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神道には、神の像が(ほとんど)ありません。
ところで、イスラ-ムでも、神の像はありません。それは、神は偉大であるから、人間がそれを表現することは不可能であり、不遜である、というような理由ですね。
質問は、神道で、なぜ、神の像が(ほとんど)ないのですか?

A 回答 (18件中1~10件)

神道において、神とは魂・精霊・命・御霊(みたま)と表現も意味も様々であり、


定義づけることなく包摂し享受してきた経緯から巨石や樹木、山や森等の森羅万象が神体または、御霊代・依り代として存在する。
神社では、このご神体を神様として祀り敬っている。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
神様は、人間の姿で現われのでなく、
<ご神体>
の様子になるのですね。

お礼日時:2016/10/27 17:39

内鳥居には象が彫ってありますね。

もしかすると白い象の像があるかも?ピコ
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
象ですか! いつの時代か分かりませんが、ハイカラなものですね。

お礼日時:2016/11/05 19:11

神の像は神道では鏡に成りますが牛の像をおいている神社は大分県の臼杵市にありました。

又宮崎県高千穂町の天岩戸神社では御神体は天岩戸そのものでしたね。これからも神社とお寺巡りで何かあればお伝えします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
ご神体は、各神社で様々なのですね。素朴で、ローカル色豊かな神社は、いつまでも大切にしたいものですね。

お礼日時:2016/11/05 17:00

(しかし、後年、人格を持った神様が登場し、普通の神社では、彼らを奉る方が多くなった、その神様について偶像がないのは不思議です。

)

いや、現在ではありますよ。
偶像(人形)が御神体であることも少なくありません。
そもそも、偶像は仏教(仏像)の影響で造られるようになり、出雲大社などでも造られるようになりました。
でも、仏教は秘仏でも見れますが、神道では御神体は見ることができません。
また、御神体はあくまでも神様がお宿りになる依代なので、拝むのはその依代ではなくお宿りになった神様を拝むのです。ですから、御神体はいろんな種類があります。鏡や険、石、山など
また、神社の社殿ができたのは仏教が伝来してからのことです。それまでは地鎮祭みたいに、仮に聖域をつくってお祭りをしていたんです。
そして現在でも神殿がない神社もあります。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
お言葉を返すようですが、今の神社の大半には、偶像がない、ようにみえます。調べ方が不十分なのかもしれませんが。

お礼日時:2016/11/02 14:20

神道に何故神様の像がないかと言うと、もともと自然に対する恐怖と感謝の気持ちから生まれた信仰だからです。


例を挙げると、雷が田んぼの近くに落ちると豊作になる、しかし雷は大きな音がなりとても恐ろしい存在。そこに神様を見出だした。それが神道の元です。
現在ではその雷を象ったのが紙垂です。
神様を象った像が作られるようになったのは仏教が日本に伝来してからの話です。
ですから、仏教では秘仏であっても何十年かに一回一般公開されますが神道は御神体を見ることはできません。また、神社に奉職する神職でさえ見ることはできません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
もともとの神道は
<自然に対する恐怖と感謝の気持ちから生まれた信仰>
なのですね。したがって、偶像で表せるようなものではない、のですね。
しかし、後年、人格を持った神様が登場し、普通の神社では、彼らを祭る方が多くなりました。その神様について、偶像が無い、のが不思議です。

お礼日時:2016/11/01 15:25

No.13です。

少し補足を。

華厳滝や富士山を見ると、それ自体神々しく厳かですよね。ですから拝殿さえあればよかったと言う視点も大切です。

一方キリスト教等の発祥の地は砂漠です。自然を見るとそこは全く人間を受け入れる余地のない空間です。

もし、精神的支柱を求めようとした場合、偉大な予言者やその言葉に拠り所を求めるほか無かったのではないでしょうか?

神もまた、コブラのような蛇や四足獣にせよ、人の形をした者にせよ、神像として明確な形になったのではないかと考えます。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
古来、日本人は、
<神々しく厳か>
を信仰の対象にしてきたのですね。したがって、神社でなく、それらを拝める場所すなわち拝殿は、あるこしたことはなかったのしょうね。それ以外には、教義も、人格化された神も、いわんや偶像も必要としなかったのですね。

お礼日時:2016/10/29 17:15

日本では、信仰の対象は自然そのものでした。

各地に神社がありますが、あれは、拝殿であってその位置から背後にある山や滝や海を拝むための施設です。

その拝殿内には、基本的に何もなく、正面から背後に向かって自然神が通う通路があり、そこを通じて人と自然神とが心を通わせる構造となっています。

仏閣で言うところのご本尊も無ければ、それが安置される場所も存在しません。

なお、信仰の対象であった山や海が、次第に人格化されると古事記等の神話にあるように人間の姿をとり、それを祭ると称する神社も現れるようになりました。

また、神話に登場する様々なグッズ(鏡・剣など)をご神体と称する神社もあります。いずれにせよ、太陽、月、海、山、川、湖沼など人間の生産や生活と切り離せないもの、

それだけに穏やかであって欲しいものに対し、平穏と恵みを祈る場所、それが神社の本来の姿です。

日本の宗教はそういう源を持っているので、神の像も、明確な彫刻のような形では存在しないのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
仏教の影響がまだ無い(汚染されていない)時代の宗教(すなわち原神道)では、
<信仰の対象は自然そのもの>
だったのですね。自然そのものだけで、十分だったのですね。それまで、神社も必要としないし、人格化された神も、神の像も無かったのですね。しかし、仏教との対抗上、変質してきたのでしょうが。

お礼日時:2016/10/29 17:03

像よりも鏡ですかね。

ひと柱ふた柱と数えますが 鏡のように光るもの、現実を映すものでは?

天照大御神も光であり鏡に映りますよね。その様な神が我々を柱として支えている という事では?

見えないほど神聖なのでしょう。エホバもアッラーもそうですよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
神道も、
<見えないほど神聖>
なのですね。(神聖さを維持するために、偶像を持たない、に展開するのかな?)

お礼日時:2016/10/29 08:24

No.10です。



「今のイスラームは・・・・・・今のイスラームは釈迦が最初に仏教を開いた時に当てはまる(成長期)のか、と思いたくなります」
→そうかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2023/10/28 09:58

No.6です。



「偶像が有った方が、崇拝対象が具体的で、絞り込めて、宗教活動に便利だろうな、と思った次第です」
→なるほど、素直な疑問だったのですね。

ヒンディー教徒だったインドの釈迦が最初に仏教を開いた時も偶像はありませんでした。
でも、仏教がインド全土に広がっていく中で、インド西部(現在のパキスタン)で偶像が作られるようになりました。
その理由は、おっしゃるように偶像があったほうがお祈りしやすいからでした。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
<偶像があったほうがお祈りしやすい>
ですね。ところで、イスラームは、偶像が禁じられているにも拘らず、(ますます)栄えており、不思議な宗教ですね。今のイスラームは
<釈迦が最初に仏教を開いた時も偶像はありませんでした。>
に当てはまる(成長期)のか、と思いたくなります。

お礼日時:2016/10/28 09:24

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