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ご存知の方もおられるかもしれません。
ドラゴンボールと言う漫画があります。
孫悟空が、なんでも願いを一つ叶えてくれるという龍を呼び出す七つの玉を集めるために、世界を旅するという冒険譚です。
この物語に登場する悪の親玉に、ピッコロ大魔王というのがおりまして、この悪人の願いが、「永遠の若さを手に入れる」と言うものでした。
私は、この、生存に固く執着する欲望、願いを悪人の親玉が抱くことについて、とても合点が行くのですが、これ系の願いを自分がかつてまったく抱かなかったか?と言われると、素直にうなづけません。
さすがに永遠に生きたいとまでは思いませんが、長く若くいたいくらいには思います。
この、生存の執著は誰しも持っているであろうものですが、これが昂じて悪人の願うところの様になってしまった時、彼は何かを見失っている様にも思えます。生にかじりつくあまり、人として大切な何かを見失ってるのではないか?
逆に言えば、老いや死がもたらす大切なものは何か?
と言う事でもあります。

この悪人の願いとその盲点について、思うところがあればどうぞよろしくお願いします。
お気軽にどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • 今回のベストアンサーは、選ぶのが難しかったので私の好みで選ぶことにしましたが、多くの興味深い回答をいただけて満足しております。皆さまありがとうございました。

      補足日時:2017/06/26 02:11

A 回答 (20件中1~10件)

永遠の命をさずかったら


たぶんだれも勉強をしないだろう
恋愛というものもなくなるだろう
食料もいらなくなり、地には木も植えなくなるだろう
貿易もする必要もなくなり、海の外への興味もなくなるだろう
現在のような世界ではなくなるだろう
なにもない世界になるだろう

永遠の命のなかで
人は今、なにかをしようとは思わないだろう
なにかをしなければとは思わないだろう

今日が終わるという感覚もなくなるだろう
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この回答へのお礼

こういう回答は私は好きですね。
案外、永遠の命を授かったなら、死んだように生きるのかもしれません。
ありがとうございます。

お礼日時:2017/06/14 19:29

どうでもいい指摘でしょうけど私もドラゴンボール読みましたよ


そもそもピッコロ大魔王は人ではありませんから人として大切な何かを見失うというのは
ズレた指摘だと思います
ただ人でなくともピッコロ(ピッコロ大魔王の分身)は人の心を持って(悟飯を庇って死んだり)いますが
ピッコロ大魔王は神から悪の心を分離した存在なので純粋な悪として描かれています

また生に対する執着から若さを求めると言っていますけど漫画の設定上は
若さを手に入れるのはかつての力を取り戻すためでその目的は世界を支配することです

だからピッコロ大魔王を例にとるなら生存に対する執着ではなく支配に対する執着と読むのが
正しいと思います

まぁそんなことはどうでもいいですよねきっと

>老いや死がもたらす大切なものは何か?

色々と諦めることでしょうね
でも諦めるというとネガティブなイメージですから
むしろ老いや死がもたらすよくないものかな?
でも諦めないとなるとそれは執着ですからポジティブなのも良くないのでしょうか?

他に思いつくものといえば時間の大切さを気づかされるとかですかね
自分の命には限りがあるのだから時間が大切なんて当たり前ですけど
振り返ってみればみなさん多くの無駄な時間を過ごしてるんじゃないですかね
自分に残された時間がもう残り少ないと気づいて初めて時間が大切だと心の底から思ったりするんじゃないでしょうか?
病気になって健康の大切さを考え
死が間近に迫って生がどれほど素晴らしいか思う
時間、健康、生、それぞれに対する執着心が芽生えることでその大切さに気づかされることってあると思うんです
失って初めて気づく大切さですね
大切だから取り戻したいと思う
でも老いや死で気づかされる人はお気の毒です
もう諦めるしかないんですから

だから執着しないことで見失っているものもあるんじゃないですかね
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この回答へのお礼

細かい話になりますが、ピッコロ大魔王は地球人じゃ無いだけで、人は人だと思います。あの漫画には獣人や亜人はたくさん出て来ますね。みな人格があります。
あと、世界征服は老いた状態でもできるのですが、若く漲る圧倒的なパワーが欲しくてドラゴンボールを集めるんだったかと記憶してます。これは生存の執著に入れてもいいのかなと。

老いや死を若いうちから考える事は良い事だと思います。それによって、余計なものは捨て、大切なことだけが見いだされるからです。この余計なものを捨てることを諦めると言うのなら、それは大変結構なことだと思います。

時間の大切さについてはセネカも手厳しく語っている通りですね。

老いや死、病が目前に迫らなければ分からないと言うのはやはり愚かですが、そうであるのが私も含め多くの人であるのかもしれませんね。

執著しないというのは、初めから執著しないのではなく、執著していたがそれを離れることを言います。初めから執著しないのなら、その対象はその人の人生にとってただの風景以下のものでしょう。生存や若さ、健康といったものに初めからその様な低い地位を与える人など考え難いですね。やはり皆、生や若さ、健康には執著すると思います。しかしその事によって見えなくなることもあるのでは無いか?と言うのが今回のお題なのでした。

お礼日時:2017/06/21 00:34

若さ=活力、というように解釈すると


その活力のあまり他人に無茶を要求し続けるようなことになってしまうのではないかと思います。
他人の衰えを理解酌量できない、みたいに。

本来人間は人として限界があり
成長して衰えていく過程の中で
しかたのないことに慣れて適応してあきらめながら
環境ともがきのすり合わせとして
自分の個性に応じた人生の落としどころに流れていくものだと思います。
そうした個人の集合体がまた誰かにとっての
環境となっていくものだとも思います。

永遠の若さというのはそういう人にとっての適切なバランスを崩してしまうような気がします。
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この回答へのお礼

おっしゃるとおりだと思います。人間の限界を知れなくなってしまうということは、人として生きることができなくなるということです。
別の漫画で、これまた悪役が、「俺は人間をやめるぞ!」と言って永遠の若さと引き換えに夜の世界に生きることを選択したキャラクターが居りました。
永遠の若さや命を得ることは、人として大切なことを忘れてしまうことである気がしてなりません。まぁ、他の回答者様もおっしゃるように、悪役ですからそんなもの忘れてしまっても、彼自身どうにも思わないかもしれませんが。

お礼日時:2017/06/20 17:30

№15までのお礼コメントをありがとうございます。



《生まれて来た者は 死ぬ》という事実からどのように自由になるか?

などなど。

一たん保留して さらにすすめて行きたいと思っています。
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この回答へのお礼

了解です。質問はしばらくあけておきますので、また気が向けばお尋ねくださいませ。
ありがとうございます。

お礼日時:2017/06/18 21:30

ドラゴンボールという漫画を私は見たことがないのですが、「悪の親玉」というものは


大抵、欲望に執着するように描かれているものです。

仰るように、実社会の中には純然たる悪人、善人というものは、まずいないものです。
一人に人間の中に「善」「悪」多分「中間」の三種があって、その割合が個性の一つに
なると言えるでしょう。

世の中の善悪の仕分けの作業は大変なものになると、常々思っていますが、簡単に言え
ば「エゴ」かどうかということになりそうです。

私の経験ですが、社会的に不遇の期間が続いた後、かなり条件のいい就職が出来たこと
がありました。その時に私は「ああ、このポストは手放したくないな」と正直思いまし
た。

世の中、もっとずっと条件のいい社会的ポストというものがありますし、大きな権力や
ら財力なんか手にしたら尚更でしょう。
古代中国の皇帝などになってしまったら、それは慢心にもなるでしょうし、執着するで
しょうね。
だから、真剣に「不老不死」を求めたんだと思います。

ですから、生存に対する執着というよりも、現在手にしている「良い状態」を手放した
くない、という心であると思います。

ピッコロ大魔王は、若い漲る力で悪事を行うことが楽しくて仕方がないのでしょう。そ
して、その状態を永遠に維持したいと願ったのでしょう。

これは、全くの「エゴ」で、理不尽です。よって、叶えられないことで、つまり、不幸
なことです。
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この回答へのお礼

現在手にしている良い状態、或いはかつて手にしていた良い状態(若さなど)を手放したくない、再び手にしたいということですね。
物語の中では、ピッコロ大魔王の出自の由来が軽く描写されております。それは、かつて神が人間であった頃、神になるための修業によって自らの中の悪を追い出した、その悪がピッコロ大魔王となったという話です。子供ながらに面白いと思ったものです。

世の中の富や地位は我々を動かすのには十分すぎる力を持っていますね。今の私も金欠、大した地位もないので、気持ちはわかります。ですが実は、それらは昔捨てたんですね。ところがその捨てたものを世の中の人々は求めている。そのギャップが私には埋めがたいです。

お礼日時:2017/06/18 18:02

お礼をいただきまして、ありがとうございます。



ピッコロ大魔王は物語の中では、生粋の悪ではなくて悪事を愛する悪役であると思われます。マフィアのボスのようなタイプです。後に登場する破壊を楽しむセル、ブウ(悪)が生粋の悪役だと思います。ブウ(純粋)になると、自然災害に近いので悪からも外れると思います。

「弱者の媚」とは、文字通りの意味です。弱い人、困っている人を助けたり、励ましたり、等を行なった後に見返りを求めなかったり、苦しめたり、といった事をしないことです。危害や見返りを求めず、人助けする行為です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
あの漫画にはいろいろな悪が登場しますね。
 
弱者の媚、了解です。これはいいものなのですね。

お礼日時:2017/06/18 17:54

№14より続きます。



37.
★(№9お礼欄)~~~~~~~~~~~
(お) 「・・・それは、神がすべての者にあって、すべてとなられ
るためである。」

(か) 聖書のこの文言は、全てが神に染まり、人は人でなくなる、
個人という実存が失われる事を言うのではないか、

(き) その代わりに完全に相通ずることを得る、

(く) とするなら、確かに関係性はシンプルにかつプレーンにはな
りますが、個人という壁のあることの意味、分かり合えないからこそ
の分かり合える感、以前何処かで回答者様がおっしゃっていた孤独関
係というものが失われてしまう感じもします。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 38. イエス・キリストの指し示した神は 普遍神です。

39. 聖書の独自性は みづからを普遍神の次元といった一段高い
ところにみづからが揚げてあとは古いみづからを棄てるという内実を
ふくむ独自性です。

40. 旧約の・ユダヤなる民族にとっての神(ヤハヱー)みづから
が その狭い料簡たる民族神であることを棄て 民族を開き すなわ
ち普遍神へと揚げました。ちなみに 《われは神なり。われなる神を
知れ》ということも言わなくなると言っています。

41. ▲(ヘブル書(=新約聖書) 8:7-13) ~~~~~~~
http://bible.salterrae.net/kougo/html/hebrews.html

もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二
の契約の余地はなかったでしょう。

 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  と始めて ここに《旧約聖書におけるエレミヤ書 31:31 以降》
  http://bible.salterrae.net/kougo/html/jeremiah.h …
  のくだりが引かれています。

   要約してしるします。二点あります。:

   ( a ) 《原罪》は 贖われ終わったということ。
   ▲(ヘブル書 8:12 =エレミヤ書 31:34 ) 彼らの不義を赦
    し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。

   ( b ) オシヘは 要らなくなったということ。
   ▲(ヘブル書 8:11 =エレミヤ書 31:34 ) 『主を知れ』と
    言って教える必要はなくなる。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   

神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてし
まったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えう
せます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

42. つまりはつまり すなわちはすなわち 人間の歴史における
キリスト・イエスの登場のあとは――聖霊なる神を贈ることはあって
も―― もう神としてはしりぞきます 文字通りきみたちの出番だよ
と言ったことになります。

43. いわゆるクリスチャン――つまり わたしのような横着者で
はなく 聖職者も信徒も―― このヘブル書=エレミヤ書の記事につ
いて ほとんど沈黙を守っています。

44. したがいまして (37)の(か)は まるでそのぎゃくの
ことが起こることになるはずです。

45. ★(37-か) 全てが神に染まり、
☆ は その通りかも分かりませんが でもそれゆえに その神の色
は 背景にしりぞきます。神が言うには 人間たちよ まかせたぞと。

46. ★ 人は人でなくなる、
☆ ふるき人を脱いで あたらしき人を着たので今までの《人間》は
もうとても生きて行けなくなるかも知れません。恥づかしてくて往来
を歩けなくなるかも知れません。が 神が隠れてしまったので 人間
は余計に人間くさくなるかも分かりません。

47. ★ 個人という実存が失われる事を言うのではないか、
☆ その持てる知性とちから一杯に 何のうれいも遠慮もなく 自由
に振る舞うことになってしまうはずです。

48. ★☆(37-く) 孤独関係
☆ は――オシヘとしての・その意味での規範であり道標としての神
なる観念は 消えてしまっているからには―― おのれの固有の時間
としての孤独およびその孤独関係は ふつうに自然に深まって行くか
とも思われます。

49. ☆☆(22)(指摘された第二の論点で この生死観を枠組
みとしては 取り払うことが出来るということに触れます)。
☆ と書きましたが 《人間たちの罪は忘れると神が言い 神を知れ
と言って教えることもなくなる》のですから オシヘとしての生死観
も もうこだわる必要はなくなります。

51. おそらく死が克服されて行くのだと――ただ楽観としてです
が―― 思われます。生と死から成る限りある人生 あるいは この
朽ちるべきわが身とその人間関係から成る縁起無常の世界 これがお
そらくあらたまるのでしょう。

52. 無常はそのままであっても それを見る眼とその立ち位置が
変わるのかも知れません。教えを乞います。
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この回答へのお礼

なるほど、興味深いお話です。
神は退き、新しき人の時代が来ると。脱ぎ捨てられる古き人間の殻とは何か?が分かれば、一層あたらしき人の像が浮かび上がりやすくなり、この問の答えにも近づけるような気がしました。
脱げ去るもののうちでとりあえず私がわかっているものは原罪です。つまり誰もが自分の本心に正直になるということ。あとは教義でしょうか。他には何があるでしょうか。

孤独関係について。自己の実存認識の深まりといいますか、固有の時間という概念が独特なので理解できていないかもしれませんが、その深まりはより深くなり、相対する個と個の間の関係もより深いレベルのものになるということですね。

49.すみません、ここで、「22.・・・自己欺瞞によって この生に死が介入したという見方については 無記です。(分かりません)。」
ということについての見解が書かれているのですね。無記ですということは、この原罪によって死が発生したとは言っていない。誤解しておりました。NO.13のお礼の該当箇所を訂正いたします。

51.どうでしょうね。正直申し上げれば、死が無くなるというのは、あたらしき人になる以上に、生命でなくなる必要があると思うのです。かと言って木石になるのではありません。もちろん電子回路に住み着くのでもありません。永遠はどこにあるか?という問を新たに立てる必要があるかもしれませんね。世界の構造や宇宙の仕組み、生命原理、生じたものは常に滅するということは変わらないでしょうが、人の世のあり方は変わりうると思います。

52.これでしょうね。無常というのはいわば無常の人から見るゆえに無常だとも言えます。生じるものもなければ滅するものものないという、一段レベルの上がった見方をする場所に到達するならば、無常の中にあって常住に生きることも可能でしょう。その時は、滅びたり、滅びなかったりしないのでしょう。言葉のトリックではなく、精神的な生き方がそうなっていて、彼にとっての世界の捉え方もそうなるということです。死を超えることがあるならば、その面の一つはこういうことだと思います。

もう一つの面は、素朴ですが誰にでもわかるもので、後悔のない毎日を生きているというものです。これもまた死を超えているでしょう。これは全く簡単ではなく、現実的でもないですが、道理にかなっていると思います。

お礼日時:2017/06/18 17:51

№13より続きます。



26.
★(№9お礼欄) もう一つは、 / この、相手の心理を(必要な限りで)
洞察し知り抜くことは、はたして相手や自分のためになるのかということ
です。
☆ 27. 字面における反論としては:
《(必要な限りで)》と条件づけたことは 《相手や自分のためになる》
限りでという意味にはなります。

28. 問題は――回答№13の項目(14~17)に触れましたように
―― 《心理》といったうわべとは違う心における広い意味での秘密につ
いてはどうか? ではないでしょうか。

29. 心なる海のおもてに立つ波風の問題ではなく おのが固有の時間
として必ずしも他人(ひと)に触れて欲しくない心の奥なる心についてど
うか?

30. すなわち:
★ 人には、他者に知られたくないという事がありますが、心理が筒抜け
だと、この知られたくないことも知られてしまいます。たとえそれが必要
なことであったとしてもです。
☆ 末尾の一文:《たとえそれが必要なことであったとしても》という捉
え方が気に成ります。(27)は 浅慮であったか?

31. すなわち:
★ ~~~~~~~~~~~~
(あ) たとえ他者の心理を完全に推し量ることができないとしても、対
立を超えられる、そのようなものが悟りに近いのではないか? とも思い
ました。

(い) つまり、人間には色々あるけれど、根本のところでは対等なので
はないかと。

(う) 人の心理をあれこれと詳細に知る必要はないのではないかと。

(え) 理由はあるだろう、それを尋ねることはしないが、ということで
す。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 32. (う)は 期せずしてと言いますか 見方がほぼ一致しまし
た。=(16)。

33. (え)と(16)(17)とで 心理の扱い方についても 一致
したでしょうか?

34. 問題は煮詰まって来ました。:
【キサラギX案】:(あ)=以心伝心・惻隠の情・不立文字・・・
  (い)=《人間の普遍性》なる理念としての人間観とその共有

【ぶらじぇろーぬ案】:(12)=肝胆相照らす二角関係
  (6)=すべての世界事情や情況を《必要なかぎりで》知る
   * 《必要な限りで》とは:
 (7)=世界との・そしてなかんづく自己自身との 和解が成る。ため。
 (8)=誤解やシガラミから自由になる。ため。

35. 《肝胆相照らす》というのは:
▲(故事ことわざ辞典) ~~~~~~~~~~
http://kotowaza-allguide.com/ka/kantanaiterasu.h …
互いに心の中まで打ち明けて、理解し合い、親しく付き合うことをいう。
~~~~~~~~~~~~
☆ とすると 限られた仲としてでしょうが 言わば《明け透け》ですね。
(あ)以心伝心とは 対極ですね。どうしましょう。
妥協案は 《必要な限りで》なる条件づけですが。・・・

36. 付け加えるに わたしはこうも考えます。:
哲学する道に入る門には 赤っ恥を喰うことをおそれるなかれと書いてあ
った。

やがて一里を行った里程標には きみたちは 哲学の徒として精神のスト
リップをいとうなかれと書かれていた。

☆ つづきます。
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この回答へのお礼

おはなし進めていただき感謝します。
34.でまとめていただき、話が一層わかりやすくなりました。お手間だったでしょう。こういうのは意外と時間がかかりますから。

35.あ) まぁ確かに対極であり、私が陰で、ぶらじぇろーぬさんが陽といったところでしょう。ここまで明らかになっただけでも儲けものです。必要な限りで、という文言について詰めが必要というご認識ですね。微妙なところになりました。

36.はおもしろいですね、思わず少し笑いました。わたしは、飾れとは言いませんが、せめていつもの服くらいは着ておけば?という感じですかね(笑)哲学をしているとしても、普段見ている地平を他所において地下に潜ったり空を飛んだりすることはない、という方針ですね。

続き了解です。

お礼日時:2017/06/18 17:01

コメントをありがとうございます。



14.
★(№9お礼欄) 仰るところのさとりなる動態主観とは、つまりは相手
の心理やその背景を洞察する力、もっと言えば透視できる能力といったと
ころでしょうか。そして同時に、10.において、それは一人の人間におけ
る主観に収まることであると。
☆ 15. あとでも出て来ますが こちらからは ひとことです。:
《心理》には重きを置いていません。

16. しばしば相手に合わさざるを得ないような情況としての一時的で
局所的な気持ちの動き としての心的現象。――これは 人の心の基本と
しての思想(≒生活態度)がその時その場で表わされるものですが 特に
理由説明せずとも 一般にその個々の心理の一つひとつにこだわる必要は
ないと考えてよいと思います。

17. そうおっしゃっているのだと思いますが 《心理》という言葉じ
たいが こういう議論においてはわたしは 嫌いです。つまり問題は あ
らためて言って:
★ 心理・・・の背景
☆ としての基本思想であり それ:
★ を洞察する力
☆ だと思います。言いかえると 人と人とが互いに理解し合えない場合
についての〔必要なだけの・《間主観性》とも言うべき〕:
★ 透視できる能力
☆ をそなえた動態主観であろうと。


18.
★ ~~~~~~~~~~~~~~
二点あります。
このさとりは、不死とどう関係するのか。
印象としては、別に死ぬ身であってもこのさとりは得られるような気がし
ます。また、不死になったからといって得られるとは言い切れないもので
あるような気がします。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 19.これは 聖書の思想ないしキリスト信仰(これは 非経験の場
にかかわり非思考です)にもとづいて観想やヒラメキをつうじて得たとい
う経験思想の中に 次のような生死観があるからです。

20. 神の心ないし経験的には良心やそのヤマシサ反応(または 良心
の呵責など)にさからうこと。が 初めに起きた。つまりその始原として
は アダムとエワがエデンの園でおこなった人間独自の意志行為のことで
す。つまりは われわれ人間にそなわった自由意志は 一人ひとりが自分
の心にさからって思考し行動をも起こすという自由度を許容していると。

21. この自己欺瞞――ふるくは 原罪とよばれました――によってわ
たしたちはそれぞれ精神=身体なるわれの時空間が文字通り有限であると
いう事態を・つまり死というものを みづからにもたらしたと見る生死観
です。

22. わたし自身は 人は もともと自由意志を持つ思考や行為の主体
であることにおいて その意志自由が相対的なものであるからには ふと
曲がる(道を逸れる・あるいはヘソを曲げる)ことがあるのだと見ます。
自己欺瞞によって この生に死が介入したという見方については 無記で
す。(分かりません)。(指摘された第二の論点で この生死観を枠組み
としては 取り払うことが出来るということに触れます)。

23. この自己欺瞞なる《罪》 これは 死の棘だと言います。限りが
つまりおしまいが来るまでにも その過程で棘が生じこれがおのれに刺さ
って死に到る病いの中にあるのだと。

24. 人びとは エデンの園の再到来を夢見ました。キリスト(=メシ
ア)の・歴史における登場を俟ち それを経て アダムやエワのときの身
心状態よりもさらによい《あたらしい人》になるのだという夢想です。

25. ★ このさとりは、不死とどう関係するのか。
☆ いま述べました生死観にからめて・つまりたとえばあたらしい人にあ
っては《最終的に死がほろびる》といった見方にからめて 実存としての
さとりを描いてみたというものでした。

つづきます。
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この回答へのお礼

個々の心理にフォーカスしているのではなく、より一般化した人間現象といいますか、人間ならこうであろう?というところの人間理解と解釈しました。

ご提示の死生観において、人間が自らの本心に逆らって行為すること(原罪)によって死が生まれたという説ですが、これが精神的な死というのであるならばわかるのですが、肉体的な死には結びつくことはできませんでした。というのも、我らが死ぬのは生命であるからであり、人間だからではないからです。聖人であろうが悪人であろうが死ぬ。死の理由が人間云々に由来するものではない以上、あたらしい人になっても死ぬだろう、それが生命である限り。というのが今回の私の反応となります。

が、もちろん話は続いておりますので、引き続きお返事書きますね。
ありがとうございます。

お礼日時:2017/06/18 16:52

人として大切な部分が欠如しているから、悪役として描かれているのではないでしょうか。

悪役が常人と共感できる部分ばかりでは、悪役にならないでしょう。

老いがもたらす物は他人への気遣い、弱者への媚です。サイコパスが40代から常人になる(と言われている)のは、別に性格が変わるのではなくて、肉体が劣ってきたので(老眼、疲れが取れない)他者を利用するよりも、頼らないと生存や生活が危うくなるからだと考えています。死の恐怖は、良心がない人間ですら他者と協力しようと考える元になっていると思います。
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この回答へのお礼

悪役にも色々なパターンがありますね。生粋の悪を楽しむ者から、色々と訳あって捻くれてしまったタイプ、全く無意識で悪を為すタイプ、など。ピッコロ大魔王は生粋のタイプでしょうか。

老いがもたらすものとして、他社への気遣い、これはわかるのですが、弱者への媚とは一体何でしょうか?

サイコパス、生まれながらに良心を持たない人が一定割合いるそうですが、人間にとって良心とは絶対ではないのかもしれないですね。
「死の恐怖は、良心がない人間ですら他者と協力しようと考える元になっていると思います。」
なるほど。

お礼日時:2017/06/17 11:49

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