと


何かを前提にして、わたしたちは感じたり、考えたりします。
事実を前提にするのと、
自分が思ったことを前提にするのとでは、
次の1歩が違います。
そこから感じることも、生まれることばも、話しかけることばも、取る行動も、違うのです。

思考は積み重ねですから、直前の1つだけでなく、その前や、前の前まで振り返るのは面倒です。
けれども、振り返りを順番にきちんと行えば、
前提が、事実だったか、自分の思ったことだったのか、気付くのは難しくありません。

「そう思っただけ、そう受け止めただけ」という出来事を
存在する事実とはいえない、と気付くとき、
自分の内側のことばに「括弧をかける」ことができて、
金木犀の香り漂う風だけをゆっくり感じられると思います。

> ふむ。金木犀の香りという「事実」が「わたしの外側」にあるということですか?金木犀の香りと、わたしの感覚が交じり合うところに感受するということがあるのではないでしょうか。

そうした意味ではありませんので、蛇足になりますが、
出来事は、事実でも、どれも人の内側にあります。
しかし内側にしか存在しないときが、問題なのです。


ちゃおぽるぽさん、いずれ枝雀師匠のお話でもゆっくりいたしましょうよ。インターネットの動画で落語が見られるようになって、ありがたいですね。寄席にとっては、つらい時代ですけれど。
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この回答へのお礼

ところで雨がっぱさん、この間から、回答の記述方法を変えていますね。たしかにここでのやり取りは、文字間行間共に狭すぎてとても読みづらいんですよ。適当なところでの改行は助かります。

わたしが話すときに、その内容を、「事実」と「主観」とに色分けすることにどういう意味があるのかがわかりません。

ビリー・ホリデーの気怠い歌声が聞こえてくる。金木犀の甘い香りが嗅覚をやさしく刺激する。人生について考えるときに、重箱の隅をつつくような議論はむしろ枝葉末節の部分ではないのか?
それらの感覚、思いは混然一体となってわたしという存在に充溢しています。

>何かを前提にして、わたしたちは感じたり、考えたりします。

前提となるのは、わたしたちの「生」ではないのでしょうか?
わたしという感じ、考える主体がなければ「事実」などというものは存在しないのでは。ビリー・ホリデーの歌声も、金木犀の香りも、その時わたしの生の一部です。

とまあ、そんなことを考えています。相変わらずの独り相撲とお感じになるかもしれませんが、わたしは気にしていませんし、結構勝手な雨がっぱ説を考えるのも面白いものです。

ご回答をありがとうございます。

よい10月を!

お礼日時:2016/10/02 01:10

壺算、枝雀さんは、抜群に面白いですね。

久しぶりに”あははは”という笑い声をあげました。面白いものを見せていただいて、ありがとうございました。昔、仁鶴さんで聴いたことがありましたが、かなり風格のあるお隣さんだったので、声を立てて笑うところまではいきませんでした。

”一日中変なことばかりしゃべって、賢く、人を笑わせているつもりだけれど、本当は人様に笑われている阿呆なんだ”と、噺の中に出てきますが、与太郎の定義でしょうか。買い物下手と、壺屋の店員が与太郎役になりますか。お隣さんは、人形回しの役柄かと思います。枝雀さんの与太郎は、天衣無縫で、作為がありません。

ほとんどの噺家さんの与太郎には、どうしても、照れが混じってしまい、”阿呆”になりきれないようなのです。それで、落語本来の”与太郎になりきる”演出を捨てて、”与太郎を暖かく見守る”講談の手法をとる、と聞いたことがあります。

例えば、文楽さんなら”若旦那”、米朝さんなら”旦那”、談志さんなら”威勢の良い大工さん”、馬生さんなら”武士”、志ん朝さんなら”正直者の清兵衛さん”、質問者さんのお好きなあの人なら”ご隠居さん”。。。これをやらせたら、右に出る人がいない、と言われます。名人、と呼ばれる人でも、与太郎を得意とする人はほとんどいません。けれども、本来なら、与太郎が、落語の世界のヒーローなのです。あえて言えば、志ん生さんが良かったかもしれませんね。

そんなわけで、今でも、随分前に亡くなってしまわれた枝雀さんが、日本一の落語家だと、太鼓判を押している私なのです。こんな人に、口説かれてみたかったなぁ、というのもありますね。

特に東京の噺家さん、与太郎に照れが混じるのは、阿呆に徹して、人様に笑われるのが嫌だからだと思います。”人を笑わせる”自負があるからでしょう。ロビン・ウィリアムズが自殺を遂げたのは、パーキンソン病の診断を受けてすぐだと聞いています。噺家さんと同じように、”人に笑われる”のに、耐えられなかったせいではないか、と、拝察しました。
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この回答へのお礼

こんばんは。

『壺算』よくできていますね。数学以前、算数のレベルから苦手なわたしには、壺屋さんの戸惑いがよくわかります。
米朝師匠のものもまた面白いですよ。

「人を笑わせているつもりが実は自分が嗤われている」これは『壺算』の冒頭でいつも言われる台詞ですが、一般に、(落語に出てくる)与太郎さんは天然ですから、賢しらなところはないと思うのですよ。与太さんに「笑わせよう」という作為があればもうそれは与太郎ではないように思います。

志ん朝、そして圓生はオールマイティーですから、与太郎をやらせても上手かったですね。ああ、志ん生師匠も天然っぽかったですからね。与太さん、上手ですね。

ciaopolpo2さんは随分与太郎さんに思い入れがあるのですね。与太郎さんにもいろいろ居て、『大工調べ』の与太さんは、「馬鹿だけど腕はいい」大工さんとして描かれています。この噺はやはり志ん生、志ん朝でしょうか。気風のいい職人をやらせたらこの二人に勝る人はいません。

枝雀師匠は関西に比べて東京ではさほど人気はなかったように思っています。東京の人ってどこかスノビッシュで気取ったところがあるのでしょうか。

志ん朝が、何かの噺のマクラで、「親父(志ん生)が『本当の名人』と呼んでいた人たちは、もうこれから出てくることはないんでしょうね」と言っていましたが、その志ん朝や枝雀さんのような人も、これから出てくることはないでしょう。ですからどうしても古いものばかり聴いています。

そちらではそろそろハロウィンの準備でしょうか?畑の真ん中で大きなカボチャに座ったライナスを思い出します。

よい10月をお迎えください。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/10/01 23:58

ここに至って、だあれも指摘しないのが不思議です。


登場人物が三人?

二人しかいないのに!

師匠と弟子。
この二人しかいませんね。

両者の対話の不一致と私の疑問はここに有ります。

なぜ、気が付かないんでしょう。

先入観、が三人目を登場させたのです。
数学は不要です。
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この回答へのお礼

こんばんは、yy8さん。

No.30で雨がっぱさんは、yy8さんに対し

>「相手」「師匠」「わたし」を、登場人物2人、しかも医者と患者、と読んでいますね。破門される「師匠」=医者なのですね。わたしは、3人と書き、「わたし」が破門されると読みましたものね。ね、数学でしょう? 

と仰っています

わたしはその前のNo.28の雨がっぱさんの

>なぜ、聴き上手にて免許皆伝する師範が居るとして、相手が聴き下手であるときに、師匠はわたしを破門するのだろう?
という、かんたんなものでした。

というところで、(?????)
既に理解不能になっています。

ただその後にみなさんに申し上げたように、この問題に関してはわたしの手には負えないというのが本当のところです。この場でyy8さんと雨がっぱさんが納得のいくまで話し合いたいということであれば、場所を提供しますが、わたしは残念ながら議論に加わることが出来ません。

質問者としては、No.29のyy8さんの言われるようなこと、ごく単純なことのように思えるのですが...

明日一日開けておきます。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/10/01 01:04

横道にそれた話に付き合っていただき恐縮です。



「人生が真剣なゲームである」と割り切っておられるのかと早合点しました。

ネット上での「議論」のお話、仰ること良く分かります。ただ、「哲学は勝負」いや、
「人生は勝負」というのが私の考えです。これは、いずれ機会を作ってお話したい論点
です。

私は、美辞麗句が嫌いなあまり、本心であればいいだろうという思いが強く、このサイ
トに参加したばかりの時に、このカテの親分であるcyototuさんに「啖呵」を切ってし
まったなどということがあったわけです。
良いといえば良く、悪いといえば悪いという認識ですから、特に直そうとは思いません
が、本心が必ずしも価値があるとは当然限りませんし、「自己中心的言葉」であること
をしっかりと認識して使用すべきでしょうね。

>精神の浄化って、むしろ泥水をくぐってきた人のほうが持っているような気がします

人間をそれほど「絶望視」していない言葉に思えます。
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この回答へのお礼

こんばんは。

これは良し悪しではなく、個人の資質、性格のもんだいだと思いますが、わたしはむかしから「人は人、自分は自分」というスタンスでやってきました。「議論」は嫌いではありませんが、一つの問題提起に対して多様な視点が得られればそれで充分。相手を言い負かしても後味はよくないでしょう。それでなくとも人間て独善的なものですから、その上に更に意識的に「オレがオレが」と独善性の「ダメ押し」をしなくてもいいように思うのですよ。ただ、自分と考えが正反対だからと言って切り捨てるようなことは避けたいと思っています。

ソフトな口調で、どれだけ議論を深められるか?というもう一つの「ことば道」のもんだいも浮かび上がってきそうです。確かにあまりに淡白な、上っ面だけの議論が面白くないし実りもないというニャンポコさんの意見も分かります。

猪突さんはおもしろいですよね。強いものに突っかかってゆくというのはいいと思いますよ。ないものねだりではあるけれど、わたしももう少し清濁併せのむ度量の広さが欲しいものです。ここでわたしが自分のスタイルに一番近いと感じているのはハコブルさんでしょうか。

わたしの質問でも、ニャンポコさんはご自分のスタイルで臨んでくださっていいんですよ。遠慮しないでくださいね。

わたしはどうも「聖人君子」って苦手で。また世間から「立派な人」と持て夜はされるような人も好きになれないんですよ(苦笑)人間の弱さ、かなしさ、どうしようもなさ、穢れ、そんなものが逆に人間を好きにさせるんです。

最近ここに回答を下さるみなさんの質問がないので、わたしも「回答」を寄せるチャンスがありません(苦笑)
みなさんの問いかけをお待ちしております。

わたしの質問には横道も表通りもありませんので、思ったことを発言してください。

じゃあ、よい10月を!

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/10/01 00:44

№28のお礼欄を何気なく読んでいて、「ああ、なるほど」と思いました。



>真剣な勝負であってもゲームです

大人になると、生真面目さ、ストイックな心、まして私が憧れる「修行僧」
のような感覚はほぼ100パーセント消えますよね。
そして、決して無理、無茶はしないようになります。仕事上であっても人は
大抵はそうであると思います。

30年前の若者にすでにその傾向が見られたと思いますが、最近の若い世代は
何にしても「余裕をもってやりたい」と言います。
それが、まずいとはここでは申し上げませんが、社会全体が「大人化」して
いるように感じます。

言葉はそもそも無色のものであるけれども、人が生きてゆくうちにつく「色」
に染められてゆくものである、と。その色とは「穢れ」に他ならない、と。
つまり、精神的にもエントロピーは増大し死に至るのであって、精神が浄化さ
れることは基本的にないと仰るわけでしょうか?
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この回答へのお礼

こんばんは、ニャンポコさん。

ゲーム云々というのはこういうことです。

No.24の回答で、サイコロさんが書かれています

『しかし、そんな時間があったら、本を読んだり、新しい言語をマスターしたり、周囲に優しくしたり、いろいろできると思うんですね。まあ加えて、自分も嫌なわけですが、見方を変えれば、相手にも現実生活に家族がいて、イライラすると周囲が困るでしょう』

つまりこれはインターネットに対するわたしのスタンスです。昔の大学生が下宿で朝まで議論していたとか、寝食を忘れて読書に没頭していたというのにはある種の憧れがあります。

本を読む、友達と議論するというリアルな世界での出来事に比べて、ネットでの議論は、もちろんそこから得られるものは少なくはないけれど、わたしにとっては二次的なものだということです。同時に現実生活でそういう相手がいないわたしにとっては、ひとつのトピックを議論するにもあくまで友好的にやりたいという思いがあります。それは無論反論を封じるという意味ではありません。なぁなぁで流れていってはそれこそ時間の無駄というものです。丁々発止とやり合っていても、それはしかし、喧嘩ではないということです。

喧嘩腰ではなく、相手を気遣うゆとりがあれば、反論はむしろ歓迎するところです。だって「哲学」って勝ち負けの問題じゃないでしょう?わたしがニャンポコさんの意見を聞き、またニャンポコさんがわたしの意見を聞き、お互いに「ああ、そういう見方もあるね」と思えれば占めたものではないですか?

わたしの好きな言葉に「人生はとても短いから言い争っている時間なんかないんだ」というのがあります。ただ、とにかく言い合いを避けるのがいいというのではありません。自分にとって有意義であると感じることが出来れば、それこそ夜を徹してでも議論するのはいいことです。

ことばの色については、あたかも言葉が白無垢であるようにいうのはおかしいという思いです。汚れという表現でも、真っ更なキャンバスに絵の具を乗せることは、すでにそのキャンバスは白無垢ではない、というほどの意味です。人が成長してゆくことは、キャンバスに、或いはパレットに様々な色を加えてゆくことだ、という気持ちです。精神の浄化って、むしろ泥水をくぐってきた人のほうが持っているような気がします。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/09/29 02:39

こんばんは、blueさん。

ずいぶん日没が早くなりましたね。


すっかりROMしていましたが、【透明な文体】と聞いて、最初に思い浮かべたのが、村上龍さんの【限りなく透明に近いブルー】という小説でした。
内容やストーリーがどうのという話ではなく、文体が限りなく澄んでいることに驚きつつ感激したのを覚えてゐます。
お時間があれば目を通してみてください。この上なく透き通った、あるいは、絶句するほど清潔な文体です。

質問の意図からズレていたら申し訳ありません。お邪魔しました。


久しぶりにブログを更新しましたのでお時間があれば遊びに来てくださいね。http://serika1756.blog44.fc2.com/
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この回答へのお礼

こんばんは、瀬里香さん、お多福風邪からは復帰されたのですか?
先日ブログに行ったのですが、閲覧ができないようになっていました。また覗いてみます。

「限りなく」は芥川賞受賞作でしたっけ?春樹も龍も読んだことないんですよ。勿論『花火』も『コンビニ人間』も、「澄んだ文体」というと、フィッツジャラルドやヘミングウェイなどの硬質な文体なのかな?
透明な文体というとわたしは何故か三島を思い出します。

読書の秋ですね、いろいろ読みたい本があって大変です。

お身体お大事にしてください。

投稿をありがとう。^^

お礼日時:2016/09/28 23:47

金木犀が香り始めましたね。


わたしはジャズ研でもあります。いまでもセッション仲間と集ったりしますが、もう演奏の腕は無くなりました。
女性ボーカルは良いですね。
古い人ではわたしはペギー・リーが好きです。アビ―・リンカーンが出た頃もよく聴きましたが、最近聴くと重いかな。近頃は、軽快なほうがBGMにはちょうど良くて、スアド・マシなんか聴き流しています。ジャズじゃないけど。
ときどき、針を振り切るように反動が起こって、北欧のカリン・クロッグがジョン・サーマンと演ったのなどを聴きたくなります。


出来事は、事実と、自分の思ったことを、分別したほうが良いですよ。



そうすれば、金木犀の香り漂う風だけをゆっくり感じられると思います。


ことばを透明に受け取ることは、「素」の状態なのでしょうか?

仕方ない思いで言いますが、わたしは、”仰っていま” せん。

グラスルーツさんの理解ではそうなのだと思います。そしてご自分で反論を始めておられるので、疲れるでしょう。不毛という言葉を使われるなら、こういうところに使うとよさそうです。

でも、あなたの理解こそ、その上でのあなたの反論こそが、あなたを知らせてくれます。色が見えます。

わたしはこういう状況で「誤解」ということばは使いません。
この質疑でも、ずっと、使いませんでした。
わたしは、あなたの理解と反論を、透明に受け取っていると思います。

節柄ご自愛のほど。
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この回答へのお礼

そうですか、いろんな研究会に所属されていたんですね。
ジャズ・ヴォーカルは男性女性とり交ぜてほんとうに多彩ですからね。ビリー・ホリデー、エラ、サラ、の他に白人ヴォーカルでは、ポップス寄りですが、ドリス・デイ、ダイナ・ショア...ペギー・リー、リー・ワイリーなどもいいですね。アンソニー・パーキンスの歌った「ポルカドッツ・アンド・ムーンビームス」など、シナトラとは違ったデリケートな味わいがありますよ。

>出来事は、事実と、自分の思ったことを、分別したほうが良いですよ。
>そうすれば、金木犀の香り漂う風だけをゆっくり感じられると思います。

ふむ。金木犀の香りという「事実」が「わたしの外側」にあるということですか?金木犀の香りと、わたしの感覚が交じり合うところに感受するということがあるのではないでしょうか。

先のお礼でもお話ししたように、わたしは自分なりに理解した場合には自分なりの返信をします。理解不能な場合は、申し訳ないけれど、形だけのお礼のみになってしまいます。自分の立てた「雨がっぱ説」に自分で反論していますか?はは。それはそれで構いません。疲れるようなことはしていません。ただご回答の真意を摑めないことは残念に思います。それがわかればもう少しお話しできるのに。

わたしが勝手に「誤解」(苦笑)した説に自分で反論するところを御覧になって、「ははぁこいつはこんなことを考えているのか」と、多少なりとも、わたしへの理解の助けになるのなら、それはまんざら無駄ではありませんね。

わたしの考えは、『わたしたちは物事を、それがあるがままに見ないで、わたしたちがあるがままに見ている』という先に述べた言葉に集約されるようです。

自分の理解の上で、という前提付きですが、ご意見、ご反論は歓迎します。

コールマン・ホーキンスのBody and soul を聴きながら。

...最近はなにを聴かれていますか?「ヒップホップ研究会にも入ってた」とか?

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/09/28 23:38
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