A 回答 (12件中1~10件)
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No.11
- 回答日時:
自然に包まれ、自然とともに、生まれ死んでいくだけの存在として人間を考えるとき、これは神とともにある状態でしょうか。
曲がりなりにも人は考え始めたから、神に対する罪を負ったのでしょうか?
喜びも悲しみも表現できるようになって、愉しみは増えたのではないでしょうか。
ひとが、高々 100 年くらいしか生きられないとき、子供たちになにか役に立ちそうな経験や知識を残したいと思わないでしょうか。
変な言葉が多すぎて、ひとを惑わすことが多いので、考えるほうが害悪になってしまっているでしょうか。
分かってきたことをまとめ、体系づけられるのも人間のわざなのかも知れませんが、まだ知りえないものを追求するのも人間だと思います。それでも分からないことはたくさんあって、まさに神のみぞ知る、と思って未知として残しているのではないでしょうか。
完全には正しいとは言えないかも知れないが、分かっている智慧、知識の部分も、長い間掛けていろいろな人がいろいろ研究してまとめてきた神の(はたらきの)一部をなんとか表している、と考えるのではないでしょうか。
わたしたちを包み、含んでいるなにものかを神とするなら、それはひとがそれを越えることはないという意味で、絶対的であり、
わたしたちの外側にあって、わたしたちと神、という相対的な図式なら、その神は相対的、というのでしょうか。
ご回答をありがとうございます。
★ 自然に包まれ、自然とともに、生まれ死んでいくだけの存在として
人間を考えるとき、これは神とともにある状態でしょうか。
☆ その風景の中にいる当の人にとって それは けっきょく本人がど
う捉えるか。どう神と関係づけているか? によると思います。
《神とともにある・ともにはない》 そのどちらでも 自由であり 互
いに同等だと思います。
信仰は 自然観や世界観をどのような内容として持っているかには 左
右されないはずですから。
★ 曲がりなりにも人は考え始めたから、神に対する罪を負ったのでし
ょうか?
☆ わたしの考えでは ふたつの筋があります。
単純に言って ウソをつきイツハリをおこなったとき それは 負の善
であり・悪であり 神に対してなら 罪になるのだと思います。
もうひとつには はじめから神の信仰を持っている場合にも 《罪》は
なかったと見る場合です。
ただ良心に反する《負の善――自然本性を傷つける意志の自由度――》
が始まっただけだと見る場合です。
言いかえると ことはすべて自由意志の問題だということ。この意志の
自由には 自然本性の心にすなおな意志自由とそしてそれにさからう自
由度とがあるというそんな人間の存在条件として捉えています。
★ 喜びも悲しみも表現できるようになって、愉しみは増えたのではな
いでしょうか。
☆ どうでしょうか。そうですね。わたしは きわめて単純な見方をし
ます。
ヤマシサ反応をないがしろにして 心にさからって意志する場合にも
われがわれであり続けることのできる境地を想定しています。
これは 浄福と言うべき変わらざる幸福に近いと思われます。
この境地のもとに――なおまだそれを確立し得ていない段階においても
―― 喜怒哀楽の感情などをおさめている。これをめざします。
★ わたしたちの外側にあって、わたしたちと神、という相対的な図式
なら、その神は相対的、というのでしょうか。
☆ 神は絶対性だというとき それは この経験世界の《外側》ではな
くて 《超えている》のだと思います。それゆえ――主観の特殊なケー
スでは―― わが主観の内に神がやって来るかも分かりません。
主観の内と外の《外》に神はあるのではなく その内外の経験世界を超
えているのでは?

No.10
- 回答日時:
もうひとつの質問のほうとも関係があるように思いますが、ひとが祈りを捧げるとき、日照りや水害や作物の不作や地震など考えられます。
これらは、もともと人間のコントロールの及ばない畏るべきものでした。
(示す)側というものを、大自然そのもの、の場合もあり、人々のなかで最も世界をよく知悉して(伸)である人が代表して、人々に人がどうあるべきかを示す場合もあるように思います。
天に向かって申し上げるひとは、人々を代表して申し上げている人の言葉は、その場で聞いている人々はある意味習っているようにも思います。
その申し上げる言葉に、なるほど、と納得しているひともいれば、いやいや、ちょっと違うよ、と納得していないひとも生じるように思います。
むかしのひとであれば、それが正しいかどうかはおいおい考えることにして、どこかの川が増水して決壊しそうだったら、みんなで協力して土嚢を積みにいかなければならないように思います。
ご回答をありがとうございます。
ええっとですね。天変地異は:
★ 人間のコントロールの及ばない畏るべきものでした。
☆ そのとき この自然現象――近ごろは 人災だとも言うようですが
――について 二通りの見方があるはずです。
(あ) 神とは何の関係もないと見る。
(い) きっと人間〔のいわゆる罪〕に対する神の怒りが 現われたの
だと見る。
☆ (あ)の場合も その人は 神とのカカハリを・つまり信仰を持っ
ていることができます。
(い)の場合は 信仰(つまり 一般および個別の絶対性)を持ちつつ
さらに おのれの主観として 自然の現象や人間の経験的な行為関係に
ついて 自分の信じる神のハタラキと関係づけている。
これが 特殊の絶対性です。
その人の主観の内では そういった《神についての思考 もしくは 忖
度》を持ったとしても なお信仰であることにとどまります。信仰ゆえ
に そういった思いや考えを持ったというかたちにおいて 絶対性の問
題でありつづけることが出来ます。
そうして もしこの特殊絶対性を ほかの人に輸出したとするなら そ
のときにはもう信仰は消えています。絶対性の問題ではなくなり 相対
的な思考や思想の問題に もろに 成りますから。
概念としてでなければ 交易はできません。神を これこれだと目の前
に示したり 相手が わたしは その特殊絶対性を自分の神として も
らい受けましょうというようなことは あり得ません。
それは 神ではなく 思想であり 一般にオシヘです。つまり やはり
思想です。
自然現象とのあいだの自分の思想は おのれの主観の内では 神に関係
づけることが出来ますが そのように神に関係づけた内容としては 主
観の外に出かけることは できません。
このように考えています。

No.9
- 回答日時:
(示す)側のなにものかと(申し上げる)側のなにものかの間に信頼関係があるとき(神)となるのではないでしょうか。
ご回答をありがとうございます。
ううーん。つまり:
★ 信頼関係
☆ は 人間の経験的な行為であり 出来事ですね。
★ (示す)側のなにものかと(申し上げる)側のなにものかの間
☆ 《なにものか》と表現することで 経験世界を超えた何ものかの
ことを言っていると受け取ることができますが 《示す》も《申し上
げる》も やはり人間の経験行為ですので その《側の》というのは
どういう意味か? が問題になると思います。
おそらく人間の《側の》は その背後なる何ものかなのか? 心の奥
なる何ものかなのか?
守護神のごとくであるなら まだ そのままでは 普遍神としての神
そのものではないですね。
《守護》という概念をその人が 思考しています。感覚としても 頼
っているものと思われます。
ということは 非思考としての信じるではない。と げんみつには捉
えられて来ます。
解釈した内容は それ以外にないというものではないでしょうから
その点 おことわりしなければならないと思います。

No.8
- 回答日時:
いろいろな回答が出て、楽しんでおられるようで、結構なことです。
言い訳をしなければならないのは、いかに設問が不備であったかということを示していることでしょうから、それをあらかじめ予定していたのでなければ、無駄なことで、馬鹿馬鹿しいしか言いようがありません。
このサイトにいくらかでも真面目な意図を期待している人たちには迷惑な話で、不毛な、哲学談義ともいえないような無駄話はやめてくださるよう願っています。
ご回答をありがとうございます。
中身のある部分は 次のくだりでしょう。:
★ 言い訳をしなければならないのは、いかに設問が不備であったかという
ことを示していることでしょうから、それをあらかじめ予定していたのでな
ければ、無駄なことで、馬鹿馬鹿しいしか言いようがありません。
☆ 《設問に 周到な用意がほどこされていないという意味で 不備があっ
た》ことは みとめますが――すでにその旨を述べてもいますが―― 《そ
れをあらかじめ予定していた》というのとは ちょっと違います。
早く正直に言いますが そんなことくらいは 分かっていると見なしたとい
うことです。
つまり 《不備のあること》を《予定していた》のではなく そうではなく
不備のあるままで 主意はつうじると思っていたということです。
No.7
- 回答日時:
> 仮説として反駁されることはない〔はずだ〕と言おうとしています。
でしたら質問は
「真偽はとりあえず問わないで「神は 絶対である」という仮説を置くことに反対はないですよね?」
という意味なんですか?
ご回答をありがとうございます。
☆☆ > 仮説として反駁されることはない〔はずだ〕と言おうとして
います。
★ でしたら質問は
「真偽はとりあえず問わないで「神は 絶対である」という仮説を置くこ
とに反対はないですよね?」
という意味なんですか?
☆ げんみつにまいります。
1. 神とは何か? ――答えが分かったなら その人は神とひとしい。
2. ゆえに 神が何であるかは 分かるか分からないかが 人間の能
力では 分からない。
3. けれども いちばん人びとのあいだで――情況証拠としてのごと
く――共通に分かっていることは 《人知を超えている》すなわち《経
験世界を超えている(非経験の場)》ということであろう。
4. これは 想定じょうのではあるが概念として 《相対に対する絶
対性や 有限に対する無限》という表現で定義できる。
5. すなわち 神について哲学の成し得るかぎり理論づけようとする
とき たとえば《神は 絶対である》という仮説が――すでに反駁の余
地がないと 横着にも見越して―― ひとつの命題として得られる。と
言ってよい〔のではないか〕。
6. 言いかえると 神にかんする哲学による理論建てとしては すで
にこのような作業仮説が つねに仮説でありつづけるかたちで 相対的
な真実としてわれわれに共通の命題として持たれる。
7. もし間違っていたなら 仮説を見直し取り換えればよい。けれど
も すでに《絶対 また 無限》を持ち出しているなら これらに二つ
や三つの絶対だとか無限だとかは 定義じょうあり得ないのだから こ
の仮説は 代替の候補が考え難い。
8. ゆえに この仮説のままで 理論建ての作業をすすめて行ってよ
い。のではないか?
こんなところでしょうか。
9. なお このように想定じょう定義した《神》は 因果関係などの
経験的な合理性を超えているからには 人間の認識にかかる真偽判断に
はなじまないと捉えられる。
10. 善悪の彼岸。あるいは 人間の相対的な真実(と虚偽)を超え
た想定概念としての《真理》だと考えられる。
No.5
- 回答日時:
>《真偽が不明か明かが 不明である》のではないですか?
言い換えれば「「神は絶対である」という命題は真偽不明である」という命題は真偽不明であるってことですね
だから「神は絶対である」という命題は真偽不明であるとは言えないと言いたいのですね
言ってることは正しいように見えますけどこうも言えるはず
「「「神は絶対である」という命題は真偽不明である」という命題は真偽不明である」という命題は真偽不明である
つまり「神は絶対である」という命題は真偽不明であるとは言えないということも言えないとも言えるはずです
ややこしい上に不毛な感じがしますね
いくらでも繋げられますから結局真偽不明って言えるのか言えないのかどっちつかずになってしまいます
今質問したいのは「神は絶対である」という命題ですよね
だからこの命題の自己言及命題を考えるのは質問の趣旨からはずれているはず
実質的に「神は絶対である」という命題は正しいとも間違ってるとも我々には言えない
bragelloneさんも言えないですよね?想定することはしても真偽の判断はできないですよね?
なら「神は絶対である」という命題のみを考えれば真偽不明であるということで合意できると思うのですが
どうでしょうか
>それゆえ 《絶対 または 無限》として想定じょう 定義するわけ
>ですし そのほかには 規定しようがない。・・・のでは?
規定しようがない理由が示されてないように見えます
「神は絶対である」という命題が真偽不明であるとは言えないからといって
「神は絶対である」という命題が正しいと言ってしまうのは言い過ぎじゃないでしょうか
bragelloneさんは《絶対 または 無限》として想定上、定義をすると言っていますね
これってトートロジーのことだと思うんですよ
つまり「神が絶対ならば神は絶対である」という類のものです
「神が絶対である」と想定して「神は絶対である」と定義してるから
「神は絶対である」としか規定のしようがないというわけですね
このトートロジーは正しいですが、その正しさは「神は絶対である」という命題の正しさではないでしょう
私は「神は絶対である」という命題そのものについて回答していますから
「神は絶対である」という命題のトートロジーについて返答するのはコミュニケーションのキャッチボールになっていないと思います
ご回答をありがとうございます。
☆☆ >《真偽が不明か明かが 不明である》のではないですか?
★ 言い換えれば「「神は絶対である」という命題は真偽不明である」
という命題は真偽不明であるってことですね
☆ いいえ。《神は絶対である》は いきなり命題のかたちで出して
いますが たとえば《人知を超えた何ものか》のことを神と言うのだ
としますと それは 想定じょう《絶対》のことだという仮説と推論
とをすでに前提しているということです。
想定ないし仮説じたいを 《真偽不明かどうか》を詮索するのは お
かしいはずです。
さらに言いかえるなら 《絶対 ないし 無限》というものが 《経
験事象としての〈有る無い〉を超えており また 因果関係から自由
である》と定義づけることが出来るということにもなっています。
経験合理性にもとづき その真偽を人間が判断するには 基本的にそ
の対象ではないということです。経験事象を超えているのですから。
人間の判断する《真偽》というのは 相対的な真実であったりその真
実が成り立たないと認識したりするだけのものです。
この相対性を超えているのですから ふつうの――経験合理的な――
真偽判定を 絶対なる神は とうぜん超えています。
早い話が 人間が 神を讃えようとののしってやろうと 神は 痛く
も痒くも無いでしょうし 神は有ると言おうと コノヤロー 有るわ
けないだろうと叫ぼうと 神にとっては 屁でもありません。
《絶対》とは そういうものでしょう。
★ 結局 真偽不明って言えるのか言えないのかどっちつかずになっ
てしまいます
☆ とは成りません。
★ 実質的に「神は絶対である」という命題は正しいとも間違ってる
とも我々には言えない
☆ 《想定 そして 作業仮説》から始めているということ。後出し
ジャンケンみたいになりましたが どうかこのカラクリをお認めにな
ってくださいませ。
☆☆ >それゆえ 《絶対 または 無限》として想定じょう 定義
するわけですし そのほかには 規定しようがない。
★ 規定しようがない理由が示されてないように見えます
☆ 《相対に対する 絶対》を出しているからには ほかに――絶対
性に 二つも三つも別のものが存在するとは考えられませんから――
規定するすべは ないものと思われます。
つづく

No.4
- 回答日時:
ひとは(信)によって、(伸)があるようです。
(申示)は下されるものなのでしょうか、奏上されるものなのでしょうか。
ご回答をありがとうございます。
★ ひとは(信)によって、(伸)があるようです。
☆ 《信じる》が成ったときには 《心の明け》が成ると思います。
心が 閉じられていない状態です。
そこから ヒラメキが得られたり あるいは 良心のハタラキが―
―ヤマシサ反応などとして――起きたりするのだと見ます。
(ヤマシサ反応などは 自然本性として生まれつきそなわっている
と見られますが それは 赤子からの聖なる甘えといったかたちで
《信じる》が成り立っていることとつながっていると捉えます)。
これらの《効用》を 《伸》と呼ぶか。――必ずしもぴったりだと
も――正直に申せば――思われないようなのですが 矛盾するわけ
ではないのでしょう。
★ (申示)は下されるものなのでしょうか、奏上されるものなので
しょうか。
☆ (申示)は 《示申 つまり 神》のことでしょうか?
それが 《下される・奏上される》というのが よく分からないの
ですが?
No.3
- 回答日時:
>そういう命題を想定するほかには ないですよね? という含みをもっての問いです。
そもそもが真偽不明ですから「神は絶対ではない」と言っても
間違いだとは言えないじゃないですか
だから絶対であると想定するほかないということもないんじゃないですかね
ご回答をありがとうございます。
★ そもそもが真偽不明です
☆ というよりも 《不明 または 知り得ない》ということが確定
したわけではないはずです。
こまかいことを言いますが 《真偽が不明か明かが 不明である》の
ではないですか?
神が何かが分かったなら おそらくその人は 神の境地にひとしいの
では? だから 不明だと断定するかたちで 分かったということに
もならないはず・・・です。
それゆえ 《絶対 または 無限》として想定じょう 定義するわけ
ですし そのほかには 規定しようがない。・・・のでは?
★ 「神は絶対ではない」と言っても 間違いだとは言えないじゃな
いですか
☆ おそらくその場合の神は ヤマツミ(山つ霊)やワタツミ(海つ
霊)であるとか 土地の神だとかヘッヒ(竈ッ霊→ へっつい)だと
かの広く自然神であり 絶対なる神の分身のことを言うのでは?
★☆ だから絶対であると想定するほかないということ
☆ になるんぢゃないですかね。
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いて それが出れば 一件落着なんです。
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です。
でも この仮説を〔も〕みとめない向きがあるわけです。それゆえ問
うています。