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キリスト教にはキリスト教の良い所があります、仏教はキリスト教とは全く違いますが

仏教哲学があります。神道にも神道の先祖や自然を重んじる良い所があります

他にも良い所のある思想・宗教は色々ありますが

大概はそれぞれが自分が一番と言って相入れません。

そこを何とか抽出し、煮込み、練り合わせて現代にも通用する思想・宗教が出来ないものでしょうか?

水と油という意見もあるかもしれませんが 同じ地球の上に発生した、同じ真理に基づく考えです

そういうものを作る事は出来ないのでしょうか? そうすれば限界を乗り越えると思うのですが。

新しい思想・宗教は出来ないものでしょうか?

A 回答 (22件中1~10件)

No.17です。

再三申し上げている通り、全く内容の異なる宗教を一つに合併することは出来ないと思いますが、それぞれの立場を保持し、尊重しながら、夫々の宗教者が参集して、共通の目的(例えば、平和のための祈りや災害被災者の心のケア、終末医療や死刑囚への心のケア等を通して、協働することは可能だと思います。
宗教を超えて、そういう他宗教の聖職者の協働の現場を沢山作り、実践することが出来ればどんなに素晴らしいでしょう。しかし、現実の世界は、自分の神に崇拝することで精一杯で、中々そんなに余裕のあることにまでは進出できないのが、残念でたまりません。例えば、片手間でも良いから、音楽や文学や芸術や現実の生活の場や家事などあらゆるカテゴリーを通じて、宗教の交流が出来れば有難いことだと思います。
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貴方は大切な事を一つ忘れています


宗教の教えは貴方の言うように、人間として間違った事を説く宗教はありません
では、宗教って何でしょう??
それは、この宗教を信仰していれば必ず幸せになれる!!と言う確信なのです
それは、その宗教、または宗派によって違います
仏教で言うなら、・・・・南無阿弥陀仏と唱えればあの世に行って幸せになる
その他、南無大師編・・・何妙法蓮華経・・・いろいろです
元は、ブッタお釈迦様の教えでありながら、こんなにも違いが出てくる
同じ仏教でも全く違うのに、まして神仏やキリスト、ヒンズー教・・・
などとなると会い交える思想は一切ありません
貴方の言う事をまねしようとした新興宗教も確かありましたが
それは、仏教の歴史、神教の歴史から見てもあり得ない教えなんです
理屈は判りますが、どの宗教も自らの題目を唱える事が幸せになれる唯一の教えだと
考えている訳で、他宗教、他宗派は絶対認められません
そう、それだから宗教なんです
キリスト。仏教。神教、それぞれ過去の長い歴史をつづった書籍があるんです
その中で、唯一人間が幸せになる為には、このお経この題目と何百年も引き継がれて
来ているものなんです、貴
だから貴方の思うようになるには、長い歴史の教えを全て捨てなくては無理なんです
そんな事出来る訳無いでしょネッ!
一つ言えば、お釈迦様が幾種類ものお経を書き下ろした事が宗派のこんがらがった
原因だと思います
幼稚園レベルのお経からだんだん進化して、完成したお経はこれだ!と
言いきっていれば現在のような事は無かったと思います
だから、幼稚園・小学校・中学校レベルのお経を、さもそれが
最高の経文だと間違った考えを持つ宗派があるんでしょうね!
すいません、少し長くなりました
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キリスト教では、大宇宙や人間や動物は神さまが創った被造物という事になっていますが、現代の常識を持たれた方なら分かると思うのですが、この宇宙や人間や動物などを創った創造主などいる訳がありません。

人間はサルから二足歩行になって、手が使える様になって、脳が大きくなって、進化してきたのです。また、日本神道の神さまが日本の国を創ったという教えもデタラメです。
私は仏教徒(本願寺の御門徒)なのですが、仏さまがこの宇宙や人間や動物や日本の国を創ったのではありません。「仏法は聴聞に極まる」とありますので、これを機会に、お近くの真宗寺院で御法話を聞いてみて下さい。
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次のようにまとめることが出来ます。

  

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然および自然;神々は普遍神の分身)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ



【Q:信仰としての《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9161091.html
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現在の宗教の共通点は、男性中心の価値観で生きている人間によって運営されていることです。

特に旧約聖書の創世記は、「はじめに 光があった(光は、男性の象徴)」で始まりますし、イブを作る際にはアダムの肋骨を使うぐらいですから、同じ内容の経典(コーランも、内容は旧約・新約聖書とほぼ一緒で、イエス・キリストも登場する。ただ、キリストを使徒として解釈するかが違う。)を使うユダヤ教・キリスト教・イスラムは、ぱっと見は聖書の布教をしているようで、実は男性中心の価値観を広めています。
 一方で、仏教も、男女差別を肯定する内容は経典にないのですが、運営するのが私達なので男女差別的な解釈をついつい持ち込んでしまうのが実情でしょう。(各宗教の違いについては、『日本人のための宗教言論 著:小室直樹氏』がいちばんお勧めです。)
 さて、意外に知られていないようですが、『日本書紀』と『古事記』に出でくる日本の創世記とギリシャ神話には、多くの共通点があります。イザナキが川で禊(みそぎ)を行ってアマテラス・ツクヨミ・スサノヲを生み出す話は、男性が女性の力を借りずに子を産む話です。これは、ゼウスの頭からアテネが生まれてくるのと同様の解釈が成り立つ。(男性が自ら新たな命を生み出せるのは、聖書と同質の展開)黄泉の国でイザナミに「見てはならない。」と言われたのに見てしまう展開は、エロスとプシュケの話に似ています。黄泉の国にある食べ物を食べたら関係を断ち切れなくなるのは、ハーデスとペルセポネーの話に見られる展開です。性器を見せて笑いを誘うアメノウズミは、デーメーテールを笑わせようとしたイアムベーの仕草と共通です。(詳しくは、『世界平和の作り方』を参照)
 ということで、種類は違えどもじつは、男性中心の価値観を広めていこうとすることで世界中の神話や宗教は、共通していると言えます。男子中心の価値観を伝えるという観点から、世界中の宗教を再構築してまとめ上げることは、決して不可能ではないかもしれません。また、逆に女性中心の価値観の下で男女が協力して社会を営むことを広めるための宗教が、新しい思想・宗教と言えるでしょう。
 意外にも、古代の社会は女性中心だったといいます。コロンブスが発見した大陸の先住民は、どちらかといえば女性中心で非常に穏やかな暮らしを営んでいたそうです。平成15年度頃から日本では女性が強くなるのと反比例するかのように、犯罪は減少を続け戦後最少記録を更新し続けています。(警察白書参照)男性中心の社会の役目は終わり、既にこの日本では女性中心の価値観に基づく新しい社会が始まろうとしているのかもしれません。2000年以上に渡って、どんな宗教でも世界を平和にすることは出来ませんでした。女性中心の価値観に基づく宗教が生まれたら、世界は大きく平和に変わっていくかもしれません。
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No.8で、①宗教はそれぞれ教義が異なるのだから、一緒にまとめることは物理的に不可能


しかし、②一人の人間の中で、色んな宗教に触れ、体現することは可能
と書きましたが、一歩進んで、私は、以下の質問に書いたような考えをもっています。

「普通名詞としての神」に祈ること
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7321056.html

それは、前の回答の最後に書いたことにも関連するのですが、
「宗教」を問わず、「神仏」という存在は、我々の上にあまねく存在するものであり、
「宗教」はその「神仏」に至る経路、方法論に過ぎない、
だから、「宗教」を問わず、我々が「普通名詞としての神仏」にアクセスをするのは自由ではないのか?
「何教」であるかはひとまず置いて、今、我々は、「普通名詞としての神仏」に祈ればよいのではないか?
という考えです。

誰でも、単に「神様!」、「仏様!」という存在を思い浮かべ、祈りを捧げれば、それでよいのではないか?
そして、その祈りは、どんな宗教的考えを持っている人(無宗教者、無神論者も含め)排除され得ないのではないか?

「宗教」というものは、そうした「神仏」をイメージしやすいように、「緩衝剤」として組織されたものではないか? と言う気もするのです。

ですから、前回書いた通り、異なった宗教の信徒たちが、一同に会して、「一緒に神仏に祈りましょう!」と呼びかけて、思い思いに、自分のイメージする神仏に祈るのは、大いに結構だと思いますし、お互いの宗教体験などを話し合う場もあればいいなと思うのです。

唯、往々にして、こういう場を設けても、各宗教の「急進派」(つまり自分たちの宗教だけが全てで他は間違い)という人たちが、少なからず存在する以上、もしそんな人たちが、場をかき乱したりしたら、収拾がつかなくなり、暴力沙汰が起きる可能性は排除できませんね。

どうしたら、そうならず、「穏健な宗教者連合」を成立させることが出来るか、私は、最近思案しています。

尚、他宗教者が交流することによって、夫々の宗教の良い所を学ぶメリットが沢山あると思います。
例えば、
① キリスト教の神父やシスターなどの聖職者は、仏教の高僧の言動をよく学び、それを自分や信徒の心の持ち様に応用するよう努力していますし、
② 僧侶の中にも聖書やキリストの生き方に感化を受けた方は多いと思います。
③ 又、お互いの修行方法や瞑想の方法は取り入れたり参考にしたりしている例が多いと思います。
(例えば、カトリックでは坐禅を瞑想、精神修養方法として採用)
④ 宗教者は共同して、平和の祈りを捧げたり、
⑤ 震災など災害後のメディカルケアや終末期医療の一端を担ったり、
⑥ 受刑者の「教誨師」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%AA%A8 を務めたりして、
その役割は増えていることと思います。
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統一するよりは


多様でいい範囲内における受け皿としての役割分担ということで
それぞれの個性をキープしたまま共存するのが
文化の受容力の高さという点で望ましいと思います。
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宗教の境界を乗り越えるという考え方に賛成です。


仏教も多くの宗派に分かれていて残念な状況です。そこで私は上座部仏教と禅宗と真言宗の良いとこ取りの瞑想道場を舞台とする小説を書いてみました。
http://ncode.syosetu.com/n8482cu/
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この回答へのお礼

助かりました

どうもありがとうございます。実は私は液晶の長文を読むと何時もある腹痛がますます痛くなるので

なかなか読めないのですが、最初はじっくり 途中からは意味のありそうな所を読ませて頂きました。

私は仏教的素養はなく 無我の境地とか片手の音とかはあまり考えたことがありませんでした。

無我の境地は 無心になって集中してる状態に近いのかなと思いました

私はパチプロを1年間やった事があるのですが あれは熱中しますが、どうしてもお金のためと言うのがあって

無心にはなりませんね。1年やって自分が嫌になって止めました。

色即是空と言うのは「存在」を考えても分かりますが 独立した存在などは実際にはありません

時計でも沢山の部品が関連して動いてるだけで、部品も分子・原子が集まっているだけで 時計というものが在る訳ではありません

ただそれでは存在とは何ぞやという事が分からないので「存在とは個性ある性質を持ったエネルギー・物質」と

定義して存在を考えています。

色即是空を体験すると言うのはいいなと思います。悟りの境地を得る修行があれば多くの人が悟るでしょうね

私は腹の痛みがあるから悟ってはいないのでしょう。

ただ持論の存在性理論を発見した時はわかった気になったものですが。

素晴らしい小説だち思います。勉強になりました。どうもありがとうございます。

お礼日時:2016/10/04 19:08

偏頗(へんぱ)です。



「コントロール」という言葉が出てきたので、あえて使ってみました。
私がここで使う意味は、人間の本能的欲望の放縦を抑えること、暴力を抑えることなどの
ことです。
「道徳」「倫理」そして「作法」を含めた意味合いになります。自他共の利益、幸福のた
めには不可欠のもので、自由の侵害にはなりません。

「信仰」は自由であり、自主的なものでなければならず、何らかの強制によるものは、「似
て非なるもの」と断じるべきかと。

>物事の原理は本当はどうなっているのか、それを知っただけでも世界は変わる

私もそう思います。

>真理に沿って自律的に生きる

さすがですね。凝縮して言えばそれでいいと思います。
「実在」を真に解き明かした宗教があったとして、必ずしも皆が「帰依」しなくても、多くの
人が認めれば良いのだと思います。

ハルさんとはかなり深いところまで共感できるはずだと、直感的に思っています。それを、ゆ
っくりと探ってゆきたいですね。
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この回答へのお礼

Thank you

私もIQも低く、時間を無駄にして来た人間ですが 何とか人の役に立ちたいと思って

やって来ました。本当なら宗教によって世界が平和で調和したものになれば、私は何もしなくて良いのですが

高校時代に「このままじゃ世の中の不条理はなくならない」と思い至り

色々暗中模索しました。偏見を持たないために大哲学者の研究は一切やってません

哲学の情報はみんな参考書7冊で読みました。

存在肯定 人間肯定 最大多数の最大幸福を突き詰めれば 世界中のみんなが人権を守られて幸せになる事だと

思いました。人間は存在しようとします。そうやって存在・存続して来たからです。

人間は存在性になり切ることが理想です。人間世存在性たれ。一瞬一瞬存在を実現し、未来により良い存在を実現しましょう。

そして何時か、人間以上の存在を作り出しましょう。悟りよ幸あれ。

お礼日時:2016/10/04 19:25

№10で書いたことは、ハルさんにとっては、言わずもがなのことであったと


思いますが確認のため書きました。

次に、私は宗教というものは正しい哲学が「教え」でなければならないと考
えます。それは、人間とは何か、生命とは何か、宇宙とは何か、という根本
的なことを啓示してくれるものであり、その哲学は人間として間違いなく生
きてゆく「羅針盤」になるものでなければ意味がないと思います。

当然「偏頗」なものであってはならない。では、何をもって「偏頗」とする
かといえば、「自他共の価値、幸福」と私は定義します。
また、人間の自由を阻害する戒律が教義に含まれるということは「間違い」で
あると思います。宗教が人間を縛ることになるからです。

正しい哲学が哲学のままでいるより、宗教としたほうがいいと思います。その
理由は、宗教とすることにより人が「跪き、胸で手を合わせる」という敬虔な気
持ちを起こさせる、ということが一つ。
もう一つは教育機関では難しいでしょうが、家庭内で教育できるということです。
つまり、我儘な人間をかなりコントロールできるという点です。

このあたりも共感していただけると思いますが、いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

Thank you

その「偏頗」と言う漢字は何と読むのでしょうか?漢和辞典を引かなくては行けないのでしょうか?

しかし「我儘な人間をかなりコントロールできる」という事と「自由」という事はどういう関係にあるのでしょうか?

新しい宗教がどうしても気に入らん と言われたら 拒む自由も家庭にはあるのでしょうか?

「羅針盤」と言うのはいいですね 冬のソナタならポラリス 天照大神なら太陽ということになるでしょう

原始女性は太陽であった。

私自身は無宗教なのですが 無宗教であろうとクリスチャンであろうと浄土真宗であろうとイスラム教であろうと

これはいいものがあったと言って 心置きなく入れるような 出入り自由な開かれた宗教にしたいものです

イスラム原理派とか統一原理と言うと「原理」と言うのが恐ろしく感じるかもしれませんが

それだけ人間の心を動かす力を持っていると言う事です。

原理から目を逸らさず それらの原理主義はどう間違っていたのか?物事の原理は本当はどうなっているのか

それを知っただけでも 本当は世界は変わるのです。宗教といっても知るだけでもいい、真理に沿って自律的に

生きて欲しい。分かっただけで世界は自ずと変わる と言うのが新宗教のあり方だと考えています。

自ずと助け合い 自ずと議論は結論を得るでしょう。

お礼日時:2016/10/03 18:05

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