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歴史書を見ると斉藤道三は美濃の国主とあります。本当に実態が伴っていたのでしょうか?
斉藤道三は、安定的に美濃を支配できていなかったと思いますが、詳しい人の意見を教えてください。

まず、国内が統一されれば外部に向かって侵略するのが戦国の倣いです。織田信秀、武田信虎、今川義元、etc。斉藤道三は稲葉山に攻め込まれて、結果的に織田に勝利していますが、あくまでも防衛であり、外部への侵略をした形跡が見当たりません。おそらく、美濃の完全な掌握ができておらず、統一的な侵略行為ができなかったのではないと思います。

 一方で年表で見ますと、長井を乗っ取るのが37才、斉藤を乗っ取るのが45才、土岐頼芸を追放するのが54才、一応の美濃の平定、55才で義龍に家督を譲り隠居。鷺山城に移る。58才、再度、戻ってきた土岐頼芸と戦い追放、63才、義龍と戦い死去。

 一応の平定をした翌年に家督を譲るのは極めて不自然、形上の隠居であれば、本拠地、稲葉山城から移るのも不自然。土岐頼芸に再度、戻られてきてしまうのは美濃の支配に限界があったとしか思えない。本当に美濃を支配したといえる時期はほとんどない。

 斉藤道三は美濃の支配者・国主として世間一般では言われているようですが、実態を見ると、とても支配者として安定的な状況とはとても言えないように感じます。斉藤道三の実際の美濃支配について、どのように考えるか、詳しい方のご意見をお願いします。(私は初歩的な知識はありますので、ご回答は、ぜひ、詳しい方にお願いしたいと思います)

A 回答 (3件)

書かれている通りですが、日本語がおかしい。

対照として挙げられている武将は織田信秀が守護代だった以外全て産まれたときに一国の守護で相続しただけ、平定はしていない。道三は伝説によれば油を売っていた、もちろん油屋を乗っ取って莫大な資産を準備した、それから順に分割統治されていた美濃を蚕食し、美濃一国を手に入れた、これを日本語、漢語では平定と呼ぶ。外へ攻めて行くのは平定ではない。小説だが司馬遼太郎は「あーあ、予定が狂って美濃だけでこんなにかかってしまった」と言わせている、これが正しい「平定」。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

 まず本筋とは別にして、織田信秀は守護代ではなく、そのまた下の
 清州三奉行の一人にしかすぎません。斉藤道三は近年の研究では
 (六角義賢条書写による)父親の代で長井を名乗っていますから、
 守護代家の庶流という点では、織田信秀とどっこいかな、と思います。

 本筋に戻しますと
 一国を平定すると、次に何をするか?というと国人たちの忠誠をつなぎ
 とめるために普通は他国に侵攻します。平定の意味を聞いている
 訳ではなくて、平定しているなら他国に攻め込んでもいいのに、
 攻め込んでいない。つまりは、一国をきちんと平定、従わせられず
 国内問題を抱えているから、他国に侵攻できない、つまり、平定できて
 いない根拠じゃないのか?ということなんです。

お礼日時:2016/12/07 23:18

他の家中も、安定してなかった点では似たり寄ったり。


外部に侵略戦争を仕掛ける必然性はありません。
外部からの侵略があったとき、道三を中心に美濃がまとまるのなら、支配者といえるでしょう。

信長とのやりとりで、若干の創作が混じってるとはいえ、濃姫を嫁がせたとき、いずれ美濃も織田のものになるという意味でつぶやいたとか、遺言として信長への国譲り状を書いたというあたり、国主としての行動です。
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この回答へのお礼

戦国時代は外部に侵略戦争を仕掛ける必然性は、ものすごくあったと思います。他国を攻め取れば、略奪もできるし、新たな領地もできます。(うまくいけばですが)ある意味、戦に行くのはひと旗揚げに行く、というのも的外れではないでしょう。このメリットを与えられないと、家来は満足しないでしょう。

 ただ、他国を攻めるには、せめて国内がまとまっていないと、とても他国に侵攻できません。斉藤道三は他国侵攻の歴史がありません。国内の内乱を戦っているか、防衛のみです。他国侵攻できない=国内がまとまっていない=平定したといえるのか?という理屈です。

 国主というのは自分で言ってもダメで、国中の承認が必要です。となると
斉藤道三の美濃支配は徹底していて、みんなから国主と思われていたか?というと、みんな全員から思われてはいない状況だろうな、と思うのですよ。

お礼日時:2016/12/08 06:08

美濃を支配していたとはいえ、家中が一枚岩ではありませんでした。


嫡子が実子ではないと言われていたくらいですから、親子でも仲違いですし。
ただ、家督を譲るというのは代々当主であると公に示すことなので意味はあります。
そんなん言ったら家康だって将軍を2年で譲ってるじゃないですか。

また稲葉山城が非常に高い防御力を持っていたので攻めるより籠城の方が有利でした。
織田みたいに平地しか持ってないとそうはいきません。野戦か攻城戦するしかないです。
それを何度も弾き返した名城が稲葉山城ですから。

なので支配していたのは確かですが、まとめきれていなかったのは事実だと思います。
そういう意味で力量にも疑問符がつきますね。

土岐政権からまとまりなかったわけですが、信長は短期間でまとめてしまいましたからね。
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この回答へのお礼

>>嫡子が実子ではないと言われていたくらいですから、親子でも仲違いですし。

 本筋ではない点で
 実子ではない、というのは後世の創作で
 六角承禎条書によると、道三の実子というのは正しいと思います。

 稲葉山城は堅固ではありません。平地がなく大軍の駐在ができず
 井戸がなくて、雨水をためていたので、力攻めには強くても、
 包囲されると水が補給できない。後日、織田信孝も簡単に降伏、
 織田秀信も
 簡単に降伏。堅固な城ではないでしょう。

>>ご回答ありがとうございました。

私には斉藤道三は、美濃を平定できていない、というようにやっぱり思えます。東美濃は独立、道三の力や支配は及ばなかったと思います。

お礼日時:2016/12/08 06:07

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