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1. 信仰は 類型において 梵我一如として表わされる。

2. ブラフマン(梵)が 一般絶対性であり アートマン(霊我)が 個別絶対性
である。両者の――霊としての―― 一体が 想定じょう 信仰である。

3. たとえば:

・・・(信仰)・・・:一般絶対性・・・・・・個別絶対性
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ブラフマニズム   :ブラフマン・・・・・・アートマン

ゴータマ・ブッダ  :無梵・・・・・・アン‐アートマン(無我):《無い神》派

ブディズム    :アミターバ・ブッダ・・ブッダター:《有る神》派

随神の道     :オホモノヌシ・・・・・もののあはれ〔を知るわれ〕

クリスチアニズム :テオス(神)・・・・・われ(神の宮)





4. 絶対性は じつはこのほかに 特殊絶対性があると仮説される。

5. 信仰は 個別に実践があるからである。神道には――単純化するのですが――
ミソギがあって それによってオホモノヌシの神との一体性を取り戻す。


6. 信仰の具体的な実践を 個人でやれば 個別絶対性にとどまる。実践(修行?)
を 人びとが共有するようになると 個別の神観としての主観が 共同化される。つ
まり 何らかのオシヘ(不文でも)を共有する宗教というウゴキである。


7. 一般および個別の絶対性なる理論が 実際じょうわれなる主観の具体的な実践
として そこに特殊な絶対性を成り立たせるかに見える。





8. アン‐アートマン(無‐霊我)なる個別絶対性は 現実にロウソクの炎が消え去
るかのようなニルワーナの状態になることを目指し ヨ―ガなどで実践する。《無い
神》派というごとく じっさいに呼吸を止めるほどにまでなるという。六道輪廻から
の解脱なのだという。

9. ここまでは 主観におけるその神観としての特殊絶対性である。そして この
ニルワーナなる理想(?)の状態が 共同主観となったときには――オシヘのごとく
受け留められ―― 人びとのあいだの宗教となる。


10. アミターバ・ブッダが 称名念仏なる実践としての主観を呼び起こし この
特殊絶対性が共同化されたなら その修行をしましょうというオシヘつまり宗教とな
る。(けれども 親鸞は 念仏を修行ではなく善行でもないと言った。つまり 個人
としての信仰にとどまる)。


11. 加持(アディシュターナ)祈祷という実践がある。マハーワイロ―チャナ・
タターガタ(大日如来)の側が《加》であり 人間の側が《持》と成り 両者の一体
を言うらしい。

12. これも 個別絶対性としての或るひとりの主観にとって おのれが実践する
だけの特殊絶対性であったものが 共同化されて 宗教となっている。



12. イエス・キリストは 特殊絶対性の部分にかんして こう言ったという。:
▲  (マルコ福音 14:22-24 からその趣旨のみ) パンを採って これはわたしの
からだだ。杯(ワイン?)を採って これはわたしの血だ。
☆ と。

13. つまり 出エジプト記( 24:3-8 )でモーセも 生け贄から採った血を 契
約の血とする特殊絶対性の実践をおこなっている。儀式が共有されれば 宗教である。 





14. これらの例にみられる《特殊絶対性》は そのひとりの人間の主観の内にと
どまるなら 一般および個別なる絶対性理論――つまり信仰なる動態――の範囲にあ
り そのまま 《生きた主観 生きた蝉》である。


15. ところが 特殊絶対性は 或る主観を一歩外に出かけるなら 信仰としての
絶対性は 消える。

16. オシヘないし儀式などの・言葉による表現をふくめた《かたちあるもの》を 
すでに主観と主観とが共有することになるからである。

17. 《梵我一如(無梵無我一如;仏仏一如:霊霊一如)》において 絶対性とわ
れなる主観が 一体となるのが 信仰(非思考の庭)である。ところが 特殊絶対性
は これもまだそれとして信仰にとどまるが ほかの主観と共有されたとすれば そ
れは 《梵我一如》なる類型つまりその概念が 共有されたに過ぎない。

18. 神を共有することは 無理である。もしそれが 現実であったとしても そ
のことをわれわれ人間は 認識し得ない。ヒラメキにおいて その可能性を予感する
のみであろう。

19. 宗教は 儀式をふくめたオシヘとその実践を 共有するわけで そこにとど
まるなら まだ趣味の同好会であり得る。社会福祉をも伴なったとしても サークル
活動だ。しかももしこのオシヘを神(絶対性)の代わりとし これを同好の士のあい
だにおいてであろうと 守るべき規範や規則とするなら そこでは信仰は消える。



20.よって 宗教は 信仰たる生きた蝉の遺したその抜け殻である。


☆ 検証をどうぞ。

A 回答 (1件)

ことばは時間を越えたがる



その喜びも、その悲しみも

その発せられた感動は 振動となって人から人へと 伝わっていく


その感動を何とか残そうと ひとは文字に期待する

文字は期待となって、未来のひとを待ち望んでいる

しかし、ことばは時の流れとともに、ことばのいのちは次第に冷めて硬くなる


ことばは時間を越えたがる

空虚な街に さすらうひとに

ふとおとづれる不思議な出会い ありきたりのあたりまえのことばに


とつぜんいのちが吹き込まれ、わたしのなかで蘇り、世界までも色づきはじめる瞬間が

このことばはどこから来たのか?

書き留められたその言葉は 書き留められてすぐに形となって 冷えて硬くなった
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。



★ ことばは時間を越えたがる
☆ そのとおりでしょうね。

また 同時代においても その向けられた宛て先は 一人や二人には
限られない。
★ ひとは文字に期待する
☆ ことができるゆえ。


★ ことばは時の流れとともに、ことばのいのちは次第に冷めて硬く
なる
☆ 凍り付いていても でも 出会った人によっては 解凍されるこ
とになるかも知れない。


★ ふとおとづれる不思議な出会い ありきたりのあたりまえのこと
ばに

★ とつぜんいのちが吹き込まれ、わたしのなかで蘇り、世界までも
色づきはじめる瞬間

☆ ということは この《ことば》を 必要以上にとうとばなくても
よい。ことばの射程は じゅうぶんなのだから。

オシヘというのは 解凍してこそ ことばである。いのちがある。

★☆ このことばはどこから来たのか?

お礼日時:2017/12/10 12:44

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