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桶狭間で織田信長が今川義元を討ってから、その首について
「信長公記」では今川軍の残党に渡して駿河に送り返した、とあります。
一方、wikipediaでは岡部元信に渡したとなっています。
どちらが真実なのでしょうか?

「信長公記」
(生け捕りにした義元の同朋衆に)「義元の首を持たせて駿河へ送り返した。これには十人の僧を選んで従わせた。(中略)
さて、鳴海の城には岡部元信が立て籠もっていたが、降参したので一命は助けてやった。」

Wikipedia
(岡部元信は)主君・今川義元が織田信長に討たれた後も抵抗し続け、信長が差し向けた部隊を悉く撃退し、主君・義元の首と引き換えに開城を申し入れ、信長はその忠義に感動して義元の首級を丁重に棺に納めた上で送り届けたと伝わる。

A 回答 (2件)

はじめまして



普通で考えると「信長公記」ですね。著者は信長旧臣の太田牛一で、信長の生涯を語る第一級の史料であり最も信頼性が高い文献です。
Wikipediaが引用しているのは雑誌の「歴史群像」から引用したものです。この歴史群像『戦国驍将・『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』の執筆者が明確ではないし、その根拠となる文献も明確ではありません。

私だったら「信長公記」が真実だと思いますよ。
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この回答へのお礼

ご指摘の通り、この場合のwikipediaの出典は当てになりませんね。
太田牛一か歴史群像編集部かだったら前者の方が正しいでしょう。
回答ありがとう御座いました。

お礼日時:2017/11/02 15:47

どちらも真実でどちらもウソ。



基本的に歴史は勝者が作ります。

新しいところでは太平洋戦争。
日本としては生きるためにやって戦争なのに負けたので
「強姦するため侵略した」とかになっている。
勝者の都合のよいのように改ざんされる。

信長に関しては、秀吉と徳川幕府がいじっているはずです。
もしかしたら明治政府も関与しているかもしれませんが、
いずれにしても事実を確認する方法などなく
どちらも併記するのが正しい解釈となります。
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