プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

ある芸術家の先生がテレビでのお話で、私には理解出来なかった事があります。

その先生は若いころ、自分を中心に世界が回っていると考えていた。
その先生は学生の頃音楽をやっていて、芽が出なくて挫折し、芸術の世界に入り巨匠になりました。

私には理解出来なかった事があります。
①自己を露出する事はやめなさい。表現は自己満足じゃない所から生まれる。
自分にオリジナリティーなど必要ない。作品にオリジナリティーがあればいい。

作品を作り世に発表する事。
芸術家という事。
この時点で自己を露出しているのでは?と思ってしまいました。

また、楽吉左衛門もテレビで仰ってたのですが、
「そろそろ自分を出さなくてもいい。自分を出すことが辛くなってきた。」
「表現という物がやっかいである。土のままでもいいじゃないか。
だけど、黒くしたいとい自己があり、表現をする限り、自己は手放せない。
だけど、もういいよね・・・」


自分も作品を発表するにあたり、自己について非常に悩んでおります。
自己を捨てたいのだけど、捨てられません。
例えば、自分がこれだ!と思った作品よりも、別の作品が評価された時など・・・
自分の作品が認められなかった時や否定された時など・・・

質問者からの補足コメント

  • ご回答ありがとうございます。
    自己の名声とか、富とか、そう言うもののために表現をするのではない。
    では何の為に個展を開催したり作品を売るのでしょうか?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/09 08:09

A 回答 (15件中1~10件)

自己を作品を作る意欲に読み替える。

2種類の作品を作る意欲がある。他者への働きかけと、自己目的。他者への働きかけについて、ハンス・アヴィングの『金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか』を読むといい。https://www.amazon.co.jp/dp/4903341003


後は余談。
作品を作る意欲その1-他者への働きかけ。
作品を良くする意欲。良いってことが分かるのは、鑑賞者に評価されたとき。良いというコメントをもらったり、買ってもらえたりしたとき。だから、良いコメント、お金を得るために、良い作品を作ろうとする。良いコメントをもらうとさらに作品を作る意欲になる。お金をもらうと、さらに作品を作る環境が作れる。
逆に、良くする意欲が作品を悪くすることもある。茶碗を例にすると、ゆがんだ淵野茶碗はかっこいいかもしれないが、使いにくい。ムンクの叫びが部屋に飾ってあったら、日常生活に困る。絵画だと日常生活に居場所が無い。自己が他の人から見て邪魔。美大生はアート作品を買わない。https://togetter.com/li/9075
質問者が言語化できてないのは、作品を作る意欲、褒められることとお金の部分。すでに有名になって、お金もあって、作品を作るときに評価を気にしなくていい有力作家が、もう自己(他者への働きかけ)いらないよね。その方がいい作品ができるよね。って有力でない芸術家に向けて言われても、お前ら、最初は自己押し出しまくったんだろーが‼と腹が立つだろう。
比べてみるのが良い。芸術家が、有力になる前の作品と有力になった後の作品で、どっちがいい作品なのか?

作品を作る意欲その2-自己目的
もう作らずにはいられない。みたいな人がいるんだろう。極東学園天国の2巻で武藤理一というキャラが言う。こんな風に言われたらもうしょうがないよね。自己を手放したいという質問に沿った回答ではないし、そんなことはわかっとるわい!と言うだろうけれども。
『新装版 極東学園天国(2)』 https://www.amazon.co.jp/dp/4063768929
「いいじゃんそれ。描きてえよ。」
「えーーあーそんな期待すんなよ。ド下手の上にめちゃくちゃだ
 かんな。まあそのおかげで堂々と人前で描けんだけど。うまく
 描こうなんて欲ねぇから」
「げーーへんなこときくなーーんーーなんだろ。口下手だかんな
 オレ。口じゃ言えねえこと全部塗りたくってんだ。ああ今日も
 わかってもらえねえなと思うたび塗るんだよ」
    • good
    • 1

更なる感想です。



その道の成功者の言葉が、そのまま誰にでも通用するとは思えません。
    • good
    • 1

rakurakutokeruさんがここで云う"自己"とは"我欲"の事だと思いました。


作品に作者の個性が現れる、という意味での"自己"ではないようです。

作品に自分の個性を表現したいのなら、作りまくるしかないと思います。
"芸術家"と云われる人たちのたどり着いた主張・意見は、そのようにして自ら導き出した答え、考えなのです。

rakurakuさんも作品を書きまくれば、独自の答えが心に現れてくると思います。

でも今は、多くの人に「認められる」ような作品が目標なんですよね。
試みに、あえて"我欲"むき出しで創作し続けてみてはどうでしょう。
    • good
    • 1

rakurakutokeruさん こんばんは



私は芸術な物を観るとき、いつも、どこがいいのだろうと思います。
確かに、強烈な印象ではあるけれども、自然の造形美にかなうものなどないと考えるのです。

でも、作品の題名、説明を読んでゆくと、なるほど、こういう作者の心情が表現されているのだと解るのです。
要は、誰もがよくはわからないけど、すごいような気がする、そんなものが、芸術だと。私は思うのです。

芸術とは、作者の生き方のことなんだと。
だから、できるだけ、観るものに考えさせて、感動させることだと。
自然界の物は優れているけれども、作者の生き方を表現していないから感動に結びつかないのだと。

>①自己を露出する事はやめなさい。表現は自己満足じゃない所から生まれる。
自分にオリジナリティーなど必要ない。作品にオリジナリティーがあればいい。

>「そろそろ自分を出さなくてもいい。自分を出すことが辛くなってきた。」
「表現という物がやっかいである。土のままでもいいじゃないか。
だけど、黒くしたいとい自己があり、表現をする限り、自己は手放せない。
だけど、もういいよね・・・」

これらの文章が芸術だとすると、実に見事な自己表現ですよね。(^^)
    • good
    • 0

補足について。


作品を活かすためではないですか?
作品を作っても誰の目にも触れないのではそれは死んでしまうでしょう。
この話、アーティストだけに通じる話ではないようです。
    • good
    • 0

書道家 武田双雲 が昔とあるTV番組で言っていた事を思い出します



彼は毎日写経をするそうです
その時、自分の個性を捨て、ひたすら、手本を真似て真似て、自分の
個性をひたすら削って消して、写経をするそうです
そうして、自分の個性を削り抜いて書き上げた写経なのに、
ひと目見ただけで自分の字だとわかるそうです

自分の個性を削って削って、最終的に残った自分とわかるものこそ
本当の自分の個性なのだと
最初に捨てた個性は、本当の個性では無いんだと感じるそうです



質問者さんの文面にある、自己を、個性に置き換えて、質問を読んでると意外と
すんなり来ました

>①自己を露出する事はやめなさい。表現は自己満足じゃない所から生まれる。
>自分にオリジナリティーなど必要ない。作品にオリジナリティーがあればいい。

ここで言う「自己を露出する事」の自己は、先の文面でいうひたすら捨てた個性
なのでは無いかと
でもどんなに自己を捨てても、最終的に残る物の中には自己があって
それこそが本物なのではないかなと思います
    • good
    • 2

ミケランジェロの名言とされている言葉に「石の塊に埋まっている彫刻を取りだす」というものがあるらしいです


自己表現と捉えていたらこういう発想は生まれなかったでしょうね
私は芸術に関してド素人ですが理屈で考えれば自己表現で生み出される芸術で表現されるものは
当然自己ということになりますよね
それは芸術家本人の感情であったり思想であったり物の見方や感性などの反映であると思うのです
だとすれば鑑賞する側から見ればそういった作品に対する評価は共感するか否かということになりますね

絵画や彫刻、音楽でも芸術と呼ばれるものには歴史があります
その歴史を踏まえた上で新しいもの(オリジナルなもの)を創ろうという発想で
生み出される芸術は新たな技法、新たな表現、新たな芸術的価値、など
自己とは特に関係のない芸術という文化に対する表現になるはずです
それを鑑賞する側から見ればそこには共感ではなく承認(芸術として認められる)という心の働きがあるはずで
自己表現か否かでその作品も作品を見る鑑賞者への印象も全然違ったものになると思われます

ただ自己表現がいけないわけではありません
恐らくそれは芸術家にとっての原動力なのではないでしょうか?
あなたの場合、自己を捨ててしまっては芸術への情熱はなくなってしまうかもしれません
だから自己表現を芸術という文化的な意味で新しい価値ある表現によって行えばよいでしょう
そうすれば自己表現しつつ芸術の歴史に新しい一歩を加えることができるはずです

ただ単に自己表現という目的を満足すればよいのだとすれば
過去の芸術家の焼きまわしでもよいわけで
それでは芸術にとってあまり意味はないです
    • good
    • 1

哲学になりますが、何を持って芸術、美と


するかについては諸説あります。

大きく分けると、
神が創った芸術、美があり
人間存在など本質的でない、とする説と
人間あってこその芸術、美である、とする
説にわかれます。

こういう基本的な考えを念頭にいれて
おくと理解しやすいかと思われます。


芸術、美は作者の感性、人格などが表出された
モノだ、という説があります。
表出説といいます。

そうではない。
芸術、美というのはイデアが現象化したものだ
という現象説、というのがあります。

表出説が人間中心の芸術論であり、
現象説が、人間を離れた神の芸術論です。


ある芸術家の先生が言ったのは、当初は表出説的
だと思っていたが、経験を積むと次第に
現象説的な考えになってきた、という
ことではないでしょうか。



作品を作り世に発表する事。芸術家という事。
この時点で自己を露出しているのでは?と思ってしまいました。
   ↑
自己を露出していると思っていたが、それは
錯覚だった。
たとえていえば、客観的に存在する芸術、美を
発見しただけだった。

創造していたと思っていたが、埋もれていたもの
を掘り起こしただけだった。
    • good
    • 0

ああぢゃこうぢゃ言っても 要するに


 
試行錯誤して前へすすむ。

という話ではないの?
    • good
    • 0

「自己の手放し方」



「自己」を手放す為には、「自己とは。」を明確にしていなければ、
ならないと、思います。

しかし、変転する「思考」や「感受性」や「知識」の中で、
「自己」を明確に、「固定化」しようとするのは、本来、無理ではないか、と
思います。

詰まり、自己とは、「把握、固定化出来ない」ものです。

「何もない所から、何かを生み出す。」と言う行為の過程で、
「自己を露出する。」と意識したところで、肝心の「自己」が固定化
出来ていないのであれば、早晩、壁にぶち当たり、思考や手が、
止まってしまう。

そのような「驕った考え方」を捨てて、作品に向き合えば、
出来上がった作品は、「作者の自己そのもの」が作成した作品なので、
自然と「オリジナリティー」溢れる作品になる。

だから、
「オリジナリティー」を出すために、「自己」を生み出すのではなくて、
むしろ、「自己と言う邪念」を捨てて、作品を創作すべきだ、
と言う事では無いか、と思いますが・・・・・・。

少なくとも私は、若いとき、そのような課題にぶつかりましたが、
上記のような、自己流の流儀で、勝手に、解決させました。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す