No.7ベストアンサー
- 回答日時:
#6です。
補足拝見しました。>」でも、漁船は戦国時代以前も太平洋に出ていたのではないですか?高知県沖や三陸沖は戦国時代においても大きな漁場だったはずで、大勢の日本人漁師が魚を獲っていたでしょう。
それから太平洋を航海する船は少なかったでしょうが、飛鳥時代から戦国時代までの千年間、全くなかったわけではないはずです。数は少なくても超長期で考えたらそれなりの数になるのではないでしょうか。
すでに、八丈島は平安末期から鎌倉初期には存在が知られていましたので、明らかに太平洋を渡っていた人たちがいたことは事実です。
また、千葉県の房総半島は紀伊半島と同じ地名があり、紀伊半島から大挙して房総半島に移住した人々がいることも知られています。この移住の理由は漁のためとクジラ漁のためです。
ですから、たしかにそういう人たちはいたでしょう。
問題は「アメリカ大陸に漂着できるぐらいの大きさの船だったか?」ということです。
まず日本の船についていえば、和船として知られているものが大小さまざまに存在し利用されていたのですが、和船には竜骨(キール)がなく、また同様に竜骨を持たないジャンクとも違って、水密隔壁をまったく持たない構造でした。
簡単にいえば「恐ろしいほど暴風と波に弱い」構造だったのです。
このような構造のしかも小さな船では、沿岸で漁をする漁船としては利用できても、とても外洋にでることはできません。嵐で流された場合、高波が直撃擦れば一発で壊れますし、また嵐を生き延びたとしても、水や食料などを確保するスペースがないので、船はアメリカにたどり着いたとしても、人間が生き残ってたどり着くのは不可能であったと考えるのが妥当だと思います。
ちなみに、東日本大震災でアメリカやカナダの西海岸にたどり着いた漂流物は、震災から8か月たってから漂着するものが多数発生した、と言う事実があります。つまり、標準的な漂流なら8か月ぐらいかかる、ということです。漁船レベルではどうやっても人間が生き残ることは不可能だと推測します。
では、八丈島を往復するぐらいの船であればどうだったでしょうか。それなら確かに、江戸期の廻船と同等かもう少し強い構造であったでしょうし、船の大きさもそれなりにあったわけです。
でも、和船である以上、脆弱性はどうしようもありません。また、当時の和船は甲板を持っていないので、難破すればほぼ間違いなく高波で破壊されたでしょう。水が入るだけで、ほとんど沈んでしまうのです。
そして、戦国時代以前は太平洋上を航行する船そのものがほとんどありませんでした。ざっくりと概算でも八丈島の存在が知られた鎌倉期から江戸初期までの600年間ほどで、運行されたのはせいぜい数千艘でしょう。これでも多いかもしれません。八丈島へは島をつたって移動でき、最長距離は御蔵島から八丈島への50キロですから、風待ちを十分にすれば一気に移動で来たでしょう。江戸期以前は2枚帆などの船もあり、オールで漕ぐこともありましたから、50キロなら 2.3時間で渡れたでしょう。つまり「風待ちをすることで、難破の可能性を限りなく下げた」ということです。
ですから、数が少ないうえに、難破しにくく、さらに嵐にあって難破すれば船の強度の問題からほぼ確実に破壊されるか沈没し、もしそれを生き延びたとしても8ヶ月に及ぶ期間を生存できる可能性はほとんどない(8か月もあれば何度も嵐に遭遇するでしょう)わけです。
江戸時代に難破した船からアメリカにたどり着いたり、他の船に救出されたりしたのは、それだけ廻船の数が多く回っていたからです。数が増えれば確率は優位になります。
これらの確立をすべて合わせた時に、江戸期以前の船がアメリカにたどり着き、生存者がいる可能性はかなり小さい、実際には不可能なほど小さいと考えます。
ですから可能性としてかんがえても「あるかもしれないが、その可能性はものすごくありえないほど低い」ということです。
No.6
- 回答日時:
戦国時代以前なら、可能性は低いと思います。
理由ですが、確かに倭寇や東南アジア貿易でそれなりの造船技術と航海術はあったと思いますが、そもそも太平洋側にほとんど船がなかったから、です。
まず、太平洋側に船がたくさん公開するようになったのは、江戸時代になってから、というより江戸に首都がおかれてからです。それまでは鎌倉はあったものの、紀伊半島から東にかけて船を出す必要性がほとんどありませんでした。
また、渥美半島を回ってから先は遠州灘と呼ばれる難所で、これは天候が急変した時に、船を退避させる湾などがほとんどないことを意味します。
地図を見てもらうと分かりますが、渥美半島から御前崎まで100キロほどなだらかな海岸が続きますし、伊豆半島に行くにはさらに50キロほど駿河湾を渡る必要があります。帆船は風が変わったら、アウトですから、これほどの距離を一気に行くのはかなり苦労が多かったでしょう。
それでも、江戸が消費地になってからは、大坂方面から数多く船が出るようになり、海流の影響で、江戸から大坂に帰るのは困難だったため、仙台や青森で江戸の商品を降ろし、箱館や青森で肥料になる魚を積み込んで、日本海側に回り、金沢や松江などで肥料を降ろして下関を通って日本一周するのが「廻船」と呼ばれる江戸時代の船になります。
廻船は鎖国の影響で、一枚帆しか許されませんでしたので、嵐に弱く、難破すると親潮にのってハワイやアメリカの西海岸まで行ってしまうわけです。
このような廻船が太平洋側を回るようになったのは江戸時代以降で。それまでは瀬戸内海や紀伊半島ぐらいまでは回っても、遠州灘を超えるような航海はほとんどしなかったし、する理由もありませんでした。
ですから、戦国時代にアメリカに漂流してしまうようなことはほとんどなかった、と思います。
No.5
- 回答日時:
『太平洋ひとりぼっち』でしたっけ、ヨットで横断してみせたのは。
流れ付けた可能性はあるでしょうね、ハワイ島やイースター島にも人はたどり着いているのですから。
南米あたりに縄文文化と似たものがあるという話はどうなったのか不明ですが、南米はやはり南米の文化があり、影響を及ぼしたと考えるのは無理があるように思います。(壺などを持って行ったってだけならあるでしょうが、それが見つかる可能性は限りなく0)
No.4
- 回答日時:
そらぁ可能性で言えばゼロではないだろうが・・・・・
船のサイズ、対波性などいずれも南蛮船を参考にすることで造船能力が向上した結果だから・・・・
そう言う知見のない時代に、太平洋を乗り越えることが可能か?
微妙だと思うが
No.3
- 回答日時:
前に何かのネットのビデオで観た事があるのですが、
南米エクアドルのバルディヴィア文化と縄文文化が関係があるようなないような…と。
中間のポリネシアやミクロネシアあたりでも縄文文化と似た土器が出るとかでないとか…。
まだまだ研究途上のようですがDNAに似た部分があるという人もいますね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AF …
↑の中で「倭人南米交流説」を唱えている人は学者間での評価は高くないので、もう少し慎重な議論が必要かとも感じます。
でも、古代の人は凄いと私は思います。
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倭寇が暴れまわっていた時代なので、造船技術はそれなりのものがあったと思うのですが、どうでしょう。
確かに物流の航路ができたのは江戸時代以降だとは思います。
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