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 岩倉遣外使節団が1872年にサンフランシスコで撮影した有名な写真がありますよね。(木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通が写っているもの。)そこでは岩倉だけが着物にちょんまげで、他の4人は洋服姿で断髪(現在の七三分けに近い)です。

 なぜ岩倉だけがちょんまげと着物を着用していたのかの理由があるなら教えてください。明治の時代に入り、徳川時代の悪習のようなちょんまげ・着物を捨て去るのが自然なような気がしますが、なぜにこの格好で洋行したのかが不思議です。公家出身というプライド(武士のちょんまげではなく、頭上一髻に近いタイプのまげをつけて朝廷を守ってきた公家であるというプライド)からなのでしょうか。どうぞ教えてください。

 岩倉は元・公武合体推進派だったので、このメンバーの中では微妙な立場のようですね。見る人によって悪役やベビーフェースに見えたり…。

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A 回答 (2件)

この前の「その時歴史は動いた」でやってました!



それによると、木戸らは、西欧に蔑まれたちょんまげを残したままでは、欧米列強のような近代国家を建設することが出来ないと考えて、ちょんまげを切り落とす「断髪」を進めました。

一方、当時の日本では、断髪のせいで、一揆や離婚がたびたび起こっていたようです。岩倉も、ちょんまげは日本人にとっては魂も同然というような考えから、木戸らの急進的な改革に反対していました。
岩倉は、西洋の科学や文明は早くから優れたものだと評価したようですが、文化面に関しては日本の伝統文化の優秀さを強調していたようです。そのようなことからも、日本の魂・ちょんまげにはかなり固執していたみたいです。ですので、使節団として派遣された時も一人和装で行ったようです。

その時日本の使節団は一見歓迎されたように思われました。でもそれは、岩倉の事を珍しがってのこと。ほぼ見世物状態だったようです。そんなような事を息子らに告げられ、ついに断髪の決意をしたようです。

岩倉は、「自分が日本の全権大使だったことから、日本全体が古い考えに固執した、後進国であると思われる=国として対等に見てもらえない。」そう考えて、ちょんまげを落としたんじゃないかな~と勝手に解釈しました(^^)

一応↓に、番組のURL載せておきます。

参考URL:http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_syokai.ht …
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この回答へのお礼

 jacksparowさん、kamieroさん、98Kinさん、ご回答ありがとうございます。いつものように「質問する」を1回クリックしただけなのに、同じ質問が2つも行ってびっくりしてしまいましたが、ご回答が寄せられ感謝しております。

 私も、NHK「その時歴史は動いた」を見ました。いつもはトリビアを見ているのですが、この日は裏のNHKを見ました。岩倉の公家としてのプライドだったのですね! 一言ではうまく言えないですけど。

お礼日時:2004/10/26 11:26

島津久光や岩倉具視は、こだわりでちょんまげを結いつづけたのではないでしょうか。



ちなみに岩倉はアメリカに留学していた息子に言われてシカゴでちょんまげを落として服装も洋装にしたようですが。
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Q木戸孝允と大久保利通は

どうして不仲になったのでしょうか?
共に遣欧使節団に加わり欧米を回っているうちに「口も利かぬほど」
険悪な仲になったと言われていますが、具体的にどのようなことが原因で、どういう経緯でその様なことになったのでしょうか?
教えてください。

Aベストアンサー

この2人は西郷隆盛の両腕というべき立場だったが、西郷大久保VS木戸伊藤博文に分かれて争ったみたいな形になった。互いにけん制しあっただけで露骨に争ったわけでもない。
木戸は桂小五郎と呼ばれた幕末期の京都での反政府活動が有名です。京都で蜂起しようとした長州軍は敗走し「長州征伐」まで行われたが京都に潜伏し活動続けた。かくまった芸妓がのちの奥さんです。

よく言われるのは大久保は士族の特権排除志向で明治維新の成果は人事に反映させるべきという立場らしいことです。
全国から人材登用したという言い方がある(別の面からでは権力ふるい独裁者になったと批判がある) 明治11年暗殺される。
彼が生きているうちは薩長閥がはびこることはなかったが死後綱紀緩み官僚は私益の確保に向かい現在に連なる。官僚連中は口先では絶対にそういわないが(^^)
講談社学術文庫「大久保利通」

木戸は近代国家の制度の確立に熱上げた。断髪や議会制度、憲法など(当時の制約はあるが)アジアの他の国と比べれば進んだ仕組みです。木戸は明治10年西南戦争のさなか病死するが伊藤などが跡を継ぎ薩長同盟政治復活させた(いまも続く!)
岩倉訪欧団の帰国後征韓論で揺れる。渡欧中重要な方針変更しない約束は反故にされ西郷板垣大隈と大久保木戸伊藤は対立する。大久保が表、木戸や伊藤が支え薩長政治復活する。西郷が下野しおそらく木戸の意を受けた伊藤の暗躍で西郷大久保は離間する。
木戸の政治はともかく士族に特権与えて活用しようという後のトウ小平みたいなやり方です。利益得た人には天国だったでしょう。(敗戦でやっと華族士族廃止) 長生きする実務派が最終的には大きな影響持つのはスターリンやトウ小平でも経験します。
板垣も含め反政府側は結局は分散し全滅する。しかしそれは権力を監視する政党として緊張感持たせる一定の意義はあった(政党の腐敗言うなら官僚と軍も腐敗です)

この2人は西郷隆盛の両腕というべき立場だったが、西郷大久保VS木戸伊藤博文に分かれて争ったみたいな形になった。互いにけん制しあっただけで露骨に争ったわけでもない。
木戸は桂小五郎と呼ばれた幕末期の京都での反政府活動が有名です。京都で蜂起しようとした長州軍は敗走し「長州征伐」まで行われたが京都に潜伏し活動続けた。かくまった芸妓がのちの奥さんです。

よく言われるのは大久保は士族の特権排除志向で明治維新の成果は人事に反映させるべきという立場らしいことです。
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