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本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めること。
を含めた条件で和議が成立となってますけど、
和議って、お互い戦を止めるのが目的でするものだと思いますが、
どうしても納得がいかない点がありまして・・・。

現代風に言ってしまえば、
「攻めにきたけどこの城は落とせません(落とせても被害が甚大で元も子もない)
 お互い不毛な争いはやめて手打ちにしましょう
 とりあえず、近々もう一回ここ攻めにきますけど、その時また苦労させられるのは困るので、
 楽に落とせるようこういった条件をお願いしたいのですが」
ってことですよね。

こんなの承諾するって理解に苦しむのですが・・・
直接言わないまでも城の防御力を大幅に低下させる要求ってまた攻める気満々じゃないですか。
諸説ありますが、計算上兵糧は10万を1年近く食わせるほど備蓄・買い付けが行われており、
戦闘続行したとしても勝算は充分にあっただろうし、なんでですかね?

A 回答 (3件)

城攻めの名手であった秀吉が


有り余る金銀とすべての知恵を出して作ったのが
かつての大阪城。

難攻不落で、現在の軍隊でも地上戦力だけでは
易々と陥落させられない程の防御力があったと思います。
つまり、
大砲による攻撃でも、相当の攻撃をしないと潰せないと言う事。

実際のところ当時も、
力技を目的に大筒を利用したのではなく
夜間未明にもドカーンドカーンと打って
城内の連中を眠らせないようにするのが目的だったそう。
(現在の戦争でもこのような事を行っている)

戦術的に難攻不落でも孤立した城は戦略的には大失敗。
どれだけ備蓄があっても精神的疲弊を強要されたら人は衰弱死する。
幕府に反旗を翻したら、
豊臣子飼いの武将もそれに合流すると思っていたのが
フタをあけたらみんな知らん顔。
その時点で豊臣は、和睦を選択するしかなくなっていた。

ここで問題が。

戦争に備えて大阪城には関ケ原で負けた武将の手下(いわゆる浪人)が
大量に雇われていたのですが、
あくまでの戦時だけの「傭兵」でした。
彼らは戦争が終結すると「食っていけなくなる」んですよ。
だから、和睦には消極的だった。
どうせなら武士として華々しく散りたいと思っていた。
だから、和睦はしないんです。
主人に逆らってでもね。

淀君らはそれを知っていたので、機会を探していた。
そこに大筒の直撃弾があったので、これを理由に強引に和睦したんです。
「やっぱり女だから弱腰だ」みたいになったけど
実際は織田信長の血縁者ですよ、そんなチープな女ではなかったはずです。

和睦後、もう反旗はできないのは豊臣ブレーンは皆知っていた。
幕府も親戚筋となっていた豊臣を根絶やしにはしたくなかったはずです。
だから、防衛上譲歩できないはずの掘を埋め、
要員を住まわせられないように家屋も潰してケリをつけた。
これは、俗説のように幕府が騙したのではなく
双方の合意があって実行されたもののはずです。
豊臣が恭順の意として堀を埋めたんですよ。

でも、それでも大阪城に入り込んでいた浪人どもは死に場を求めた。
いずれ「お役御免」になって野垂れ死にすると悟ったのでしょう。
だから、堀を埋められた事に腹を立てたとして暴れ出した。
制御不能になった豊臣は、暴走する浪人どもに引きづられ再び戦争。
幕府も、これにはどうしようもなく
太平の世を乱す賊どもを「皆殺し」にする事とした。

労組がチカラ持ちすぎて暴れるので解体されたかつての国鉄と同じで、
暴走しだした下流層をマネジメントできなくなった組織は
潰れてしまう典型例です。
浅知恵しかない労働者がチカラ持つと組織を潰す例でもありますね。
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冬の陣の時は、大砲を使って、天守閣にまで弾を撃ち込んでます。


これで淀殿がバニくって、和議の流れに。
篭城戦だから、秀吉の北条氏・小田原城攻めのときのように、包囲する側が長期戦も辞せすと脅せば、早めの和議が賢明という判断でしょう。
秀頼たちがそのまま城に住んでよしなんて寛大な条件だったから、宝の持ち腐れだった外側の堀ぐらい好きにしろだったのでは。

外側の堀を埋めるのは、口実としては和議成立を庶民に知らしめるため。
大阪側としても、あまりにも広すぎて、そこまで兵を配置できない。で、防御力はそんなに落ちないだろうと。。そのあと、現場が条件に記されてないところまでどんどん埋めていった形。
 
 実戦派の武将たちは、これで次は篭城ではなく、野戦になるぞ、ぐらいかな。
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通説によれば


大筒(いわゆる大砲)を打ち込まれて、淀君のお付きの方々にも被害が生じて
身の危険を感じた淀君が、停戦を優先させたとのこと

また、現場の武将は歴戦の方々でも、秀頼や淀君の周囲には戦場の駈け引きなどを知らない文官出身者がほとんどだったとのこと

和議の条件に関して詳細に検討していなかった可能性はあります

また堀を埋めるとうの取り決めはあっても、どこからどこまでとか誰が実施するのか
などが決められて折らず、大阪方は自分達で適当に時間を掛けて行って合意を骨抜きに
と考えていた節があるが
その思惑に反して徳川方が一気に合意の範囲を越えて行ってしまった
とも言われています

この辺の話も史実の話なのか?後の脚色が加わったモノか?判然としませんが
まぁ指揮命令系統の確立した組織とそうじゃない組織との違いはあったのでしょうね
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