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江戸時代には、最も大きな加賀藩でおよそ100万石、他にも九州の島津氏や東北の上杉氏、伊達氏なども大藩でしたが、殆どは5万石以下の小藩であったと聞きます。質問なのですが、江戸のヤクザなどが極端な話1万石くらいの藩と衝突を起こした場合、1万石の小藩はそうした動きを潰せるのでしょうか?1万石くらいだと藩士は100人くらいだそうですが、流石に1万石の藩でも敗れないですか?

A 回答 (3件)

仮定の話であれば、小藩より大侠客の方が、動員力はあったと思いますよ。



たとえば、幕末の江戸の火消しで大侠客でもあった新門辰五郎は、数百名の子分を引き連れて上洛し、京都で将軍 徳川慶喜の警護をしたことなどが有名です。
この様子は、間違いなく小藩の大名の参勤交代より豪華だったでしょうし、腕っ節も立つ連中が揃ってただろうから、小藩くらいなら撃破できたんじゃないでしょうか?

ただ、このエピソードからも判る通り、大侠客であればあるほど、為政者などとの繋がりもあって、言わば準公務員みたいな立場でもあったワケです。
新門辰五郎に限らず、幕末の大侠客や大親分(清水次郎長とか)は、軒並み幕府や諸藩の要請や、あるいは自発的に、旧幕府側や新政府側に、何らか協力しています。

そもそも小藩に、辰五郎や次郎長の様な大勢力が生じることもないだろうし・・。

従い、仮定の話であれば、大侠客は小藩に勝っても不思議ではないですが、実際には、衝突する可能性が、ほぼ皆無と思われます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2017/09/20 18:23

幕末の慶応2年(1866)4月に現実に襲撃された1万石の大名家があります。


現在の岡山県総社市にあった浅尾藩です。襲ったのは長州を脱走して来た第二奇兵隊の約100人。高杉晋作の奇兵隊と名前が似ていますが別の軍団です。
浅尾藩には200人程度の藩士がいたと思われますが半分程度は江戸詰だったでしょう。さらに殿様は京都見廻役を命ぜられていたので多くの藩士は京都に行っていたと思われます。当時浅尾に何人いたのか正確には不明ですがせいぜい30人程度でしょう。要するに留守番役しかいませんでした。
浪士は「伯耆の方へ行く」と言い残して立ち去ったため浅尾藩は安心するのですが、深夜に戻って来て突然襲撃します。人足として集められていた農民や下級武士など約20人が討死、陣屋は焼失し残った建物は占拠されました。武士らしく戦ったのは2、3人だけだったようです。
要するに人数が少なかったうえに戦闘部隊は京都に行って留守。相手は軍事訓練真っ最中の戦闘集団ですから戦いにならなかったのでしょう。
その後幕府軍(第二次長州征伐のため広島に集まっていた)や近隣の岡山藩、備中松山藩などから鎮圧部隊が約3000人が出動したことで鎮圧されました。浪士たちはその後ほとんど戦わないまま山口へ帰るのですが、幼少の者を除いて約60人が斬首、切腹になっています。

お尋ねの趣旨と違うでしょうが、こんな出来事もあったということで書いてみました。
浅尾騒動についてはnetに非常に詳しいページがあったのですが現在はなぜか閉鎖されています。
短いながらうまく説明したページのリンクを張っておきます。他にもnetを検索するとたくさんあるので興味があれば探してください。
http://gos.but.jp/kurahys.htm
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藩士の数はもっとおおいですよ。



百人というのは戦闘員のことです。
一万石では100~250人ぐらいでしょうか。

戦争になれば、鎧甲に、鉄砲、弓、槍、刀で武装します。

一方、江戸のヤクザの多くは十数人から数十人。
武器は刀ぐらい。

希に百人などがありましたが、マトモにぶつかったら
ヤクザに勝ち目は無いでしょう。
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