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日本でバブルが始まったのは1986年(昭和61年)11月でしたね。バブル崩壊が1990年(平成2年)11月でした。では、バブルの好景気が始まったのはいつごろか覚えてる方、教えてください。

A 回答 (1件)

○日本のバブル経済のきっかけは1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルで行われた「先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)」における「プラザ合意」でした。


○当時、アメリカは双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)に悩まされており、特に対日貿易赤字が大きく、アメリカは貿易収支のアンバランスを是正するように日本に強く要求しましたが、一向に改善されず、むしろ悪化する一方だったためG5に話を持ち込んだのです。
○アメリカの貿易赤字を減らすには、日本を含めた各国がアメリカから輸入をすれば良いのですが、製品の価格が高ければ当然誰も買いません。当時「ドル高、円安」でアメリカの製品自体に割高感があったのです。そこで、G5で「ドル安」になるように各国が合意し(プラザ合意)し、各国の「協調介入」によって意図的に為替相場を変動させることを約束しました。
○日本は「ドル安」対策として「外国為替市場」において日銀が保有している大量のドルを円に替えました。結果、外国為替市場には大量のドルが流通し、価値が下がり「ドル安」に向かいました。
○具体的な内容として「基軸通貨であるドルに対して、参加各国の通貨を一律10~12%幅で切り上げ、参加各国は外国為替市場で協調介入を行う」というものです。しかし、その後日本は急激な「円高」に襲われ、1985年まで1ドル=240円前後だったのが、1987には約半分の1ドル=120円前後まで急騰したのです。輸出産業の多い日本は大打撃を受けました。これが「円高不況」(=プラザ不況)です。
○この円高不況を乗り切るため、日銀は公定歩合の引き下げを決定しました。公定歩合を引き下げ、銀行の貸出金利を下げる「低金利政策」によって「内需拡大(国内のお金のまわりを良くする)」を図ったのです。1986年時点で5%だった公定歩合は87年には2.5%まで下がりました。
○当時、総理大臣だった中曽根康弘氏の「内需拡大」を呼びかけるポスターが公共機関に掲載されたのでご記憶にある方も多いと思います。低金利政策を進めれば、銀行からお金を借りる人が多くなり、使う人が増えるので景気は上向きます。 また政府は、景気対策として規制緩和や、ビックプロジェクトなどを積極的に推進し、「地価」や「株価」を刺激する政策を進めました。
○お金が借りやすく、経済活動も活発な状態で「地価」や「株価」を刺激する政策をとれば、値上がりするのは当然です。また「土地の価格は必ず上がり続ける」という「土地神話」も重なり、「土地や株を買い、頃合いを見て売る」ことが簡単にお金を稼ぐ方法として当時は考えられていたのです。多くの会社や個人が本業よりも「お金を動かすだけでお金を増やす」(マネー経済)に力を入れました。これが「財テクブーム」であり、「バブル景気」になったのです。
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この回答へのお礼

大変詳しく教えてくださってありがとうございます。

お礼日時:2004/08/19 21:17

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