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1. けっきょく日本哲学は みづからが出る杭たろうとしたおのれを
《売っている》・・・とも言えるのかも知れない。

どういうことか?

2. 要するに詰めが甘いのではなく そうではなく 詰めようとしな
いのだ。詰めてはいけないという思考回路がすでに出来上がっている。

3. つまり 最後の理論としての完成をいやがる。相手をコーナーに
追い詰めてしまうようには あたらしい説を出してはいけない。それは 
出る杭になってしまうから。

4. 自然科学では そういうことはないのであろう。(?)

5. いったいぜんたい 何がこわいのか? 何がかなしいのか?

6. こわくもなくかなしくもなく ただただ おのれのたましいをみ
づから去勢してしまったからか。

7. 腑抜けの哲学 腑抜けの国になったということか。だから せめて
自然科学においてなら 杭の出方を調節することができるということか。

8. あと一歩考えを及ぼせば 分かるというものを。

A 回答 (4件)

質問の文面から受ける"事柄・意図"が、私の回答?に合わせて変化していくような、例えれば、台風の進路予測が、少しづつ外れて行くと云った感じのブラジュロンヌさんの意見が私には"好感"でした。



理性を通して見ることも、情を通して見ることも、物事の半面を見る事だと云っていますね。

彼のお坊さん(山崎弁栄上人)は、自身の宗教としての「光明主義」を汎神教的一神教(汎神は、毘盧遮那=阿弥陀の分身であると云う意味です)と云っていますが、これにも係わらせて考えてみたいと思いました。

非思考の庭、を言葉で表現するのは大変です。
神仏の心と人の心は同質である、という認識を持つことで理解が得られやすくなるように思います。
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この回答へのお礼

まぁ これで まとめの視点については おおむね合意に達した
でしょうか。

そして 問題は ここから先なんですけどね。

それが 詰めになるはずです。




★ 神仏の心と人の心は同質である、という認識を持つことで理
解が得られやすくなるように思います。
☆ 分かりやすくなると同時に 神を持ち出せば 普遍性の問題
を一発で指し示すことが出来るようですので じつは・かえって
哲学としては 痛し痒しです。

なかなかそれでは まだ前へすすんでいない。
なぜなら 神だと けっきょくナゾのままなのですから。そして
それこそ 神学の議論に入って行ってしまう。


この問いでは こうした周縁の問題を扱って行きます。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/10/20 22:10

私の回答?№2へのご意見を見て思いました。



西洋の哲学は理性が土台となって、情の世界の入り込む。

東洋、と云うべきか日本人は、と云うべきかは判然としません。・・・が、情を土台として理性を働かせ、哲学の世界に入る。

日本人は哲学に"味気無さ"を感じるのではないでしょうか。
だから詰めない、詰め切れない。

このように思います。
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この回答へのお礼

★ 日本人は哲学に"味気無さ"を感じるのではないでしょうか。
だから詰めない、詰め切れない。
☆ いいんですよ。その行き方にも一理あるとわたしも思います。

というのも 《大自然の神秘や 人間と社会におけるその複雑さ》
について 《あは!( Ah! or Oh! )と言ってその対象を捉える
こと》 すなわち 《もののあはれを知ること》というふうに表
現して 済ませている。

そのようなあいまいの美学も 精緻なまでに理論構築した神学に
よって自然や世の中の神秘やナゾを捉えようとする行き方と 言
わば対等にひとしく ひとつの世界観でありうる。と考えられる
からです。

論理の言葉を並べればよいというものでもないはずです。哲学は。



ですから 西と東とは どっちもどっちです。



★ ~~~~~~~~~~~
西洋の哲学は理性が土台となって、情の世界の入り込む。

東洋、と云うべきか日本人は、と云うべきかは判然としません。
・・・が、情を土台として理性を働かせ、哲学の世界に入る。
~~~~~~~~~~~
☆ というまとめ方をしておられますが ひるがえって さらに
あたらしい――世界的な視野に立っての――哲学は得られないも
のか? という道もあるかも知れない。

取りあえずその点で言えば:
東の人間も西の人も 人としての自然本性について そこに

《感性の原野――情感の領域――》と
《思考の緑野――論理意識の領域――》

とをまとめたかたちで《人なる存在》の全体を捉えるという道。

になるはずです。手前味噌で言えば あたかも《非思考の庭》
からそれらをまとめ上げるという視点です。

非思考なので じつは あいまいの美学に属している。
その上で 理論を構築する。
情感をそこかしこに ただよわせる。

といった詰め方が ありうるかも知れない。

といったところなんですがねぇ。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/10/20 20:40

哲学、にもピンからキリまであるように思います。



例えば、「俺は確かに悪人だよ。他人を騙すようなこともすれば、物を盗むことだってすらぁ。でもね、「殺し」なんてことはしないよ。あれこそ人を人とも思わぬ行為。情のかけらも無いね!。人の道に大きく外れているよ。」

・・・なんて云う生き方も、その人の「哲学」と捉える視点もあるようですから。

でもブラジュロンヌさんの問う哲学は"ピン"のほうだから、難しい。

「問い求めの手を緩める」
これが案外、日本人の潜在意識にある「哲学」かもしれません。

西洋の理、に対して日本人の情。

この"図式"をあてはめたくなります。
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この回答へのお礼

★ ~~~~~~~~~~~~~
「問い求めの手を緩める」
これが案外、日本人の潜在意識にある「哲学」かもしれません。
~~~~~~~~~~
☆ そうでしょう。おそらく そうなんでしょう。

ただし 哲学にあっては それではいけないと じゅうぶん知り尽く
している。はずなんです。


だって:
★ ~~~~~~~~~~
西洋の理、に対して日本人の情。

この"図式"をあてはめたくなります。
~~~~~~~~~~~
☆ という場合にも その《情感〔の共有 つまり 情感の共同性を
重んじる人間関係なるナラハシ〕》をダメだというのではなく・まし
てやそれを否定するのではなく そうではなく それだけではいけな
いということを 日本人の哲学の徒は知っている。

また 情感の偏重がいけないのだと――理性や論理の一辺倒がいけな
いと批判するのと同じように―― 知っているし実際 言葉にして言
っている。はずなんです。



その先へはすすまない。きわめておごそかに〔とでも言うべきように〕
いやしくも哲学にたずさわる日本人は 龍の絵に目を描くのを《禁欲》
している。


なぜか?


おかしい。やはり おかしい。



なぜなら:
★ 「問い求めの手を緩める」:これが案外、日本人の潜在意識にある
「哲学」かもしれません。
☆ というとき このような《哲学》は すでに捨ててしまっても そ
のとき 情感の社会性を軽んじるということにはならない。

重んじつつ 《問い求めの手を最後まで抜かない》で哲学して行くこと
は出来るはずです。

それを探究するのが 哲学でもあるのですから。

お礼日時:2016/10/20 11:25

たった一分の遅れで先を越されてしまいました。


残念。

この質問は、日本の哲学には開拓精神が無い、と云う批判ですね。

と、云うことは哲学には力あり、と捉えていると受け止めました。

日本の科学者はよくノーベル賞を受賞してますが、科学者としての「哲学」が実を結んだ結果だとは言えないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 日本の科学者はよくノーベル賞を受賞してますが、科学者としての「哲学」
が実を結んだ結果だとは言えないでしょうか。
☆ そのことについては よろこばしく思い敬意を表するとともに では哲学
は? という問いがつねにつきまとう。ように思います。


★ ~~~~~~~~~~~
この質問は、日本の哲学には開拓精神が無い、と云う批判ですね。

と、云うことは哲学には力あり、と捉えていると受け止めました。
~~~~~~~~~~~~
☆ 潜在力はありますか。


みみっちい議論をしますが:
★ 日本の哲学には開拓精神が無い
☆ のではなく そうではなく どうもつらつら――ここでのやり取りをも振り
返ってみて――考えるに 《開拓精神や真理の探究心が 無い》のではなく そ
れを大いにおこなっている。のであるが 
しかも最後の最後の結論を望み見たところでは むしろその問い求めの手をみづ
から ゆるめる・ひかえる・つつしむ。
・・・ということをしているのではないか。
という推測を交えた思いが生じました。

つまり 出る杭をみづから打っている。

そうだとしたら なぜか? なぜそうなるか?

みなさんの考えをお聞きしたい。

お礼日時:2016/10/20 10:43

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