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第一次世界大戦でロシアは、英仏などとともに協商国側で参戦するもドイツ、オーストリア、オスマン帝国相手に戦った結果、国土の多くを占領され戦争によって食料や燃料、物価高騰を招き国民生活が急激に悪化した結果二月革命が発生したと世界史で学びました。特にロシア帝国の首都であったペトログラードでは、1917年にデモをきっかけにゼネスト状態に入り、鎮圧するはずの軍隊までも呼応した結果ニコライ二世が退位に追い込まれ臨時政府が発生したとありました。ここで質問なのですが、ロシア二月革命の意義というのは何だったのでしょうか?300年以上続いたロマノフ朝は崩壊する結果になりましたが、ブルジョワを代表する臨時政府と労働者や農民を中心とするソヴィエトは独自の権力を目指して次第に対立していくことになりましたが、革命がおこった当初はブルジョワ革命とプロレタリア革命が順次おこるものと推測されていたのですか?

A 回答 (4件)

ロシアでは、すでに1905年に「血の日曜日事件」という、王宮守備軍による民衆への発砲事件があり、王朝に対する民衆の精神的離反が起こり、これに続いて軍隊の反乱や、民衆の蜂起、ゼネストなどが起こっていました。

「第一次ロシア革命」とも呼ばれます。これには、1904年からの日露戦争も影響しています(なんと、ロシア帝国がアジアの小国日本に負けたのですから)。
http://www.y-history.net/appendix/wh1401-112.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE …
http://bushoojapan.com/tomorrow/2014/01/21/13111

この時点から、ロシア帝国のロマノフ王朝の崩壊は時間の問題だったのです。
その最終的ダメ押しが、第一次大戦中の食料・物資不足による生活困窮だったということなのです。

その後の展開は、誰も考えていませんでした。
レーニンが主導権を握れたのも、ある意味偶然みたいなものですから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2017/03/20 12:48

しかしブルジョアもしくはブルジョアジーは国民では無くフランス語の市民の意味です。

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ロシア革命は血の日曜日が引き金ですが、ニコライ王家にラスプーチンが巣くい怪僧ラスプーチンが政治や王家の女に手を出し大混乱殺害はラスプーチンを排除したい貴族が起こしました。

その影響かわかりませんが、王家一族は旅行その際中血の日曜日事件が起こり国民は王家一族や貴族階級を尊敬しなくなり革命となりました。
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いいえ。



単に王制による矛盾に社会が耐えられずに、民衆の蜂起が起きた

妥当した民衆側に確固たるモノがあったわけではなく、その混乱の中で右派勢力とレーニン率いる左派勢力とが勢力を競った

左派もメンシェビキとボリシェビキなど様々な思想や派閥があり、その中から極端だけど扇動力と行動力に優れたボリシェビキが最終的な権力掌握に成功したという感じ

この辺の流れを追った書籍を読んだのが随分と昔なので、細かい経過はもう覚えていない
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