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怒りで大声を出したり、物を壊したり、場合によっては暴力があったり。
そんな怒る人が「自分は普段こんなに怒らない。ここまで怒らせるお前が悪い」と怒りの起点は相手にあると主張した場合、皆さんはどう考えますか?
怒りの起点は本人にあるのか、相手にあるのか、それとも喧嘩両成敗なのか。
皆さんの意見をお聞かせください。

【注意】
このお題は教えて!gooウォッチ編集部から出題された記事と連動するアンケートとなります。
回答は記事に掲載される可能性がございます。
なおベストアンサーの選出はない点をご理解いただき、回答をいただけますと幸いです。
皆様のご理解と回答に心から感謝いたします。

A 回答 (18件中11~18件)

人は何かしらの価値観や思想を持っていて、それと反することを言われたりやられたりすると、自分の敵とみなして怒るのだと思います。

いわば防衛本能ですね。怒りの起点について言えば相手が怒らせる行動=自分の価値観とは反する行動をとったこと、でしょうね。しかし、怒ることの内在的な原因は怒っている人が他の人を認めてない、また自分の価値観以外は認められない人だからとも(状況によりますが)考えられます。双方悪いところはありますが、怒らないことはその人の考えかたで操作できることもあるでしょう。
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文明が発達した社会では、怒りは、自分が直面した事象に対して考えてもどうにも解決することはできない苛立ちだと思います。


仏教の四苦八苦、「思い通りにならない」と似ています。

自分は他人より努力したけれども、満足な結果を得られなかった。
他人が言っていることが何か理解できない。
嫁に稼ぎが少ないと罵られる。
家柄や地方出身を馬鹿にされる。

人間は他の動物と違って知能が発達したことにより、自分が想像する未来がどれだけ優れているかで自己の満足度を高めることができるのではないかと思うのですが。
過去は変えることのできない怒りの源だけれども、未来は生きるための活力となるです。
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怒りは、不安や恐怖と同じように生物の進化で身を守るために発生してきた機構の一つですね。

自分自身や自分の仲間の安全が脅かされる状態が起こったと時、逃げてばかりいれば助かるというようにはこの世の中できていない。身を呈して立ち向かうことをしないと身を守れないこともしばしば起こります。子を育てている動物など、特に母親など、子供達の危機にたいして強弱大小お構い無しに相手に向かって行き子供を守ろうとします。そんな時になっても平和的に解決しようなんてしている母動物なんていやしない。自分の身を呈して暴力で向かっていきます。それが怒りですね。

安全保障が脅かされ始めたら、その不安を解消するために、相手にすりよるか、ひとまず逃げるかっていう行動を大抵の動物は採る。ここまでは、不安や恐怖が主な動機になっている。しかし、いつまでも衝突を避けていたら自分や自分仲間の身を滅ぼしてしまう時がある。そんな時は暴力的に相手に向かわなくてはならない。その状況で弱腰になって怯むようなことがないようにしてくれているのが、怒りですね。

だから、怒りの起点は、相手による安全保障の脅かしにあります。

危険な状態にはいろいろな程度がある。その程度によって、ひとまず逃げるか、あるいは、それに身を呈して立ち向かうかを判断するにはバランス感覚が必要だ。その辺をごちゃごちゃにして、暴力はいけない、何事も話し合いで解決しよう、なんて言っている連中は、生物の進化を全く無視した、だから、無知がなせる技なんでしょうね。
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・・・・・・・・・・・・・・02・・・・・・・・3・・・・・・・・・



NO1の回答はもう当たり前すぎて・・・・・・・

NO3の回答・・・・相変わらずふざけているんですね。。。。。。。。。。
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怒りは本人と相手ががいないと成り立たないというのは当たり前ですね。


ただ自己承認欲の強さ(わがままさ)と怒り方の度合いは比例しますよね。


休日のアルバイトでピザの配達員をやっていた時がありまして、大雪の影響でやむを得ず遅れてしまった時、

客「おぉぉい!客を何様だと思っているんだぁ?お前ん所の営業体制はおかしいんじゃねぇの?」

私「本当におかしいとおもいます。お客様が寒い中でお腹をすかせて温かいピザを楽しみに待っているのに、一時間も待たせるなんておかしい。」
客「本当にそうだよなあ!こっちは一時間も待ち続けたってのにさぁ!」
自分「うちの店の営業体制はおかしすぎます。もっと店員を増やすなりしないと、お客様に迷惑ですし・・・僕としても忙しすぎて勘弁してくれやって感じっすわ(笑)」
客「・・・・・お前、なかなか機転の利く奴だな(笑) それにしてもお前も大雪の中大変だな云々・・・・・」


「怒り」は「一方的な共感」でみるみる消えていくので面白かったです。
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怒りの発端はお前の頭のおかしさにある。

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「ここまで怒らせるお前が悪い」って


DV加害者の常套句ですよ
DV加害者は、常に
「自分は悪くない」と自分を正当化しているのです


「怒り」という感情は自分の中にあり
それの「起点」なり「きっかけ」なりが、自分以外の誰かにあるとしても
その感情をどうするかは
もう自分にしかできないことですよね

その後、その感情をどうするかは
自分の責任なんじゃないかな…
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自分の心の安定を崩されたとき、それを立て直そうとするのが


怒りという感情です。
腹を立てるのは抑えられないでしょうが、それによって暴言や暴力などの
過激な反応を抑えられなくては社会の一員とは言えないでしょう
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Q認識と意識に付いて。

認識と意識は同じ意味となりますか。

私の考えでは、
認識という心の働きはすべての生物に備わる能力。
下等生物では、物の存在をキャッチする働き。たぶん五感という事になりますかね。
高等動物では、五感に何か加わりますでしょうか。
さしあたり、結論としては五感の作用を認識と云う、と。

そして意識という心の働きは、人間にのみ備わる能力。
〔・・・・・・・・・・・〕
〔・・・・・・・・・・・〕
と、〔 〕内にはいろいろと補助的な一文、を入れられるかも知れません。

ご意見いただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

認識は、認知(cognition)と再認(recognition)を合わせたほどの意味でしょうか。
知覚は感覚情報の検出や処理に関わっていますが、認知や再認は、感覚情報から意味を引き出すのです。
こういう作業を指して、知覚刺激を弁別する、と言います。
そこには、知識の獲得、符号化、検索、再生、マッチングなどの情報処理の過程があり、また、色や顔などに対する特化したモジュールが確認されています。
人間の場合、イメージ情報と言語情報の異なるシステムが相互連絡して、1つの体制を為していると考えられています。

意識(consciousness)は、精神的経験について内観の報告を自分自身が持つことです。人は、遂行されている低次の認知過程を、はっきりと確かめることはできませんが、行動のプランニングやコントロールに関わる情報に関しては意識できることがわかっています。これは、部分的にせよ、自分の認知を認知する、というメタ認知の仕事なのです。

また、人は外界を内的なモデルとしていわばシミュレーション的に構築しており、そこから推論や置換を駆使して汎化しているのではないかと考えられており、現実と言葉(ディスクール)とが照応できるのはそのモデルの埋め込みのためであろうというのが有力な説ですが、意識を支える内観についても、こうした、世界についてののメンタルモデルからの再帰的な埋め込みが欠かせないだろうと考えることができます。

認識は、認知(cognition)と再認(recognition)を合わせたほどの意味でしょうか。
知覚は感覚情報の検出や処理に関わっていますが、認知や再認は、感覚情報から意味を引き出すのです。
こういう作業を指して、知覚刺激を弁別する、と言います。
そこには、知識の獲得、符号化、検索、再生、マッチングなどの情報処理の過程があり、また、色や顔などに対する特化したモジュールが確認されています。
人間の場合、イメージ情報と言語情報の異なるシステムが相互連絡して、1つの体制を為していると考えられていま...続きを読む

Q足りないのは頭

だから、あなたと私は同じ。
なんか意見ある?

(削除されたので訂正再投稿)

Aベストアンサー

No.4です。

そっか、もし本当に知らなかったのならd_y_nさんは、ここの哲学欄を切っ掛けに好奇心をエンジンにして、いろいろ検索したり勉強すればこれから見違えるように伸びるよ。d_y_nさんはソクラテス並みに優れてるってことです。無知の知で検索してね。だから、あなたは皆さんと同じじゃない。

Q考えた事がある人なら分かると思うのですが 存在主義 おかしいでしょうか?

私たちは存在する為に生きていますよねえ。存在する為に仕事をし 存在する為に息をして

存在する為に食べて 存在する為に人間関係を持ち 存在する為に法律に従い

存在するための様々な性質を持ち。存在する為に過去38億年生命のバトンを渡して来て

数百万年人のタスキをつないできたのではないでしょうか。

今ここに我々が生きて存在していることは運命であり奇跡です。

宇宙は崩壊しようとしていますが人間は進化しようとしています。

果たして宇宙の行方は?人間の行方は? サイクリック宇宙?

存在することが目的で 存在することが価値で 存在することに意義が有り意味もある

正義は人類みんなが存在し事件を守られること

愛は互が互の存在を活かし合うことだと思います。おかしいでしょうか?

Aベストアンサー

おかしいと言うか、言わんとしている本質がわからないです。
今までの質問でわかった、「存在主義」の内容は以下のとおりです。
1.「存在主義」の存在は、精神をもった存在である。(精神をもった存在とは、人間を意味するようである)
2.動物など、人間以外の生物や、物体は、精神を持った存在では無いようである。
3.上記より、寝たきり老人や植物人間などは、精神の存在が確認できないので、「存在主義」の存在では無いようである。
4.AIなど、高度な精神機能を持つ物と見なせば、「存在主義」の存在である。
5.「存在主義」の存在は、存在する事が目的で、「永遠(存在)」を目指す。

一応、1~5は、論理的に閉じています。
1、2より、存在は、精神を持った人間だけなので、動物や植物を殺したり、収穫して食べるのは、存在が永遠を目指すので、当たり前となります。
3より、寝たきり老人は、存在の目指す永遠に障害になるなら、尊厳死を与えるらしい。(数回、質問していますが、同じ回答です)
4、5より、AIが優れているなら、AIが存在として永遠を目指す事も有りえるらしい。
根拠はわからないですが、宇宙が熱死(これは、宇宙が膨張を続けている限り、起こるかどうかはわからないです)しても、存在は永遠を目指して、他の宇宙にいくらしい。

主張としては、存在(人間存在)は、存在間では、存在をおびやかしてはいけない。(戦争などは、してはいけない)
これを成り立たせる為に、2で精神存在だけを存在としているわけですよね?(人間以外の生物や物体を存在にしてしまうと、存在が存在を食べるので、理屈がとおりません)
「存在主義」と呼んでいますが、キリスト教などの、人間至上主義と同じでは無いですか?(キリスト教の場合、「神」から、人間がその権利を受けたと解釈しています)

わからないのは、何故、精神存在だけが、「存在」なのかの根拠です。(存在しているのは、生物や物体など、いくらでもあるのでは無いですか?)
精神が無いと、行動に制約がかからないと言うのを理由にするのならば、動物などの生物だって腹が空いたり、危害を加えられなければ、余分な行動はしないでしょう?
物体にいたっては、何も出来ないでしょう?
極端に言えば、人だって、限られた資源しか無いならば、利害が衝突します。
その場合は、どうするんですか?(寝たきり老人や植物人間は、「存在主義」では存在では無いから、良いのかもしれませんが、それ以外はどうするんですか?)

おかしいと言うか、言わんとしている本質がわからないです。
今までの質問でわかった、「存在主義」の内容は以下のとおりです。
1.「存在主義」の存在は、精神をもった存在である。(精神をもった存在とは、人間を意味するようである)
2.動物など、人間以外の生物や、物体は、精神を持った存在では無いようである。
3.上記より、寝たきり老人や植物人間などは、精神の存在が確認できないので、「存在主義」の存在では無いようである。
4.AIなど、高度な精神機能を持つ物と見なせば、「存在主義」の存在で...続きを読む

Q科学

超初歩的な質問です。

「サイエンスする」とはどういうことでしょうか?

哲学は科学の範疇には入らない、という考え方が多いようですが、そうだとすると
それは、何故ですか?

Aベストアンサー

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題としては、「科学」、狭義には「自然科学」の厳密性を担保するのは、「現象」そのものです。(現象以外は、基本的に検証の対象にならないと言えるでしょう)
「哲学」は、その性質上、形而上の存在も対象としなければいけません。 したがって、その厳密性の担保は、哲学が方法そのものから、生み出す必要があります。(これが、「哲学」が一筋縄では行かない所以です)
厳密性が一定の範囲で、確実に担保できるのは、形式科学としての「数学」ですね。(むしろ、厳密性が担保できる「形式」を見つけるのが、「数学」なのかもしれません)
宗教もある意味、「数学」に似ています。 それは、宗教の信仰者からは、そのようなものでは無いと言われるかもしれませんが、何らかの信仰対象に対して、信仰者がある形式で、その信仰を行う活動と言えなくも無いわけです。(その形式の分析は、宗教では無く、「宗教学」と呼ばれるでしょう)
古代ギリシャにおいては、これらは、全て「哲学」の領域にあったと言えるでしょう。(「数学」、「自然学」、「形而上学」は、「哲学」の中で混然一体として議論されていたわけです)
ヨーロッパにおいては、ローマ帝国によるキリスト教の国教化に伴い、しばらくは、(キリスト教)「神学」は、自然哲学や「形而上学」としての、プラトニズムと混然一体として、「哲学」としても、蜜月を迎えましたが、16世紀以降は、暗黒時代を経て、「哲学」からは、それぞれ「神学」、「自然科学」として、分科していきました。
分科した理由はさまざまでしょうが、基本的に「哲学的」な厳密性では、上手くゆかなくなったのが、一番の理由でしょう。
(キリスト教)「神学」は、その宗教的理由から、教義にかかわるような議論を嫌ったわけでしょうし、「自然科学」は、原因を追究するより、現象の法則の科学的解明の方が重要だったと言う事です。
「数学」も、論理実証主義により、その厳密性を確立する事を目指しましたが、ヘーゲルなどにより、その基盤が確実で無い事が証明されてしまいました。(したがって、一定の形式における論理的整合性の検証に特化したわけです)
これらは、「Why(何故)」から、「How(どのように?)」への転換と言えます。
「哲学」が追求するのは、「Why」でしょう。
「科学」は、「How」であり、一部の解釈は、「Why」となります。(ただし、解釈は、あくまで解釈であり、実証は成されていないでしょう)
これが、「哲学」と「科学」を分ける境界なんでしょう。

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題...続きを読む

Q無から有が生まれるのか、生まれないのか?(生命の起源)

永遠のテーマといいますか、忘れ去られつつあるテーマと言ってよいかと思いますが、
これを何故問うかといいますと、知りたいからであり、それは仮に私がこれを知った時
には人生において何の変化もないとは思わず、この根本的問題をベースにしてあらゆる
ものを一歩深く知り感じ、とても豊かな知的生活がひょっとしたらできるのではないか
と期待するからであります。

科学的にはおそらくこれを確かめるすべはないと思いますが、どのように迫っているのか?
また、哲学ではどうなのか?それ以外ではどうなのか?

1.科学的見解をお願いします。

2.哲学的見解をお願いします

3.非科学的見解をお願いします。

4.個人的見解をお願いします。

Aベストアンサー

>とすると、人間も動植物も、地球も、太陽も、星雲も、同様の「抽象化」ということにな
るだろうと。

そうです。他の人から見ればこいつらに何言ってんだ?となるような発言ですが、今話題にしてるのはそういう事です。抽象化ってなんやねんと。

>そもそもこの「抽象化」という行為は、人間の脳の中で行なわれているように思えますが、
仏教の考え方では脳という「仮」の面で行なわれているということは、「空」の面でも同じ
ことが行なわれているということになると思います。
その原動力は「中」ということになるのでしょう。

でた、中。空の面でも同じことが起きているのではないか、となるとそれは考えられ得るでしょう。で、”中”の抽象化における働きですが、これが、先ほど疑問を持っていただいた”飛躍”の話ともつながって来るようです。

私どもは概念によって思考する訳ですが、今話題にしてるのは概念よりもずっと広大な世界についてです。概念はどうやってそんなことができるのかという事を説明するのが”飛躍”です。概念の本質に”中”があるというのは前に少し話題に上りました。私が思ったのは、あらゆる世界の階層の境界に、”中”が存在していて、一度この”中”を知ると、どの境界にも一瞬に思考を飛躍させることができるのではないか?という事です。概念を極めてその本質である”中”を知った時に、同時に”中”を介して他の世界、例えば生命とか、時間とか、混沌とか、あるいは一なる存在とか、言葉について知ることができる、と。

>「無限の非存在」「存在でも非存在でもないもの」「あらゆる可能性」…
存在に非ざるもの、存在・非存在に非ざるもの、あらゆる可能性、観念でない理解をしよう
と努力しましたが、どうも発想が出ないですね。

いや、これは発想が出なくていいんです。もし混沌について具体的な何かが発想できたならその人はどこかぶっ飛んでることになります。

>キサラギさんとしては「あらゆるもの、すべてのもの、全きもの」というものを想定してい
る、ということに意味があるという風に私は理解していますので、まずはこれでよいかなと。

あらゆるもの=混沌ですが、すべてのもの、全きものというのは、一なる存在のことです。
にゃんぽこさんのおっしゃる空に、ある意味で混沌は似ています。その内実は知りようがないという点が、似ているのです。

さて、抽象化に話は戻りますが、抽象化とは純化の一種ではないかとも思えます。そのものがそのものであることの根拠を満たしている、そのようにすることが抽象化ではないのかと。易しい言葉で言えば、形(すがた)を与えるということです。だからこれは、”中”の働きという事になってくるのではないか。

>とすると、人間も動植物も、地球も、太陽も、星雲も、同様の「抽象化」ということにな
るだろうと。

そうです。他の人から見ればこいつらに何言ってんだ?となるような発言ですが、今話題にしてるのはそういう事です。抽象化ってなんやねんと。

>そもそもこの「抽象化」という行為は、人間の脳の中で行なわれているように思えますが、
仏教の考え方では脳という「仮」の面で行なわれているということは、「空」の面でも同じ
ことが行なわれているということになると思います。
その原動力は「中」ということ...続きを読む

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q良心の呵責を感じることはありますか?

哲学者カントは、良心の呵責についてこのように述べています。

「人間が良心の呵責によって感じる苦痛は、たといその根源が道徳的であるにしても、結果からいえば、
哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、自然的である。」
参考:カント 道徳哲学 岩波文庫 p.41

つまり、良心の呵責は、たとえ道徳的であったにしても、自然な感情から来ている。恐怖とか、哀愁とかいったように。

あなたは、良心の呵責を感じることはありますか?
それはどんなことですか?

Aベストアンサー

私も感じますよ。それも取り返しのつかない子供の頃の自分の行動とかにね。
歳を重ねていくうちにいろいろ経験していく中で、まだ自分の感情が未熟だった頃の失態とかを思い出して、何であんなひどい事をしてしまったんだと感じます。
たとえば犬を飼ったのに遊んだのはちょっとの間だけで、あとはほおっておいて散歩もしないでフィラリアで死んでしまったときとか、思うようにならない事で腹を立ててヤツ当たりに弟を叩いて泣かせてしまったことや、子供の時の事なんで誰でもやってしまう仕方がない事とはいえ、とても辛く思い出すときがあります。ほかにもいろいろと自分の失態を思い出しては良心の呵責に胸がつまります。不思議なことにそういう想い出だけは心に残ってるんですよね。

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Qこの季節 感傷的になります。この現実にどんな価値があるでしょうか?

価値観の多様化と言ってましたが あなたにとって一番大切なものは?何でしょう?

生き甲斐にしてるものは?

一番嫌なのは何でしょうか?

ズバリあなたの哲学で何が価値あるものでしょうか?

Aベストアンサー

聞くところによると、夏の終わりに寂しさを感じるのは、日本人だけだそうです。

めんどくさい、というのも、非常に日本的です。米国人の娘は、高校の時、夫の仕事の関係で、一年日本にいたときに、”めんどくさいの歌”をつくっていました。彼女には、”やる・やらない”だけで、”やりたいけど、何となくめんどくさい”と言う、アプローチが非常に新鮮でした。”ラーララ、ラーララ、めんどくさい、めんどくさい”という、歌でした。

私にとって、一番いやなのは、”停滞”です。それを避けるために、一生懸命勉強するし、面倒な人付き合いもします。私の中で一番大切なのは、”明るい未来”です。だから、病気や事故、その他の諍いや、悲しい事件にも何とかめげないでいられるし、自分の犯した間違いにも、寛容でいられると思います。

他人の犯した間違いにも、寛容になれるといいんですが。
これは、死んでからになるかもしれません。

Qそんな綺麗なことじゃない。

これは何を意味してますか?

Aベストアンサー

結果に至る過程というものは
結果の整理された状態から見ると
想像を絶するものだ。
ということだと思います。


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