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1. いにしえの日本人は むしろ無神論という信仰をいだいていたのではないかと
いう命題を試みに立ててみます。

2. 大野晋によると 日本語の《かみ(神)》は文献や民俗学等々で分かる限りで
は 次のような意味を持ったと言います。

○ かみの原義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (あ) カミは唯一の存在ではなく 多数存在している。
 (い) カミは何か具体的な姿・形を持っているものではない。

 (う) カミは漂動・彷徨し ときに来臨して カミガカリ(神憑り)する。
 (え) カミは それぞれの場所や物・事柄を領有し 支配する働きを持っていた。
    〔産土(うぶすな)神・山つ霊(み)・海(わた)つ霊〕

 (お) カミは――雷神・猛獣・妖怪・山などのように――超人的な威力を持つ恐
     ろしい存在である。
 (か) カミはいろいろと人格化して現われる。
    〔明(あき)つ神・現人(あらひと)神〕

(大野晋:古語辞典 1990 補訂版)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. この(か)の《神の顕現 ないし 人格神》は (う)の《神憑り》を一段高い
ところに立って再び採り入れたものと考えられます。

4. 神がかりとは いわゆるアニミズムであり すなわちものごとに寄り憑く原始心
性のことでしょう。それに従えば ほんとうは《見えない》〔つまり(い)〕けれど 
仮りに姿を見せたという捉え方および表わし方をおこなった。

5. つまりすでにこのように問い求めた定義からすれば われらがおや(祖先)たち
は 《超自然・非経験》の領域を 何も表わさなかった。つまり強いて言えば《無い神》
を立てていた。

6. 古事記の初めには アメノミナカヌシ以下三神が登場しますが これらは《独り
神となりまして 身を隠したまひき》とあります。一般に思われているアマテラスオホ
ミカミは もっともっとのちの神です。

7. どうもこのように――わざと 無神論を見ようとしても――考えて来ると 日本
人には《表わさない》=《言挙げせず》という基本線があるのかも知れません。

8. 朝 日向かしの空より昇る真っ赤なおてんとさまを見て あるいは西の山の端に
沈みゆく夕焼けをながめて

 ――あはっ。(ああ! Ah ! Oh ! )

と口をついて出た。そこに 絶対の神を見たのかも知れません。見なかったかも知れま
せん。

9. これが言われている《ものの〈あは〉れ》であり 《随神(かんながら)の道》
なのだとも思われます。《隠れたる神 Deus absconditus 》。

10. ▲ (柿本人麻呂 万葉集 巻三・235番) ~~~

 おほきみは 神にしませば
 天雲の いかづちの上に 廬(いほ)らせるかも

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
という歌には 思想もしくは信仰が現われていると考えます。つまり 《世の中の通念
は 大君が神であると言う。なるほどそれゆえ 雲の上・雷の丘の上にお住まいである
のか。そうかもね》と。

11. 人麻呂は神について 絶対の概念をとおして 思っていたからではないですか。
《通念は・人びとは 絶対の神とそして相対の神々とを混同している》と述べていませ
んか。

12. 人麻呂にとっては 神が《目に見えない。しかも心の目にさえ見えない》こと
は 当然のことだったのでは? 精神論でもないと。

13. ただし 外(と)つ国へ出かける友に向けては 別れのあいさつとして言挙げ
ぞわれすると言っているようです。

14. 表題について問います。《無い神》という神。つまり 普遍神です。

A 回答 (2件)

面白い質問で、楽しく読ませていただきました。

調べ物をしないと読みこなせませんでしたが、それもまた楽しかったです。

6に、独り神となりまして 身を隠したまひき と引用されておりますが、これが無い神を立てていたということを言い表している箇所ということですね?

この無い神は、いわゆる無神論とは趣が異なるように思います。無神論は今の科学の世界観に則って唯物論的な見方をする人が、神はいない、存在しないと主張するもので、無い神というのが隠れたる神を意味するのであるならば区別されるのが良いと思いました。

むしろ普遍神というのは隠れていると言ってもいいし、見えないと言ってもいいし、隠り世という言葉に表されているようなあり方をしているものではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ううーん。ほとんどぜんぶ言われてしまったといった感じですね。

ご回答をありがとうございます。

あとは 取りあえず 普遍神は 個々の人にとって具体的には《有る神》
という神か《無い神》という神か いづれかとして 自由にえらんで持
つ。

つまりは 両者は互いに同等であり対等であるゆえに 自由にえらんで 
それとして持つ。――という仮説を打ち出したい。

無神論という表現には おっしゃるように すでに手垢がついていて誤
解を生みやすい。ということでしょうが。

といった感じでしょうか。さらに問い求めて行きたいと思っております。

お礼日時:2017/06/10 23:50
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この回答へのお礼

言葉は そのまま意味を持っており 意味は概念のことです。

そして通常は この《言葉≒概念》が その意味において対応する
ものごとを持ちます。

《つき》:
 《 tuki という発音や 月という文字などとしての言葉》
 ≒ 《夜空にうかぶ明るい天体という概念》
 ∽ その星そのものと対応している。


問題は 言葉≒概念であるだけか。それとも それだけではないか。
にあります。

言いかえると 《言葉≒概念》がその意味するところにおいて対応
する何かを持たない。または その対応が 明確ではない。という
場合があるというわけです。



《かみ》の場合が それです。

《かみ》:
 《 kami という発音や 神という文字で表わす言葉》
 ≒ 《超自然あるいは非経験という概念〔として説明する〕》
 ∽ 何と対応するかは はっきりしない。

言いかえると 経験世界における経験的なものごとの中には 対応
するものが何もないということです。

(神の霊が われわれ経験存在たる人間にやどると言った場合 そ
れは――決して確かめ得たわけではないからには――そのようにわ
たしたちが想定している。ということになります。証明し得ていま
せん)。


経験事象を超えたナゾの場(ないしチカラ)を表わす《言葉≒概念》
は 固有に《そのナゾを指し示すためのシルシ》であると見なされ
扱われます。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/06/10 19:50

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