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以前「日本語の行く末」という質問をしたものですが、質問の回答を得たあと、某所で日本語について議論にさそわれたので参加したのですが…。
まず結論からいうとそれは議論ではなく、多数派による少数派(わたし一人)への言葉による暴力でした。
外来語が増えすぎることの危険性を説いたのですが、それに対し彼らの主張は、

「言語はシステムであり、文化や思考への影響はあるにはあるが、大したものではないからヤマトコトバがなくなっても問題はない」
「コンピューターなどの概念は西洋文化からしか生まれず、コンピューターの原理である論理式なども西洋からしか生まれえない。だから翻訳など不可能。外来語は外来語のままとりこむべき。むしろ外来語が増える方が日本語は発展するからヤマトコトバは放っておいていい」
「ヤマトコトバをもっと使えって、こいつ頭おかしいんじゃね?」

といったものでした。
ワタシはできるかぎりわかりやすいコトバで、コトバと文化のつながりを説明したつもりですが、そもそも彼らはコトバと文化の関係を認める気がないようなのです。
さすがに無関係だとはいいませんでしたが、大したことではないし、外来語がいくら増えても日本の伝統文化はかわらず残るというのです。
なのに技術と文化は不可分だと強弁するのです。
特定の技術は、特定の文化からしか生まれないと。
ワタシはその文化の根本がゆらぐから、ヤマトコトバを守ろうと主張したのですが、彼らいわくヤマトコトバと日本の伝統文化は無関係らしいのです。
こちらがどれだけ実際の研究成果や科学的見解にもとづいた主張をしても、無視されるか曲解されるかで、あげくその場をとりしきっていた管理人みずから反対派をあおるようなことをして、ワタシを追い出す始末で…。

コトバも文化も変わるものだから、なくなったらそれはそれで仕方ないというのならいいのです。
それならスジが通っていますし、一人二人ですがそう主張するヒトもいました。
ですがその場にいたほとんどが、ヤマトコトバを守る気はないし、なくなってもかまわないが、日本の伝統文化はこれからも続いていくと根拠なく主張するのです。

精々数十人しかいないところですし、二十代から三十代ばかりで思想にもかたよりが見られるものの、議論には熱心だと思ったからこそ参加したのですが…。
かれらは外国とくらべ、日本の文化は素晴らしいとみな口にするのですが、その文化は特に努力がなくともたもたれると思っているようなのです。

わたしは酷く絶望しました。
これでは文化がすたれるのも当然だと。
この例をもってすべての日本人に当てはめられるものではありませんが、しかし日本の文化を誇りにかかげる人々が、その文化の根幹をないがしろにし、警告を無視するさまは信じがたいものでした。

長くなってしまいましたが、みなさんはコトバと文化のつながりについて、どうお考えなのでしょうか。
生活様式はすでに西洋化し、コトバも西洋化しつつある今の日本人が、興味もなければ知りもしない伝統文化をかかげ、ヤマトダマシイを叫ぶのは、本来われわれがもっとも厭う「恥」だと思うのですが…。

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    ※ここでいう伝統文化とは、サムライだとかワビサビだとか、日本固有と考えられれているもののことです。
    かれらいわく、かりに日本語の語彙のほとんどが英語(カタカナ英語)にかわったとしても、そういった文化はかわらず残り、先祖からうけついだタマシイは永遠だとのことです。

      補足日時:2017/05/27 00:38

A 回答 (5件)

外来語は取り入れればよろしい。


これからも新しい概念は生まれ続けるわけですから、海外由来の概念に無理やり既存の日本語を当てはめるのもおかしなはなしですからね。
もちろん、それで上手くいく場合もあるでしょうが。

そして、外来語や新しい日本語が増えたとて日本固有の文化(があるとすれば)には日本の言葉でしかあらわせない何かがあるはずですから言葉自体も残るはずです。

しかしまあ、サムライとか言ってみても歴史上の日本人を累積してみればサムライなんてものはごく少数しかいないわけで、そこで日本固有の文化として田吾作を持ち出せないところが質問者様の文化に対する捉え方の弱点ですね。
かっこよさげなものばかりが文化では無いんですよ。

それと、集会の人々の発言、発言そのままに記していませんよね。
質問者様の主張が正しいものであることを補完するように質問者様がリライト・演出していますよね。

こんな歪な情報でその人々の主張の是非を客観的に判断できるはずもありません。
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この回答へのお礼

外国が由来であることと、ある概念が日本語であらあわせるかは別の話でしょう。
サムライというのは例としてあげただけですし、弱点というのが何をおっしゃりたいのかわかりません。
格好良さと固有の文化になんの関わりがあるのでしょうか?

発言に関してはそのままではありません。
全文を書くとおさまりきらので端折ってはいますが、実際の発言のなかみは書いたとおりです。
ワタシがたずねたいのは彼らの主張の是非ではなく、あなたがコトバと文化のつながりをどう思っているかなのです。

お礼日時:2017/06/07 00:29

西洋が征服して塗り替える文化なのにたいして


日本は取り入れる文化です
ヤマトコトバなるものが完璧で絶対不可侵領域出ない限り
変わっていくことを拒否することは日本文化を否定することになりませんか?

日本のいいところは新しい言葉がたくさん出てきて
それがすぐに淘汰されることですね
そのうち幾つかの優れた言い回しが新たに定着する
とてもいいサイクルで回っているとおもいますよ
不要な言葉はすぐにすてる、必要な言葉は連綿と語り継いでいく
ヤマトコトバが必要だと判断されれば質問者さんが心配しなくても勝手に残っていくもんです
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この回答へのお礼

かわっていくのを否定しているのではありません。
かわってしまった結果、別物になったり、そもそも捨ててしまったのならば、それはもう自分のものではないということです。
たとえば日本語が漢語をふくむ外来語の語彙におおいつくされてしまい、ヤマトコトバの音と意味のつながりがわからないほどになったら、それはもう名前が同じであっても本質は別の言語であって、そうなったのならヤマトコトバを通して学ぶわれわれの祖先の考えかた・モノの見方がわからなくなります。
それはすなわちヤマトコトバの世界観の中から生まれた伝統文化もわからなくなり、捨てられるということです。

俳句や和歌はヤマトコトバを前提に生まれましたが、外来語ではこれらを表現できません。
「はる(春)」を「スプリング」というようになったら俳句や和歌は作れないでしょう。
ですがかれらはそういった問題を無視するのです。
ワタシには今の日本人がヤマトコトバや伝統文化を心から必要だとは思っておらず、実際つぎつぎと捨てているのに、根拠なく自分は先祖のタマシイと伝統文化を受けついでいると疑いもしていないと見ているのです。

お礼日時:2017/05/27 23:21

某所での集会に参加していた人たちは、言葉と文化との関係を理解できない浅はかな人達ですから、あなたが気にする必要などありません。

絶望しないでくださいね。
「ヤマトコトバをもっと使えって、こいつ頭おかしいんじゃね?」などの暴言は、言葉をコミュニケーションのツールとしてしか考えられない未熟な人間の証左。

古くは万葉の歌人たち、そして紫式部以後、近代の谷崎潤一郎・川端康成・安倍公房・三島由紀夫…に至る数多の作家とか日本文学者の方々、もともと米国人でありながら日本に帰化されたドナルド・キーンさんなど、彼らに言わしたら「精神異常者」にされてしまいそうですね。

人間の歴史も、倫理・哲学・精神世界をも知らず形而上学と無縁の人達、美意識の無い人達を、「嘆かわしい…」とされるあなたのお気持ちはよく分かりますが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

彼らの頭のなかには「言語→ただの情報伝達手段」という図式があって、それを否定する意見を絶対にみとめないのです。
「あかるい」「あか」「あける」といった共通の語幹と意味をもつコトバを英語に翻訳したらまったくちがう単語が三つならびますが、これこそが人間の思考のイシズエ、文化のネモトではないのかと主張したら、無視するか過小評価するのです。

特定の文化からしかうまれえない技術があるといいながら、言語という文化のイシズエを無視する矛盾を指摘されても、かれらは完璧な論理でワタシを論破しているつもりなのを見て、これがいまの日本の若者なのかと思うと…。

お礼日時:2017/05/27 01:09

伝統といいますが、日本は古来から外国の


文化を導入し、自分なりに咀嚼、濾過して
日本文化と融合、発展させ、我が物と
してきたのが伝統ではないですか。

昔はその外国が主に中国であり、現在は
西洋に代わった、というだけでしょう。

そもそも文字などは、中国からの輸入品です。
平安時代の公文書は総て中国語でした。

漢字の使用により、日本人の知的レベルが
上がりました。

見る、視る、観る、診る、看る、覧るという
区別が出来るようになり、緻密になりました。

報復、復讐とリベンジはニアンスが違うでしょう。
それだけ表現が緻密豊かになっているわけです。

西洋化をそれほど嫌悪する必要は無いと
思います。
使えるモノは使えば良いのです。

ただ、文化の軸は必要だと思います。
日本独自の文化の軸ですね。
その軸を保っていれば、外国のモノをいくら
取り入れても、日本は日本であり続ける
ことが出来ます。
大和言葉は、日本文化の軸の一つだと言えるでしょう。




これでは文化がすたれるのも当然だと。
  ↑
融通無碍が日本文化です。
この原則性の無さが、日本を今日たらしめた
と考えています。

生き残るのは最優秀でも最強でもない。
生き残るのは、環境に適合出来たモノである。



みなさんはコトバと文化のつながりについて、どうお考えなのでしょうか。
   ↑
コトバは文化の基礎だと思います。
特に、大和言葉は好いですね~。
美しいです。

西洋化しても、大和言葉は残して欲しいです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
補足にしるしましたが、ワタシのいう伝統文化とはサムライやワビサビなどの、日本固有と考えられているもののことです。
外来のものを積極的にとりこむことも日本の文化だとは思っていますが、ただ昔はちゃんと必要なものだけをえらびとっていたと思うのですが、今はまるごと取りいれるばかりで、すてるのは固有の文化ばかり、それこそtanzou2さんのおっしゃる「軸」をないがしろにしているように見えます。

捨てるなら捨てるでいいのです。
気持ち悪いのはかれら(ワタシに暴言をはいた人たち)が、いらないと言って捨てたものを、自分のものであると主張している点です。
ヤマトコトバはいらないと言いつつ、ヤマトコトバから生まれた文化は自分のものだと言い張る根性がワタシの理解からかけ離れているのです。

かれらはまず間違いなく和服に興味はなく、知識ももちあわせていないでしょう。
ですがその和服の文化は自分のものだと、恥ずかしげもなく主張するのが、一体どういう精神構造から来るのか、不思議でならないのです。

お礼日時:2017/05/27 00:53

カタカナ混ぜて書き込む方も、同類ですよ。

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