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次のふたつの命題は 同じことを言っていますか?

▲ (パウロ:ローマ書 9:16 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

だから 人間の意志することによるのではなく また 走ることによるのでも
なく 神のあわれむことによる。

ἄρα οὖν οὐ τοῦ θέλοντος οὐδὲ τοῦ τρέχοντος  ἀλλὰ τοῦ 
ἐλεοῦντος θεοῦ

So then it is not of him that willeth, nor of him that runneth, but of God
that sheweth mercy.

https://www.blueletterbible.org/kjv/rom/9/1/t_co …

▼ (親鸞:歎異抄 8 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

念仏は行者のために、非行・非善なり。

わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。
わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。

ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、 行者のためには非行・非善なり
と云々。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

A 回答 (9件)

魂魄。


これを私は”霊性”と”我性”と表現し、そしてそのように解釈します。

親鸞が”他力”を強調したのは、自身の求め心の強さに意識が向かなかったからではないでしょうか。この求め心を自力と云うのだから。

神と人とのコンタクトは、自身の求め心(自力)に反応する神の応答(他力)により成り立つと思います。

また、輪廻は霊性と我性の”種”が永遠に続く事を云うのだと受け止めています。
だから、DNAは全く関係ありません。
現世の本人が全くそのまま生まれ変わる筈はありません。と、思います。

神のなすすべもないとは、因果の法則に依るという事です。
奇跡なるものは神の仕業ではなく、人の比喩と思えます。

ただ、彼の山崎弁栄(べんねい)上人は、本の表紙を指先でなぞっただけで、その本の内容を理解した《大円鏡智という心の働きの事です。念為》と云いますから、これを奇跡と云うなら神の奇跡は想像を絶する事でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 魂魄。
これを私は”霊性”と”我性”と表現し、そしてそのように解釈します。
☆ なるほど。《”我性”》は 俗に言う成仏できなかった者の遺恨が
死後なお漂っているといったことですかね。


★ 親鸞が”他力”を強調したのは、自身の求め心の強さに意識が向か
なかったからではないでしょうか。この求め心を自力と云うのだから。
☆ №1のやり取りで 自力・他力についてこちらの見方を述べまし
た。

他力には 他の人びとの意志(のチカラ)と 絶対他力とがあります。

人間としての他力は 互いにその意志を行使し自力を発揮するところ
に すでに一定の集団として捉え得るならば その集合的なチカラが
形成され その部分部分を 各自があたかも自力として担っているか
も知れない。
(共業(ぐうごう)という考え方らしい)。

そして 絶対他力つまり神のチカラも もしこれを人間が受け容れ具
体的に受け取っていたとしたら すでに実際には 人間の自力として
表現されます。

そういった問題を提起しました。


その場合には 《義無きを以って義とする》立ち場で 人間の世界に
おける各自の自力と集合的自力とがあることになります。

他力は 必ずしも特定できないかも知れないし 絶対他力は 非思考
のかなたにあるかも知れません。

親鸞も そういった方向で 他力本願や信心のことを捉えたかも分か
りません。


★ 神と人とのコンタクトは、自身の求め心(自力)に反応する神の応
答(他力)により成り立つと思います。
☆ 神は 人間のいかなる自力をも超えています。その神のハタラキ
カケがあったとする場合 しかもすでに 現象しているのは 人間の
自力です。

こういった――世界最先端の――思想を 考えて行きたい。


★ また、輪廻は霊性と我性の”種”が永遠に続く事を云うのだと受け
止めています。
☆ ならば 形而上学の問題になります。

ただし わたしは勘違いをしていたようで 輪廻(サンサーラ)と言
う言葉だけで 《生まれ変わり》を言っているようなのです。

★ だから、DNAは 関係ありま
☆ す。たぶん 永遠の生命といったふうに表現するとよいかも。


★ 山崎弁栄:《大円鏡智という心の働きの事です。》
☆ は 神のチカラを受け取ったあとの問題でしょう たぶん。

お礼日時:2017/11/28 13:12

№2のお礼文の”くだりの文脈”を見る限りでは、人の霊魂、たましいの事を云っているように思いました。



因と果に依って魂(たましい)は形成されながら成長し、それが死後の魂(こん)と成って輪廻すると解釈するのです。

アルケーの理の法則ではなく、心の法則、輪廻。

神の自身の理の法則によって地球は必然的に現れ、その地球の環境が生命を誕生させ、それも必然であった。

生命は因と果に依って成長し、その過程で魂(こん)が固まってゆく。
これを心の法則と云ってみたい。

神自身に依るこの因果の法則ゆえに、神は、なすすべもありません。
ただ、見守るばかりです。

たぶん、この事を云っていると思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


んんん?

★ 因と果に依って魂(たましい)は形成されながら成長し、それが死後
の魂(こん)と成って輪廻すると解釈するのです。

☆ 微妙ですが 詳しくは:

▲ (コトバンク:こんぱく【魂魄 hún pò】)
https://kotobank.jp/word/%E9%AD%82%E9%AD%84-67509
§ 世界大百科事典 第2版の解説

人間の精神的肉体的活動をつかさどる神霊,たましいをいう。

古代中国では,人間を形成する陰陽二気の陽気の霊を魂といい,陰気の
霊を魄という。

魂は精神,魄は肉体をつかさどる神霊であるが,一般に精神をつかさど
る魂によって人間の神霊を表す。

人が死ぬと,魂は天上に昇って神となり,魄は地上に止まって鬼となる
が,特に天寿を全うせずに横死したものの鬼は強いエネルギーをもち,
人間にたたる悪鬼になるとして恐れられた。
~~~~~~~~~~

☆ むろん 日本語の《たま(玉・魂);たましひ(魂)》は 別だと
思います。生前も死後も ひとの生活を見守り助けるハタラキを持つと
言われます(大野晋)。



★ 心の法則、輪廻。
☆ 輪廻だけだと 形而上のことを言っているかも知れないのですが
転生つまり生まれ変わりとなると この輪廻転生はありません。過去に
自分と同じDNAを持った人間はいませんから。



★ ~~~~~~~
神の自身の理の法則によって地球は必然的に現れ、その地球の環境が
生命を誕生させ、それも必然であった。

生命は因と果に依って成長し、その過程で魂(こん)が固まってゆく。
これを心の法則と云ってみたい。

神自身に依るこの因果の法則ゆえに、神は、なすすべもありません。
ただ、見守るばかりです。
~~~~~~~~
☆ 《心の法則》は 《因果の法則》をふくむのではないのですか?

《神自身に依る》のならば そのように《成すすべを持っている》の
では?

お礼日時:2017/11/27 07:23

真正のお肉屋さんだったら、なにを周りで言おうが、自分の仕事を全うするだけですね。

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この回答へのお礼

あぁ そういう意味ですか。なるほど。

――ご回答をありがとうございます。

それは そうですね。まわりの言うことについては 的がはづれて
いるなら 違いますよとひと言言って 放っておくことができます。

お礼日時:2017/11/26 23:58

なんとなく、肉屋が味わうような気分がしています。

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この回答へのお礼

まぁ いまの持論です。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/26 23:31

わざわざ探して頂いてすみません。

ありがとうございます。

それより前に、カントさんは「わたしたちに何が許されているか」というような話を小耳に挟んでいて、そんな大胆なことをするようには思えませんでした。

シュヴェーグラーの『西洋哲学史』の下巻を読んでいると、ホッブスさんはガリレオとデカルトを学んで政治的問題の解決にあたったことや、ロックさんは医学を学んだ人のように書いてありました。このあたりの一連の人物を眺めていると、なんとなく、自然学研究者は、無神論者にみえてしまうのだろうか、と思ってしまいます。

カントさんは若いころに『活量測定考』という論を残しているようで、リスボンの大地震の後にも、心を痛めて、三篇ほどの論文を残しているらしい、

ショーペンハウエルさんはゲーテさんのもとで、色彩論の手伝いをしていたらしいですね。


物の研究をしていても、やはり、いろいろな事柄を扱うのはやはり人間のなすことであって、それで人を傷つけてしまわないかも充分に考えないといけないですよね。

人を傷つけてしまわないか、それを考える哲学はどこまでも宗教を求め、思考と非思考のギリギリの界面まで追究するのはとても大事なことと思っています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

現代では 自然科学者は 自然科学をはっきりと神学とは切り離した
格好になっていますので その学問を研究することとそして自己の信
仰とを やはりはっきりと分けていると思います。


言いかえると 自然科学者の立ち場を考えると 信仰が 《有る神》
派と《無い神》派とに分かれるという事情が捉えやすいと思われます。

つまり わたしの見方としては 無神論者も それとして信仰を持っ
ていると見ています。




★ 人を傷つける
☆ 問題に敏感なんですね。

げんみつに言うと 精神は 外からは傷つけられることは ないとい
う立ち場にわたしは立っています。

ヤマシサ反応に――つまり 良心に――さからってコトを成すときに
精神は 傷がつく。つまり 自分で傷つける場合だけだという見方で
す。

たとえば誹謗中傷によって 人を傷つける場合が じっさいにありま
す。この場合にも 根も葉もない内容が明らかになるまでは 世間の
評価として マイナスの風が吹くことがあります。そのような外側に
おける不都合だけをこうむると思います。

けれども それによって精神は わづらわしくは感じますし 周りの
人びともマイナスのうわさによって何かと こちらに不利な態度を示
しますが 〔精神が〕傷つくということはありません。

お礼日時:2017/11/26 23:00

ただ、ハイネさんによると、カントさんこそが神の首を切り落とした、と読んだそうなので、ちょっとこの詩人の直感を信頼して調べてみるか、ただの勘違いなのか気になっています。

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この回答へのお礼

ええっと。――まづは ご回答をありがとうございます。

次の解説を拾って来ました。

▲ (木田元:『反哲学史』) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
こうして〔☆ 省略しました〕カントは 一方において数学および数学的自
然科学(ニュートン物理学)の確実性を基礎づけるとともに もう一方では 
独断的形而上学を否認することになります。

というのも この独断的形而上学は もともと現象界だけにしか客観的妥当
性をもっては適用されえない空間的・時間的規定やカテゴリーを 神だとか
世界 不滅な霊魂といった元来現象としては現われえないものに適用して 
勝手な理論構成を試みているにすぎないからです。

彼は こうしたものはわれわれの認識の対象にはなりえないのであるから 
それについて議論してもはじまらないと言うのです。ハイネが カントは神
の首を切り落としたというのは このことにほかなりません。



・・・
神の問題にしてみても たしかに彼は『純粋理性批判』においては神の存在
を否定しているかに見えますが それはむしろ 神を理論的認識の対象とし
て扱うことの不都合さを主張しただけなのであって 彼の言葉を借りれば 

  私は信仰に席をあけるために 〔☆ その信仰をめぐる・つまり
  神をめぐろうとするところの〕知を否定しなければならなかった

のです。つまり 信仰を純粋に信仰として生かすために 知識(☆ =思考
の緑野および感性の原野)と信仰(☆ 非思考の庭)とを峻別し 知識のお
よぶ領域を限定する必要があった というわけなのでしょう。彼は 理論的
認識としては否定した形而上学をも《実践の形而上学》として つまり道徳
的実践の条件として生かそうと試みています。
 (1995版 §8 pp.150&152 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2017/11/26 20:18

ヤコブとエサウの話はいま初めて聞きました。



(信じる)という話では、イサクの父がアブラハムで良かったでしょうか。

イサクの父が、啓示を受けて、自分の子供を殺すようにと告げられ、それをまさに実行した(実行するまさにそのときに神に止められた)、だったでしょうか。

聞きかじりの話で不勉強ですが、(信じる)というのはこのようなものであると思えます。


キリスト教の話ではなくて申し訳ないですが、

ホメロスは子供のなぞかけに気をつけよ

ヘシオドスはゼウスの土地に近づくな、そこがお前の死に場所だ

アイスキュロスは家につぶされて死ぬ

とお告げを受けたようですが、ホメロスはそのままそれを受け入れ、ヘシオドスは避けていたが、地元の人だけが知るゼウスの土地で殺され、アイスキュロス(記憶があいまいでアイスキュロスではないかもしれません)は自分の家を避け、路上生活をしたが、鳥が飛びながら食べた貝殻を食べ終わって落ちてきた貝殻にあたって死んだとされたと読んだ気がします。

この人々はみずからの生き方を生きて、祭壇に捧げものをしたときに受けるお告げなので、ある意味では、みずからの生き方に沿った運命を聞かされていると思うのですが、いざ聞いてしまうとやはりたじろいでしまうものだと思います。

オイデプスにしても、自分のこどもに殺される、と聞いた時には、みずからにその原因が分かっているものでも、やはりあれこれ策を施してしまう。
できればオイデプスの父はそれを聞いたとしても、我が子を育て、我が子が言った意味を分かるころになって伝える方法が良かったのではないかと思っています。


みずからに思い当たるふしがあるものは、やはりそうか、と思うところがあるかもしれませんが、生まれる前から言われているものに対して、それをそのまま受け入れるはやはりもっとその受け入れ方は難しいように思います。


カントさんは啓示宗教に対して、理性宗教を考えているようですが、考える立場の人間はやはり運命に対する何らかの策をついつい考え巡らしてしまうのではないでしょうか。

これも、思いつくままに書いています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ヤコブとエサウの話はいま初めて聞きました。
☆ つまり 一見えこひいきであり ひょっとするとよく考えても えこ
ひいきである事例なのかも知れません。

★ (信じる)という話では、イサクの父がアブラハムで良かったでしょう
か。
★ イサクの父が、啓示を受けて、自分の子供を殺すようにと告げられ、
それをまさに実行した(実行するまさにそのときに神に止められた)、だっ
たでしょうか。
☆ そのとおりの話が書かれています。

★ 聞きかじりの話で不勉強ですが、(信じる)というのはこのようなもの
であると思えます。
☆ ん? 物語のとおりということですかね。


★ ~~~~~
ホメロスは子供のなぞかけに気をつけよ

ヘシオドスはゼウスの土地に近づくな、そこがお前の死に場所だ

アイスキュロスは家につぶされて死ぬ

とお告げを受けたようですが、・・・
~~~~~~~~~~
☆ そうですか。途中の過程においても いろんな要素要因が起きてい
るでしょうから しらべて考えてみると おもしろいかも知れません。

それでも むつかしいかも知れないし あんがい素直に受け取ることの
できる話であるかも分かりません。


★ この人々はみずからの生き方を生きて、祭壇に捧げものをしたとき
に受けるお告げなので、・・・
☆ なるほど。あらかじめ知らされているとき アブラハムとイサクの
場合は 筋書きとは別の展開になったということで 特異かも知れませ
ん。


★ オイデプスにしても、
☆ 父親と母親 そして自分自身。オイディプスの場合 伝承によって
筋がちがうとも聞きました。目を射るのではなく 運命をおさめて 自
己をもおさめて生き切ったというような別のストーリもあるとか。



★ 生まれる前から言われているものに対して、それをそのまま受け入
れるはやはりもっとその受け入れ方は難しいように思います。
☆ ですかね。


★ カントさんは啓示宗教に対して、理性宗教を考えているようですが、
考える立場の人間はやはり運命に対する何らかの策をついつい考え巡ら
してしまうのではないでしょうか。
☆ どうもわたしには 物自体の奥に なお普遍神を見据えようとして
いたかも知れないと思ってしまいます。

お礼日時:2017/11/26 17:18

とりあえず、アタマに思い浮かんだことだけ述べておきます。



むかし、もう十年くらい前でしょうか、ある韓国のひとが(日本で)ホームから線路に落ちたのを見かけて、すぐさま救出を試みて亡くなったかたの話をテレビのニュースでみました。

たぶん、反射的に助けようとしたのだと思います。

そのニュースをみたことで、ホームの下にエスケープゾーンがあるだろうか、とか、線路のレールの間に、レールと平行にひとを並べたほうがよいのか、エスケープゾーンに運ぶのが良いのか、緊急停止ボタンのようなものはどこにあるのか、など、ふと思い出したときに確認することがあります。自分にそんな瞬発力があるだろうか、とも疑います。

なんらかのきっかけ、それから思うこと、それを何度か思い出すこと、それらはなにかの(はからい)なのかどうか。

ホームの下にエスケープゾーンがないから、と言って鉄道会社に腹を立てるのもおかしな話ですよね?

地下鉄の反響音で、視覚障碍者がホームの位置関係がわからなくなって、ホームから転落したなどの話も、なんらかの対策をしなければならない、と言っても、どのようにすれば一番良いかはなかなか決まらないだろうと思います。

視覚障碍者のなかには、その反響音を頼りに位置関係を把握しているひともいるかもしれないし、点字ブロックをもっとわかりやすくする工夫があるかどうかを考案しても、いまの点字ブロックで慣れている人には返って混乱のもとになるかもしれません。

なにより、杖で足元を探りながら歩いている人を見かけたら、横を一緒に歩いてあげればよいのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


この問題は わたしの勝手な推測ですが 深くむつかしいと思います。

ものごとが成るか成らないかは 《人間の意志によるのではなく 神のあわ
れみによる》というくだりの文脈は こうです。:

▲ (ローマ書 9章) ~~~~~~~~
http://bible.salterrae.net/kougo/html/romans.html

9:11 まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、
9:12 わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕え
るであろう」と、彼女(兄弟の母のレベッカ)に仰せられたのである。

9:13 「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。
〔☆ 《双子の兄弟の弟ヤコブを 生まれる前から 愛し 兄のエサウを憎
んだ》と神が言っているという意味です〕。

9:14 では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じ
てそうではない。
9:15 神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわ
れみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。
9:16 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、・・・
~~~~~~~~~~~~



★ むかし、もう十年くらい前でしょうか、ある韓国のひとが(日本で)ホー
ムから線路に落ちたのを見かけて、すぐさま救出を試みて亡くなったかたの

☆ という事例についても どう捉えるか? が つねにつきまとっている
ように思います。



何も考えずに――と言いますか 安易に答えを出すことなく しっかり問題
を熟成させつつ―― 取りあえずは:
★ なにより、杖で足元を探りながら歩いている人を見かけたら、横を一緒
に歩いてあげればよいのではないかと思います。
☆ というひとつの結論に到りましょうか。



哲学の理屈好きは この場合には 屁理屈であって 要らぬわざになりまし
ょうか どうでしょうか。

おそらく 《信じる》とは どういうことか? という主題ではないかと思
います。

お礼日時:2017/11/26 15:33

それでも、ひとは他力と思っていても本来、自力を持っているし、



普段自力と思っていても、たくさんの人に助けられている

と思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。世界をふつうに見てみたとき おそらくそういうふうに
見えると思います。


哲学は ひねくれているところがありますから――それによって世界
の理解がすすむこともあるので ややこしいわけですが―― 《走り
意志する》のは自力ですが では 《神のあわれみ》とは 自力か他
力か? と問うてみます。


それというのも もし神のあわれみを受け取ったというのなら その
あとは すでに人間の・われのチカラとなっているのではないか? 
とも考えられますし。





★ 普段自力と思っていても、たくさんの人に助けられている
☆ このような《ほかの人びとの助け》は われの自力か 他力か?

ひょっとしたら――必ずしも不当にほこるというのでもなく―― わ
が自力の(と言っても 縁起共生において互いにでしょうが)および
得る範囲であるかも分かりません。



ふつうに言う他力も 回りまわって《わがハカラヒ》の及んだ範囲・
つまり自力である――もしくは 当事者一人ひとりの自力の相互影響
なる範囲である――かも分からないし 

神のあわれみなる絶対他力すらもが これを恩恵として受け取ったの
なら むしろ 自己の経験的な意志行為(つまり ハカラヒ)と成っ
ているのかも分かりません。




わざと 人びとをまどわすような見方を持ち出してみました。どうお
考えになりましょうか。

お礼日時:2017/11/26 13:16

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