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国家権力は、民衆を教育し、組織の歯車であることを求め、そのようにしてきた。
現代もそれは全く変わっていない。
このような指摘は、昔から数多くあります。

国家権力が民衆一人一人の人生を大きく決定づけていることは事実であると言える
と思う。

1.国家が国民の自由を制限していることにならないのだろうか?

2.この点は、おそらく学問によってその裏付けがなされていると思う。
それは、どういう論理になるのでしょうか?

3.その論理が正当であるという根拠は何なのでしょうか?

4.その他、思うところをお聞かせください。

A 回答 (13件中1~10件)

>1.国家が国民の自由を制限していることにならないのだろうか?



はい、自由を制限しています。


>2.この点は、おそらく学問によってその裏付けがなされていると思う。
>それは、どういう論理になるのでしょうか?

法治国家として、「法に従ってその自由を制限します」という論理です。



>3.その論理が正当であるという根拠は何なのでしょうか?

「法に従ってその自由を制限します」の正当性について回答します。
その正当性は、2点のポイントで判断します。

①法の決め方が正当かどうか。
②そもそも、その法が国際法として正当かどうか。



①法の決め方が正当かどうか。

国民の自由を制限する法律を作る上で重要な事は、国民のコントロールが及ぶやり方で法律を決めているかどうかです。それが出来ているならば国際法違反でない限りは正当であり、それができていないならば不当になります。

「国民のコントロールが及ぶやり方」の代表的な例は、国民の中から候補者を選出し、その候補者から多くの有権者の票を獲得した者を有権者の代表として決めます。その有権者の代表は有権者の意思を議会に持ち込み、議会で有権者の代表者同士で、健全な社会の構築のために国民の自由を一部制限する法律を審議します。そして最終的に、有権者の代表同士が採決によって、有権者の代表達の賛成多数が得られた場合は、国民の総意が得られたと判断され、実際に人の自由を一部制限する法としてその国で運用されます。

僭主制や寡頭制の場合は、その有権者の対象が国民全員ではなく、一部の人間だけになります。
そのため、「有権者の代表の賛成多数=国民の総意」とは言えなくなり、国民の自由を制限する法を作るやり方として不当となります。



②そもそも、その法が国際法として正当かどうか。

①で「国際法違反でない限り」と書いた通り、国際法違反をしている場合は不当となります。
例えば、特定の民族を浄化しても良い。と言う法が、普通選挙制の国の議会で賛成多数で可決されたとします。

このような法は不当となります。明確な国際法違反です。

現代の国際社会では、国際法に違反した国内法を作る事は出来ません。例えそれが国民の総意であっても不可能です。そのような法を作ったら、文明国とみなされません。



>4.その他、思うところをお聞かせください。


思うところはありませんが、補足します。

日本や西洋の法治主義と中華圏の法治主義では意味が全く違います。

日本や西洋の法治主義とは、「法の前では人は平等」と言う事です。権力者でも法律は守らなければなりませんし、法を犯したら裁きを受けなければなりませんし、権力者だから減刑される事はしてはいけません。

中華圏の法治主義とは、権力者が人民を支配する仕組みの事です。権力者は法律を作る事はあれど、権力者は法律の上の存在なのでその作った法律は権力者を対象としません。対象となるのは人民であり、人民は権力者が作った法の支配を受けます。


同じ法治主義でも、意味が全く違うので注意してください。
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この回答へのお礼

>法治国家として、「法に従ってその自由を制限します」という論理です

明快です。

>①法の決め方が正当かどうか。
②そもそも、その法が国際法として正当かどうか。

これまた、明快です。

また、日本・西洋と中華圏の法治主義の違いもよくわかりました。

分かりやすいご説明ありがとうございます。

お礼日時:2017/10/31 14:43

「ちなみに、善知識という言葉を私は「教えてくれる人」と理解していますが、キサラ


ギさんはそうでないようですが…」

とのことですが、善知識は教えてくれる人、と私も思っています。ただ、善知識というのは、善友のことを指すと同時に、善友が一瞬の化身仏となって発する法の句のことも、善知識と呼びならわすのだそうです。この法の句を理解すると覚るということのようです。

私は、最近思ったことがあります。何十億人という人々が現在この世に生きており、時の前後を含めれば、つまり過去に生きた人と未来に生きる人を合わせればその数は計り知れません。しかし、その中の誰一人も知らないという事柄が、どれほどたくさんあるだろうと思うのです。それを、喩えば、どれほどたくさんの、しかも聡明な子供たちを集めて、どれだけの長い時間考えてもらい、相談してもらったとしても、大人の見解をたった一つさえ見出しえないということに似ています。
そして、子供たち同士の、何気ない日常のやり取りの中で、子供たちは一人一人また大人になっていく様に、衆生もまた、それぞれの(覚りの)因縁に応じてひとりひとり解脱してゆくのだと思います。
たった一言、「こんな子供じみた事やってられるかっ!」といった友の一言を聞いて、それをきっかけにして子供が子供であることを卒業して行くように、人(衆生)は、善知識(=善友)の放つ善知識(=法の句)を聞いて、衆生を脱するということです。
また、いつ、どこで、誰が、誰にとっての善知識になるかは仏でさえも予見することができません。自ら見出すしかないのであり、血眼になって探すものでもなく、よく気を付けて世を遍歴する中で、自ずと出会うであろうということです。

仏教は簡素な教えであり、難解なものではないと言います。多くの人が仏教は難解であると感じているようですが、本当のやさしさを追求する道が仏道であると語られたなら、そうか、それならその道は人にこそ相応しいものであると思えるのではないでしょうか。
また、善知識もごく平易な言葉で発されるそうです。そして覚りは頓悟であり、かけた時間の長短には関わらず、その時が来たなら、人は仏となってゆくのです。

ひとつ、ブッダの言葉を引用しておきます。

【友・<最上の宝>】

つまらないことをして見せても友は「すごいことだ」と褒めてくれる。 たとえみすぼらしいすがたを世間に晒していても友は「君は大した人だ」と尊敬してくれる。 不如意に利益を損なうことがあって、きっぱりと諦め、「それはどうでもよいことであるから」と自ら納得していても、友は「どうでもよくない」と言って励まし、あるいは慰めてくれる。 このように、友は危険の在処を指し示してくれ、宝の在処さえも教えてくれるのである。

ところで、最高の友と称すべき<善き友>は、褒めてくれることもなく、尊敬してくれることもなく、励ましてくれることも慰めてくれることもないけれども、実にこの世における最高の宝(=真理)の在処を示し、ものおしみすることなく与えてくれる。 かれは、それゆえに<善き友>と呼ばれ<善知識>とも称されるのである。

人がもし、直接に、あるいは間接にでも、<善き友>によって与えられたその宝を得たならば、それはかれに人を超えた楽しみを与え、不滅の安穏へと導き、しかもそれは盗賊でさえも奪い得ぬものとなる。 その宝は、それゆえに<最上の宝>(=誰からも奪われることのない無上の宝)と称される。

こころある人は、友と親しみ、それにも増して自らが他の人のよき友であれ。

***
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この回答へのお礼

少し勘違いをしたようです、失礼しました。

善知識、正に無上の宝ですね。友情の究極とも思えます。
しかし、この現代社会において「ありえない」とも思える。

いくら純粋な友情を求めても、せいぜいたしなめられるのがオチですよね。
でも私は、その純粋な「友情観」を捨てません。
百万人に一人くらい、そういう価値観の人がいるかもしれませんし、真の
友情を表現した音楽とか文学に感動できなくなるからです。

世の人たちがいとも簡単に捨ててしまいがちな宝ですし、遠ざけてしまう
宝です。これは、昔からそうですね。

お礼日時:2017/12/02 19:38

法とは何か、直球ですね^_^;


これが分かれば私も覚っていることになりますが、残念ながら分かっていないのです。
法とは正しいという事。
正しい思いは法に適っておりその流れの中にあるけれど、正しからざる思いは生滅変化の流転の中にある。

正しい思いは静的かも知れませんが、固定的では無いと思われます。決定的であるかもしれませんが、暫定的では無いでしょう。ある事柄(一大事)に関して、唯一最勝の答えであり、人ならば誰しもがその答えにたどり着くであろうと言うところの、正しさ。
これを導くのが法であるのでは無いでしょうか。
世の中では互いに主張した正しさが異なるためにぶつかり、諍いや争いが起こるのが常ですが、それは人々が立場を超えていないから起こる事なのであります。民族として、国として、地方として、会社として、何らかの所属する組織の一員として、一族として、そして、個人として、或いは地球市民として、と言ったあらゆる立場に束縛されていて、それを超えないゆえに普遍妥当たる人としての究極の答えを見出すことができない。
つまり誰もが覚りの種を持っているのですが、自分ならざるものに翻弄されているゆえにそれを発露させるのがとても難しいのです。
身近である故に気がつかない、知ることができない、見えない、それが法の流れの宿る人の根本本性であるということになるでしょう。

哀しみを知る道=やさしい人たる道を目指す人は、宝のありかを記した地図を手に入れた求道の人であると言われます。
究極のその答え(本当のやさしさとはいかなるものか)は一大事において善知識によってもたらされるものであり、人が思案して到達できるところでは無いと、壇教や法華経などの諸々の経典に記されてある通りですが、もし人がそれを一度聞き及び、心底に理解したならば解脱が起こると説かれます。
ある者はその善知識の存在を信じれなかったり、その善知識の言葉そのものが経典に記されていないという理由で仏教を訝しく思い、空っぽであると断じて自ら道を閉ざしてしまうが、ある人は経典の言葉通りにそれを信じて精励精進し、ついにその言葉(=善知識)を聞き及ぶ。この善知識の顕れこそが法(ダルマ)の発露と見て良いでしょう。
総括すると、法とは人の心底にある根本本性に流れる普遍妥当なる道の本体、ということになろうかと思います。
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この回答へのお礼

>法とは正しいという事。

かなり、突き詰めた表現だと思います。
仏教を知らずとも、西洋の哲学者などの中には、とても仏教に近い考え方をしている
人がいる。

私たちは仏教を知っている。だから、仏教のコピペだろうと思う人がいるけれど、そ
うではないんですよね。
キサラギさんもそうだと思いますが、私も随分あれこれ時間をかけて考えました。
私などは、勉強を始めてまだ二年ほどです。それも、みっちりやったというにはほど
遠く、こんな調子じゃ埒が明かないとも思っています。

私たちの体には「法」があるのは間違いない。同じように心にも、また、心身統一体
である人間にもそれがあるであろう、と。
地球の生態系にも、太陽系にも、また宇宙全体にもあり、あらゆる法が根本的な法に
連なっている、と。

その法を、善知識により教えを受け、心底より理解し信じたならば「解脱」「悟達」
することができる、と私も学んでおります。

ちなみに、善知識という言葉を私は「教えてくれる人」と理解していますが、キサラ
ギさんはそうでないようですが…

お礼日時:2017/11/28 01:36

no.1がZBR核心を突いてる。

それは2つ。物語と所有。

物語の具体例はイーリヤス英語だとIliadギリシアの長編叙事詩。日本的に言うと日本昔話に対応するか。毎日いろんな不思議なことが起こる。日が昇って沈んだり。結構不思議。とりあえずの説明はアポロンが火の玉を毎日運ぶから。あーそっかーってなんか安心する。人間が絡むやつもあって、天にあんたは天子ですよなんていわれたことにして皇帝になっちゃったりする。周りの人がそっかー天子かーってなんか仕えちゃったりする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC …

所有は農業からか?耕して種まくと種増える。増えた分は自分のもの、だッ!!とおもっちゃう。けっこう強力な誘惑。でもやっぱ略奪したいやつもいて、おれのものはおれのもの。おまえのものもおれのもの。ジャイアニズム。結構大変。で、法律ってかんじ。なんだけど、でっかい集団のほうが有利。でも割れやすい。だからだいたいの集団で互いに国になった。アンタらとアタシら。略奪に拮抗。ヴェブレンとか。
所有権の起源
 ソースティン・ヴェブレン(Thorstein Bunde Veblen、
 1857年7月30日 - 1929年8月3日)は、19世紀・20世紀
 初頭期のアメリカの経済学者・社会学者である。
http://open-shelf.appspot.com/TheBeginningOfOwne …
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なるほどです。



私も論理性に欠けた物言いをすることが多く、また筋道立てて説明することが苦手なのは、それを完全に理解していないからかなと思っております。学ぶとはどう言うことか、自らの見識を高める事とは。考えると、いかに自分が無学かが疑われて、おちおちしてられないなと言う気持ちになります。

物事に対してこう思う、と言うのがフラットに見た時の覚りと同じ意味かと言うと、私は次の様に考えます。
フラットに見た時に、真実はこうであった、と見るのが覚りであり、物事に対してこう思う、と言うのは、のちに他の別の思いに変じる可能性があると私は考えました。
人の思いも又流転するものですが、覚りの知見は流転するのかどうか。おそらく流転とは別の流れ(法)に沿っていると私には考えられるのです。

能動性を思いに結び付けられたのはなるほどと思いました。この能動性にもまた、根拠などはその有無自体見出し難いものがありますが、ここでもまたフラットに見ると言う事が意味あるものとなってくる様に思います。
フラットに見ると言うのは、我見を離れている事だと思います。我見というのは、自分はこのように見たいのだと言う我執の延長にあるものだと思います。それに執着すれば愛執も生じるでしょう。
そう言ったものを離れているので、フラットに見ることは優れていると私は思いました。科学もまたこの見方に準じると思いますが、科学は「見方」の積み重ねであるとも言え、それは、このような見方をすれば世界はこのように解釈出来る、と言うことの多様性であると思います。フラットに見ると言うのは、その様な多様性を保持するバックグラウンドにもなっているのでは無いでしょうか。

覚りも、フラットに見る事の先にある様にも思います。混沌とした流転の中で、フラットに見ると言うある種、混沌に反する見方をする時に、流れの一端を掴んで世の実相、さらには真相の理解へと通じるのではないか、そんな風に思いました。
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この回答へのお礼

>おちおちしてられないなと言う気持ちになります

好い性格ですね(笑)。

>フラットに見た時に、真実はこうであった、と見るのが覚りであり、
物事に対してこう思う、と言うのは、のちに他の別の思いに変じる可能
性があると私は考えました

ふーむ、深みを感じます。

人間の思いの中には、「法」に沿った「覚り」というものと、流動的な
「思い」という少なくとも二つのものがある、これはまた、客観と主観と
いう分類にもなるのかなとも思った次第です。

ちなみにここでの「法」とは何でしょうか?

私の心の中にも、能動的で変動的な「思い」というものがある。また、静
的、固定的な「覚り」というものも常にある気がします。
そして、「覚り」は「思い」の働きによって時折、更新される…

こんな風に考えました。

そろそろ、私の理解の限界点に来ています。しかし、私の「思い」はもっと
もっと、と要求します。

お礼日時:2017/11/24 01:03

能動性というものがありますが、何がしを求めているとか、望んでいるとか言う場合、ここに根拠はなくとも希(のぞみ)があります。


確かに言われてみれば、根本的な根拠を私も持ち合わせてはいないし、あるとしても少なくともその根拠を明確に知ってはいないし、しかしその様な根拠はなくても、人として、あるいは自らの希求するところのものがあるならば、それを能動性とみて、自発性、つまり根拠に端を発する存在のあり方とは逆の順序で、一つのあり方が見出されうるのではないかと思います。

しかしこれよりもまだ、あらゆるものを根拠のなさ故にフラットに見ることの方が、安全な気がします。
おっしゃる様に人は直ぐにでもこのような見方を得ることができると思います。なぜならこの見方は、何か知見を得なければできないのではなく、既に得ている偏りを捨てることによって実現するからです。
人は自分の望む事柄に引っ張られ、また自分の有する性向に歪められて、自分勝手に思いなした虚妄なる見解を拠り所にし、ああだこうだと頑なな我見を垂れます。このようなままでは、真実はおろか事実さえも見えずに人生を言わば五里霧中に過ごしてしまうことになるでしょう。
得ることよりも捨て去ることの方が優れていると言われるのは、この様なこだわりを捨て去り、囚われを離れることが、事実の把握と、真実への道の匂いを嗅ぎ分けて、平静さとともに歩む事を実現してくれるからではないでしょうか。

太陽を有していると言う点では鈍根の人も利根の人と変わりはありません。
無明を夜の地平に喩えるならば、法性は朝日の様なものだと思いました。広漠とした無明たる心に、白む地平から昇る一筋の光明が世の本当の姿を露見させる。これが見性であり、覚りの瞬間なのかなと想像します。

しかし同時に、この様な想像に耽溺する事は、教理を貪ることと大差がありません。
ただ真実を求めて邁進する事が、結局は一番の近道であり、所々に立つ標識を見てそれに囚われると言う愚行を為さず、速やかに目的地に至るのが最もな筋道だと思うのです。
人はどうしても、自らの現状を、幾ばくかは肯定したいと言う想いを離せないでいます。しかしそのままでは、このままではいけないと思うもう一つの心の動きを歩みの基軸に乗せる事ができません。自分の現状を全否定してしまっては瓦解しますが、自分の現状を冷静に見て、判じる事は必要な事なのです。自らが医師となって自らの病状を見立てなければ、誰が代わりに見てくれるでしょう。それは勇気のいる事です。それをせねばもっと大変なことになりますが、しかしそれを為せない、為そうともしないどころか今の自分のままで全ていいのだと頑迷に思い込もうとする心の機序が、出来上がってしまっている人も少なくないのです。



私は、この様な話を少しでも聞き、またする事ができて嬉しく思います。私は長話するたちですので、遠慮せず、キリが良いと思うところでデヴィッドさんの裁量にて話を結んでくださいね。
ありがとうございます。
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この回答へのお礼

私も長話をするタイプです。

主題から離れるからこの話はやめておこうと思い、やめた話ほどなかなかできないことが多い、
と経験上から言えると思っていますので、割と思いついた話はする方です。

生命の能動性ということについては、他の質問で話したことですが、大変に難しいものですので
頭の中を少し整理して、改めて質問を立てたいと思います。一つだけ申し上げると…

>自らの希求するところのものがあるならば

この希求する心自体が「能動性」の顕れだと思うんです。
個人個人の先天的違い、教えられたものの違い、学び取ったものの違い、心の違い等あって、

希求するもの≒思い

というものがあると思います。
個々の人間が一体何を希求しているか?
これらのデータを集め分析し、仮説を立て考察してゆけばサイエンスしてゆくことができるのだと
思います。
このあたりの分野の学問はあるだろうと思いますが、すいません、よく知りません。
ただ、「本心」のデータを集めるということが、大変に困難だろうとは思います。

>あらゆるものを根拠のなさ故にフラットに見ることの方が、安全な気がします

これが、科学の役割なんだと思います。
人類の知性は発達しました。ですから、昔のように神仏を敬えと言っても、そうはゆかないでしょう。
でも、「不可知」の部分は存在し、人類はもはや知性で納得できないものは信ずることはできにくく
なっていると思います。

従って、人類に必要なものは、科学の発達がひとつ。しかし、これは限界があるだろうと思いますから
哲学・宗教的なもの(的をつけておきます)との「関係性」を確立することであると考えています。

「覚り」というものをフラットに見ようとしてみると、「物事に対し、こうだと思うこと」となると思
います。
すると、すべての人がその人なりの「覚り」を持っているとなります。

それが、「我見」なのか「覚り」なのか?

すると「価値」という問題になる。しかしその根拠はない。
つまり、西洋哲学では結論を出すことができなかった、ということなんでしょうね。

私としては、もう少し学問を知り、論理というものを会得しなければいけないと思っています。
そうすれば、もう少し説得力のある物言いができるようになると思いますから。

お礼日時:2017/11/15 23:58

確かに、人間の本質とサラッと言ってしまいましたが、これだけで一大タイトルですね^_^; 以下、やや長文になってしまいました。

お時間お好きな時にでも、お読みください。

無明法性一体
無明法性一体と言う言葉を私は初めて聞きました。私も仏教には触れてきた方だと思いますが、申し訳ない。
ですが、言葉の意味をとるのに、字面によらずその言われた真意をとるようにして以下お話しします。

人の本性に差異があるのでは無く、利根と鈍根があるだけであると慧能は言います。ある人の心は、分厚い雲が太陽を覆い隠すように、誤った見解が幾重にもなって本性、太陽を隠している。風が雲を吹き払ってしまわない限り、太陽が覗けない、つまり覚らないと。風が吹けばからりと心が晴れて、本来清浄心に立ち返る。

ですから、

無明、迷い、エゴ、雲、
に対し、
法性、悟り、愛、本性(太陽)

ということかなと。
で、心の全体としては、確かに雲も太陽も心の一部と言えるのかも知れません。

ただ、覚れる人は、雲を離れた月のように世を照らすと言います。私の抱く覚りのイメージも、晴れた月夜のようなものです。
そして、覚りの境地が不退転と言われる以上、二度と雲に隠れる事が無いと考えられます。そこには決心が存在すると言います。この点、つまり覚れる人においては、無明と法性は一体では無く、無明は消失し、智慧が顕になっていると思われます。闇が光によって消え去り、景色などの目に見える全てが明らかになる様に。


悪事を働いた人の持つ本心の哲学や思想と言うものが、果たして癌なのかどうか、そもそも本心の哲学や思想とはなんなのか、自らの抱いた哲学や思想と、以前デヴィッドさんのおっしゃっていた決めると言うことがどう関わるのか、私の中で考察する必要がありそうです。

強さ弱さ
愛が強く、エゴが弱いと言うのはそうだと私も思います。愛が、敵を見出さないと言う事であれば、それは覚りの境地と同じ無敵であると言うことになると思います。

教育と自由
さて、国家の施す教育が国民の自由を制限しているのでは無いか?と言う初めの問題ですが、画一的な教育によって良くも悪くも人々を作り出している面はあるわけです。それが、国家の都合で行われているのか、国民の一人一人の為に行われているのかと言うことかと思います。私は、何の業か、良い教師というものに今まで出会ったことがありませんが、教育には、施す者と応える者があると思います。期待に応えて強い企業戦士になるのか、期待を超えた人格者になるのか、期待に添えず落ちぶれるのか、期待に反して敵になるのか、期待とは関係無しに、自分の道を見つけて行くのか、そんなことを考えました。

いただいたお礼を読み、また質問文を読み直して思うのは、柔軟性とは、自由のことでは無いかと思いました。社会には一種の締め付け、強制力が存在すると思います。
馬が引かれる手綱に応えて力強く疾走する、と言うのもあると思いますが、私は平原を自由に走る馬の方が好きです。これは全く個人的な意見なので参考にならないかも知れませんが、整えられた人間、これは優れているものです。一方で、解き放たれた人間は、しあわせだと思うのです。

何から解き放たれるのか?と言うことを問うならば、ここにまた道も現れるのでしょう。

すみません、言いたいことが散らばって、長いばかりの文章になってしまったでしょうか^_^;
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この回答へのお礼

南宗禅第六祖、慧能。

仏教の真髄は教理の追求ではなく、座禅入定の修行によって自ら体得するものである、
という禅宗の教義らしく、とても分かりやすいものであるように見えますが、それだけ
にまた、理解が難しいと思います。

所詮は西洋哲学も同様ですが、「哲学的洞察」ということで、主観的理解しかできない
と思いますし、万人が納得できる理論に「落とし込む」ことができるのか、どうか?

これを私は一応ですが考えておりまして、近頃では意外と早く人類は到達できるのでは
ないかと思うようになりました。
それは、人類にとってあらゆるものが、根本的根拠を持っていないことに気が付いたか
らです。

ならば、科学も宗教もフラットな目線で比較検討するべきものであるということにまず
人々が気づき、それらを包含することのできる「概念」ができればいいのかな、などと
思っています。

「無明法性一体」とは日蓮の教義です。

無明=雲・鈍根

法性=太陽・利根

この方程式が成り立つのかどうかは、残念ながら現在の私の知識・理解では断言できま
せん。
まだまだ、初心者に毛が三本程度の私ですから(笑)。

元品の法性・元品の無明、とも言います。

元品の法性とは、我々に元々備わっている本性で、根本としての最も微細な法性で、この
法性からもろもろの悟りを生起する、とあります。

元品の無明とは、我々に元々備わっている本性で、最も微細で深遠なものである。一切衆
生の迷いの根本である、とあります。

上の四行は書物からの引用です。これを私がキチンと理解できているかどうか?
おそらく、「NO」でしょう。

お礼日時:2017/11/09 22:58

なるほど、確かに権力や立場が人を化け物のようにしてしまうことはありえますね。

デヴィッドさんの抱かれる危惧は不自然ではないと思います。
立場によって大きな力を与えられた人間も、役者みたいなもので、舞台が終われば普通の人に戻るのだと言う感覚、これをなんと言うのかわかりませんが、そう言った感覚が、立場に左右されない平等な社会の側面を形作るのではないかと思います。
しかし、強い立場はそれに見合った大きな責任を伴っているのも事実です。
果たせなかった責任は、取らねばならないことは間違い無いでしょう。役職を辞めたら終わりではなく、裁かれなければならないこともあると思います。
うやむやに終わらせることは出来ません。
その意味で、デヴィッドさんがおっしゃる一種の厳しさは私も必要だと思います。

私は時に善悪を語りますが、人間の本質には善悪は無いのだと思います。無いといえば語弊があるのですが、もっと言えば、善悪が無くてもちゃんと生きられるのだと思います。それは、最初から善悪がないのでは無く、善悪を覚えた上で、それを超えて行くということなのだと思うのです。
喩えば強いクセのある食材が、素晴らしい料理になるように、善悪を超えて、人間本来の持ち味を引き出せるかどうかだと思ったりするのです。

患部、悪を切り取れば残った方にもダメージがあります。しかし放置も出来ない。イメージの話になって申し訳ないが、なにか強張りの様なものが社会の体質としてあって、それが融通の効かなさや強引さ、隠蔽などとなって現れるのではないかなと。柔軟性を獲得するには、どうすればいいのかと言うことだと思いました。
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この回答へのお礼

>人間の本質には善悪は無いのだと思います

人間の本質などというものは超難しいものですが、かりに「心」という
言葉で表現すると、心には「愛とエゴ」そして「強さと弱さ」という軸
があると考えています。
そして、この二つの軸は関連性が強く、愛と強さ、エゴと弱さが、かな
り密接に関係しているのではないかと思います。

善悪は、時代により変動があり人の評価ということになりますので、心
の中に本然的に存在するものではない、と言って私も間違いではないと
思います。

キサラギさんは確か仏教のことをよく語っておられたと記憶しています。
ですから、ご存じだと思いますが、仏教哲学の根幹の部分の一つに、「無
明法性一体」というものがあります。

無明=迷い=エゴ・弱さ

法性=悟り=愛・強さ

という方程式が成り立つのではないかと考えます。

無明法性一体ということはつまり、心は無明に支配されているときもあり、
悟りに照らされているときもあり、どちらの心の本体ということであると
いうことではないでしょうか?

ですから、悪事を働いた人がいるとすれば、癌細胞はその人の持つ「本心
の」哲学・思想であって、その人の心そのものが癌細胞ではないので、切
り取るべきではないと考えます。

仰るところの「柔軟性」というのは「愛・強さ」といってもいいのではな
いかと思いました。

お礼日時:2017/11/05 13:55

政府は役割であってそれが国そのものとは私は考えてないです。

だから、それを善とは思っていません。また、善なる国家とか、悪なる国家と言うのは、どちらかと言うと考えによって作られたものであり、血肉の通った国家の実態とは違うように思います。ただ、役人や政治家(両者の立場は全然同じではないですが)と言われる人々も、国家の中では家族の一員でしょうと。

じゃあ他所の国の人々は家族じゃ無いのかと言えば、親戚みたいなものです。国を大きな家族とするならの話です。血の繋がりだけが家族の形じゃありませんから、民族を家族の単位と見るか、国家を単位と見るかは別にどちらでも構わないのです。

事実認識をすると言うのは色々な角度から見ると言うことでもあります。私は国家を家族として見るならばと前置きをして、一つの夢を語ったわけですが、これは事実認識とは言えないかもしれません。そう言う見方をしたらと言う事です。

世の中に争いが存在する以上、夢だけを見るわけにも行かない、と言うこともあります。そこでも、事実認識も必要だろうと思ったのです。論理的整合性だけで世の中は進んでいくわけではないし、むしろそれを逸脱することも多いだろうからです。

私は政治に詳しくはありませんが、政治家叩きが、モンスタークレーマーのようになってないかと危惧することもあります。

先の戦争に関しても、自分が政治家ならうまく舵取り出来たのか、あるいは戦争を回避できたのか、そのような事を思って見るのも良いかもしれません。
金を払ってんだ、ちゃんと仕事しろ!と言うだけではあまりに短絡であり無責任というものだと私は思います。政治家も国民の一人であり人間なのです。小さな仕事、大きな仕事、世の中にはありますが、仕事をする人に対しての何というか、謝の気持ちみたいなものは必要だと思います。今お聞きしたデヴィッドさんの言い回しだと、なんか、ブラック企業のオーナーや、労働者の足元を見て安使いするような派遣制度をつくった経営者と政治家のような人達と同じ印象を受けます。
それでは国家の中に分裂が生じていることになり、余計な摩擦でその運営に多大なコストがかかります。政府と国民が仲良しになれとは言いませんが、政府で働く人も一人の人間であり、国民なのだと言う事実認識も必要なのでは無いでしょうか。

デヴィッドさんは、金は払ってるんだ、ちゃんと仕事しろ!とケツ叩かれるような扱いを受けたいですか?私は嫌です。
ありがとう、これはお礼ですと言われて銭を貰う方が、断然モチベが上がります。

政治家やそこにつるんでいる既得権益のある者達が、自分達の立場を利用してこすずるい、がめつい事をやっているとするなら、それは犯罪であり追求されるべき事でしょう。しかしそればっかりでもないでしょう。

支配と言う構造が終わるためには、彼らに対する認識を、彼らも一国民であるとする事が、フラットな社会運営に通じるものではないかと私は思います。

個人がしっかりしなければならないと言うのは民主主義の基本にもなります。不断の努力によって継続するのが民主主義であり、人々が忙殺されたり放逸であったりするとそれは機能しないのでしょう。

中々、流麗な筆運びは出来ませんが、思った事を綴りました。僭越でしたでしょうか。
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この回答へのお礼

国家が家族のごとく、などという理想的なことをキサラギさんが語ることが、
私には少し以外ではありました。

政府、官僚、大企業などの体制側が基本的に「善」というか、ある意味絶対的
存在であるとほとんどの国民が認識していると思います。
それは、学校教育で刷り込まれているからだと思います。

だから、政治家や役人が不祥事を起こしたり、企業が不良品を製造したりした
時に、これらを非難し、排除することで「一件落着」となるのだと思います。

あたかも、癌を外科手術で切り取るように…

私は、今や二人に一人がなるといわれている癌の問題について、その治療法ある
いは予防法において本質に全く至っていないと思います。

同様に、社会全体の問題についてもやはり、皮相的な対処に終始していると思い
ます。

その本質的な部分とは、「人間とは」ということと考えます。

例えば、小さな会社で課長になっただけで急に気取り始めたりとか、保身に走っ
たりとか…

まして、大企業に勤めているとか、高級官僚であるとか、国会議員であるとかい
う人達の慢心・保身がどれほどかと考えると嫌になります。

ある、昔のアイドル歌手が言っていました、「自分らが日本を動かしているんだ」
と、当時は思っていたということです。
また、一部の国会議員にとって議員秘書などは「このハゲ」でしかなかったりする
のでしょう。

こういった人間の本質に関わることは、学校では教えません。また、科学で扱って
いる分野もあるとは思いますが、まだまだほんのわずかなのでしょう。

このあたりのことは、名作と言われる文学とか映画など、あるいは実社会を冷静に
見ることでしか学べないと思います。

人間の宿業ともいうべき、心の深い、本質的な部分…これは現実です、残念ながら。
ですから、政治家、官僚、大企業などの国家の重要な役割に携わる人達については
厳しい賞罰で国民が対処「せざるを得ない」と考えます。

そうしつつ、人間の本質の部分に迫り、改善の方途を探り当てねばならないという
ことです。

そうして、仰るように、「国家が家族の如く」なることを私も望みます。

お礼日時:2017/11/03 12:35

>1.国家が国民の自由を制限していることにならないのだろうか?



なる。

>2.この点は、おそらく学問によってその裏付けがなされていると思う。
>それは、どういう論理になるのでしょうか?

社会契約論

>3.その論理が正当であるという根拠は何なのでしょうか?

ない。最大多数の最大幸福が得られるにすぎん。

>4.その他、思うところをお聞かせください。

学びて思わざればすなわち暗し。
思いて学ばざればすなわち危うし。
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この回答へのお礼

いつも簡潔なご回答ありがとうございます。

>学びて思わざればすなわち暗し
>思いて学ばざればすなわち危うし

んだ、んだ。

お礼日時:2017/11/02 22:52

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