アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

哲学カテゴリの質問を見てみると、その質問内容は多岐にわたっています。メンタルヘルス、日常のふとした疑問、井戸端会議、社会問題、個人的な考や主張の是非を問うもの、自分の考えの布教、物理もどき、およそ7,8割は哲学ではないんじゃないかと思うくらい、多岐にわたった質問が哲学カテゴリになされていて、非常に見難くなっています。行き場のない質問がここに不法投棄されていっているようで、とても使いづらくなっていると感じています。そのことによって、哲学に関する質問を集めそれに回答するという本来の哲学カテゴリの機能が大きく阻害されていると思うのですが、どう思われますでしょうか。要するに、ここはかなり荒れていると思うのです(盛り上がっているのではなく)。哲学とは何かという定義(範疇)にも幾らか幅はあるにせよ、その幅を全く無視した質問と回答が入り乱れています。
このことに関して、ユーザーや運営の見解を聞いてみたいと思いました。このままでいいのか、それともこのままでは好ましくないのか。
よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • ここらへんで一旦、ご回答いただいた皆様に、お礼を申し上げたいと思います。ご回答ありがとうございました。現状を肯定できる方、現状の起こった理由を解説してくださった方、同じように考えられた方、いろいろとご意見いただけたことをありがたく思っています。カテゴリ自体の盛衰はあるかと思いますが、個人的には、また、様々な哲学知見が得られるようなカテゴリになって欲しいと思っています。そしてそれも、流れに任せたものとならざるを得ないかもしれませんが、一ユーザーとして見守りたいと思います。

      補足日時:2018/01/24 15:44
  • これにて質問を締め切らせていただきます。皆さまありがとうございました。

      補足日時:2018/01/29 21:46

A 回答 (31件中1~10件)

お礼ありがとうございます。


「哲学」、「哲学学」の違いについてですが、この様な分類は、哲学と言う言葉のニュアンスの幅広さを一定の線引きする為に使ったものです。(このような分類をしている人は、多数います)
一般的な教育として行われている哲学のほとんどは、「哲学学」と呼ぶのが適切だと思われます。
これは、過去の歴史としての、「哲学史」及び、「哲学者の分析」を主とするものであり、各論としては、「論理学」、「言語学」、「認識学」などを含むものです。 大枠としての命題設定は、「倫理学」を元として、演習などを行うカリキュラムが主となっている場合がほとんどでしょう。(大学や大学院などの学生が行っている研究は、これらに類します)
「哲学」は、哲学者個人の内的欲求により生まれる命題を、独自の理論により探究する行為とするのが、適切だと思われます。
「客観」と言う言葉は、この場合は、何の意味も持ちません。(いわゆる「客観」なるものが、無制限に成立するのかどうかが、「哲学的」命題となりますから、これを前提には出来ません)
いわゆる「形而上」の存在(又は概念)に関する命題は、いわゆる「客観」は、存在していません。
したがって、このような「形而上」の存在に関する命題に対しての探究に関する理論的枠組みは、基本的に哲学者が独自に組み立てる必要があります。
これは、哲学者本人も明確な理論的根拠を確信する事は、その論理的整合性だけでしか成しえません。
したがって、他者へ提示できる範囲は、その論理的整合性だけとなります。
論理的整合性のトレースに関しては、ある意味「形式科学」としての「論理学」を適用する事が可能ですから、これはある程度は他者でも確認可能なわけです。
いわゆる哲学的批判は、この論理的整合性の分析、用語の解釈などを主になされる事になります。(これは、「哲学学」の範疇に入るでしょう)
個人の「世界」認識は、個人の内的なものでしかありませんから、基本的に他者に全てを伝達する事は、原則的に不可能です。
これらは、「言語」に変換される事により、さらに伝達ロスを伴います。(これは、「言語」の冗長性の為に生ずる事です)
これらを可能な限り、排除する為に、一般的に「術語」と呼ぶ、専門用語を使用するわけですが、近代においては、「哲学」に対して、これを多用する事は、望ましくないと考えられ、専門用語は多用されなくなりました。
したがって、一般言語の冗長性を持ったまま、論理的整合性を求める場合が多くなってしまいます。
古典的な「術語」に関しては、十分に研究・検証されているものが多いですから、そのまま使用するのは、妥当とは言えます。
特定の用語に関する質問は、ある意味、哲学の本質的な問いと言えますから、これは妥当な質問です。(「客観」と言う、哲学的には大仰な表現では無く、「共通認識」を持つ為の問いと言えるでしょう)
私は、「哲学者」では無いので、「哲学者」の提示する命題を評価する事は、出来ません。
あくまで、「哲学者」が提示する命題に対する探究の論理的整合性を「哲学学」の立場から、検証、分析、明確化のお手伝いをする事しか出来ません。
したがって、そのような「哲学的」質問に対しては、不明確な点を整理、質問者への捕捉を求める回答しかしていません。
「哲学」、「哲学学」の解釈に対しては、個人的見解として、述べています。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

一定の線引きですか。仰っていることの意味は理解はできるのですが、その線引きは、どのような場面で必要とされるのでしょうか。
ある時代、ある所に生じた哲学について、それを生じた本人よりも深く理解し、またさらに進んだ哲学をひらく人がいるならば、新たな哲学を生じたその人も立派な哲学者と言えるでしょう。
哲学学によって喚起された哲学というのは大いにあり得る話です。哲学をすることと、自分の考えに執著することはまるで違うのではないでしょうか。自分発信であることにこだわる人の見解に限って、その自分と主張するものがありきたりであることがよくあります。

私の言った客観とは立場のことであり、論理や術語の用のことではありません。この客観というものの意味は、他の立場に立つことを得て初めて知ることができます。これを知らない人は、何か(物事、事象、他者など)に正直に相対したことがないのだと考えられます。対象に対して斜に構えたり、また自分の見解に囚われていたりすると、客観することは難しいでしょう。

哲学者個人の内的欲求により生まれる命題というものが普遍・人類的なものにまで到達しており(つまりそれが個人の内的欲求であることを超えていて)、かつそれを今までで誰もしたことのない切り口や思考のプロセスによって、一定の解を導いたときに、独自の哲学は生まれるのだと思います。

凡庸なものを独自であるとは、私は言えません。独自性の生まれる前提として、その対象に真摯に対峙するということがまず必要でしょう。そうして初めて、その人らしさ(独自性)というものが発揮され得るからです。

論理性や術語と言語の冗長性について。
言葉は伝わればよいのであり、したがって平易で簡潔な物言いが望ましいとは思います。哲学もそうあるに越したことはないが、複雑であったり難しい部分も出てくることもあるでしょう。その時は、その個所を入念に解説したり、新たな概念を導入して言いたいことが伝わるようにする必要があると思います。

お礼日時:2018/01/21 20:09

きょうは 昼過ぎから PCの前に坐っていました。




№29お礼欄のお考えは むつかしいですね その志向するところ
の問題は何か? として。


№30お礼欄とも合わせて 感想になりますが:

何が何でも自己表現だから 受け容れよとは言いません。それは
相手もこちらも人間として お互い社会やこの質疑応答の場に自由
に参加できるという前提だけを 無条件に受け容れよということで
すから。


《客観》問題は 軽く受け取るなら 《人びとよ つねにおのれの
自己表現を何度も見直せ 重ねて考えつづけよ》ということになる
かと思われます。

主観は その普遍的な認識を得るには 限界があり およそ常にそ
れは 部分観にとどまる。このことを 自覚しつつ 思索には研鑽
を積みなさい。
――こういった注意書きであることは すでにみんなに伝わってい
ることでしょう。(学問の基礎であり 基本の行き方であるはずで
す)。


そのほかに 問い求めるものが なおあるはずだ。人びとから見放
され歴史の中に埋もれた哲学が あるのではないか? とおっしゃ
ってますか?

主体性とともに:
★ 視座(=自己)
☆ の問題が あまり問われて来ていないのではないかと。


しばらくこの問題については 寝かしておいて考えねばならないか
も知れません。問題の提起を 問題意識の段階から 捉えることに
なるのか。ちょっとしたミステリーですね。(名探偵ポワロを生ん
だアガサ・クリスティーのファンですので こういった言い方にな
ります)。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

普通の人々の気には止まりにくいが、れっきとした哲学知見が脈々と受け継がれているのではないか?と思っており、それを知りたいなと。歴史という研磨(批判)に耐えて輝く知見が結構ある気がするのですが、私はそれを知らなさすぎる気がします。
ならば怠けずに本を読めという事なのかもしれません。

視座の内についての問題は色々と試行錯誤があると思います。また、何かの質問で議題に上がることもあるかと思います。その時には、また良ければ宜しくお願いします。

お礼日時:2018/01/26 20:15

芸術ないし美学は 人それぞれだとやはり思われ 議論は あまり


進まないのではないかと思います。

★(№28お礼欄) ゲルニカが美しいかと問われたら、ゲルニカ
は美しさを表現しようとしたものではないと私も思います。むしろ
戦争の醜さや残酷さを表現したものと思います。白黒で描かれてい
ることにも意味があるように感じます。
☆ このコメントに対して わたしからはひと言です。

絵画は 基本として美しさによって 作家本人も鑑賞する人びとも
おのおの《われがわれなり》というわれに還ることを目指している
ものと捉えます。人生の長い道程の中でのそれぞれ一時点であり一
齣を成しているのではないかと。


もし:
★ むしろ戦争の醜さや残酷さを表現したもの
☆ であって その方面のこと(問題)を伝えようとしているとし
ても たとえ部分的にでも美としてうったえるところをつうじて
その追究の姿を表わすのではないかと。


事件の覚え描きとしても もちろん絵で表現してよいわけですが
その場合は――美とは別の行き方になるなら―― 芸術・美術とは
別のジャンルをかたちづくることになるのではないか。とは思いま
す。

言うなれば ルポルタージュ絵画といったジャンルですね。必ずし
も美を問わない。





あと いただいたほかのコメントについては 受け留めました。留
保しつつ すすみます。だいたい そういうことであろうなぁとい
う受け留めです。


★ 善
☆ に――真や美によりも――焦点をあてておられる。ちょっと引
っ掛かりましたが まだ特にこちらのコメントはありません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

あら、リアルタイムのご返信ですね^^

美についての位置づけについては、仰るところのものもその一つでよいと思います。それを論理的にどうこう言うことは私にはできませんが、共感できます。

哲学の在り方と言うと、哲学を縛るように感じられるかもしれませんが、質問文にもある通り、このカテの現状が奔放に過ぎる事で、何か価値あるものが隠されて行っているように思われたのです。
bragelloneさんからは、生きることとしての哲学ということで、一応すべてのQAは哲学としていったん受け入れるというお考えであることは伝わりました。それも一つかと思います。
また、私の、それは哲学じゃないんじゃないの?という疑問に対して多くの回答を得ることができ、ある程度満足しております。

お礼日時:2018/01/24 15:37

《客観》をめぐってです。



★(№27お礼欄) ここで、客観とは何かがまだはっきりと分からない
としても、もしこの〔患者を前にした〕医師が客観性を失って仕舞えば、
この医師は医師たる処置をとる事ができないのは容易に想像できるでしょ
う。
客観とはそう言うものではないでしょうか。これが無ければ始まらないと
言うものなのです。
☆ 前回(№28) 真善美といったふるい命題を持ち出しました。真理
というからには すでに絶対性の領域・つまり 神論の問題に足を踏み入
れていて そういった形而上学におけるような意味での《真善美の一体な
る客観》の問題になるかも知れないと。

これは 真善美に向かう人の姿勢や態度として 《主体性》問題になるか
と。




☆☆(回答№26) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 客観
 ☆ は 理念(理想概念)としての目標のようなものではないのでしょ
うか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ という場合は 客観を 経験合理性にもとづくあらゆる認識(その可
能性)として軽くあつかったかたちです。

そのときには 主体性についても 哲学ないしあくまで経験科学としての
姿勢を言うことになるかと。



言いかえると 次のように《哲学ないし経験科学の限界性》を説くのは
おっしゃるように《主体性にとっての真善美なるナゾの場に向き合う》
客観ではなく 認識論における客観の問題に限られます。:

☆☆(同上〕~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
理論や評論あるいは施策の議論については あくまで経験合理性――自
同律や因果関係――にもとづくよりほかに 共通の理解は得られないと
思われます。

経験合理性にかなった理論や政策は 同時に複数のものがあり得ると考
えます。(因果関係のすべてが――過去・現在にわたって・そして未来
については精確な予測において――知られていない限り 人間の思索は
つねに 部分観であることを免れませんので 解は複数出され得ます)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ふつう一般には こういった限界性のある経験世界についての議論
で済んでいるのですが。



つまり 次の議論も 相対性の世界に限れば 適用され得ます。:
☆☆(同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 自分の、或いは他人の思想乃至哲学に対し、客観的である事は空
 想でもなんでもなく、実際的な態度としてあるのです。
 ☆ 信念・信条として立派な態度だと思います。そして 実際には上
 に述べましたとおり 実現がむつかしい。と思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ ここからどういう方向を目指しておられるのか。お応えをうかがっ
てから 考えたいと思います。




   *



・ 真理:絶対性
・ 真実:相対性・・・主観真実

☆ 真理を あまり客観真理・真理客観とは言わないと思います。

・ 事実:相対世界における客観性(あらゆるものごとの認識可能性)

☆ この経験事実についての客観を――それは あくまで誰か人間の主
観によって認識されたに過ぎないのですが それでも―― 客観真理だ
とか 単純に真理だとかとも呼ぶ場合があるようです。ややこしいです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

No.25のお礼にも一部記したのですが、客観をおろそかにして主観に偏りすぎる傾向があるのではないかというのが、一つの問題提起です。そもそも、頼りにしている主観とはいったい何なのか、そのことについての認識はあるのだろうかと問うてみたいと思います。
自分で考えたことを金科玉条の誇りとしても、提出された哲学に独自性がないなら、それは凡庸な考えであると私は見ます。むしろ、世の学者たちというのはいかに自分の偏見や執見を取り除くかに腐心しており、他の考えを理解することに努め、客観的な知識の集積を是とし、人類の営み(=英知)に貢献しているのに、そのことをわずかも顧みることなく、むしろ軽んじて、一方では自分で考えたという理由だけで自己の見解に執著する様は目に良いものではとてもない。

人間による観察が部分観であることは特に問題とはしていません。客観できる範囲はその対象に規定されると考えられるのであり、ある患者ならある患者とその関係を認める対象が観察の範囲となります。また、例えば世界全体を観察しようと思うなら、客観的態度を持った一つの視座(=自己)と世界の関係がそこに現れてくるでしょう。それを全体観というのかどうかは今は判じれません。これは視座の内部についての言及が求められた場合に、内部など無いと言ってもその意味を理解されることが少ないからです。説得的な説明をすることができません。
さらに、神や包括者という視座が部分観ではなく全体観であるという想定についても、今は特に議論する必要はないと思っています。

☆ ここからどういう方向を目指しておられるのか。お応えをうかがっ
てから 考えたいと思います。

自分で考えさえすれば哲学である、という謬見のもとに、蔑ろにされた哲学知見をもっと知りたいと思っています。

お礼日時:2018/01/24 15:17

説明をありがとうございます。



わたしは 芸術と科学とを――ひとの自己表現としては 基本的に同じである
と見ますが 実際の鑑賞や評価としては―― 分けて捉えます。

☆☆(回答№26) 芸術作品については 美学ないし審美眼の問題であるか
らには その感性のあり方が 人によってさまざまなのであり 客観的評価は
基本的に 無理だと思います。

☆ それに たとえば小説は 現実を超えて想像力を発揮しそのような仮想の
世界を描くことによっても 回り回って人間のこころの現実性を問い求め描き
出そうとするという行き方を採っています。

そこに現われているように 一般にも芸術は 経験合理性の物指しを取っ払っ
てでも 自己表現をおこないます。



★(№27お礼欄) 例えばゲルニカなど、ピカソの発明した空間操作による
表現と、歴史的惨事を画壇に刻み込んだと言う意味では、芸術としての価値も
意味も高いものがあるでしょう。
☆ 《空間操作》が 現実を超えた想像の世界ですね。

そして 《歴史的惨事》については それ自体としては 科学が扱います。歴
史学や政治学といった応用哲学と 論理と倫理で問題を思弁的にでも問い求め
尽くそうとする哲学プロパーとの問題です。



★ 歴史的惨事を画壇に刻み込んだと言う意味
☆ については わたしは 芸術とは別だと考えます。やはりそのゲルニカ事
件を 人びとよ 忘れるな 哲学よ よく考えよとうったえているとは思いま
すが 美術としての鑑賞・評価は 別だと見ています。

幾何学的な線や空間などが 案外きれいに描かれているとは思いますが 全体
として 絵は うつくしいとは思いません。ひとえに グロテスクだと感じま
す。

芸術鑑賞は 人それぞれだと思います。




★ ・・・何故なら絵の素養を修めていないのが、普通だからです。逆に言え
ば、2、3年でも真剣に絵を描いたなら、誰でもゲルニカくらいの顕著な例なら
その真偽の判別はつくという事です。
☆ これは 見解の相違になります。絵を見て うつくしいか否かです。わた
しの鑑賞態度は。美醜は 真偽とは 別だと捉えます。

(こちらの見解については 絵の創作術を慮って味わえという見方を採らない
という意味です。そういう見方があるとするなら それは おまけとしての鑑
賞であるか または 画家や画壇の押しつけに近いと感じます)。



(美が 真偽とかかわる場合があるかも知れません。それは いわゆる真善美
という命題をめぐって それらが一体であるという見方によるならば 真偽の
真を 美や善と同じひとつのみなもととしての真理のことだと見た場合です。

ただし その次元にまで到るなら すでにやはり哲学ないし形而上学の領域に
入っているかと思います。早い話が 神論であり 芸術鑑賞であることを超え
ているものと思います。



真偽あるいは客観とおっしゃる場合 やはりその人の《主体性》としての姿勢
や態度のことだとすれば そのとき主体性は確かに 一方では 哲学ないし神
学における真善美の問題に向かっていますし 他方では 芸術鑑賞における美
醜や〔真偽というよりも人間の真実性なのですが いわゆる〕現実性の問題に
も向き合っています。

でも そのふたつの方面というのは 実際には分けて扱うのではないかと考え
ます)。


(いやいや まだ考え足りないですね。
おっしゃるところの《真偽を見究める客観》の問題は 真善美をめぐる主体性
論として ひとまとまりとなって独自の場をかたちづくり それについての哲
学理論が形成されるかとも思います。(これは考えたことがありますので))。



科学ないし客観の問題ですが 分けて投稿します。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ゲルニカが美しいかと問われたら、ゲルニカは美しさを表現しようとしたものではないと私も思います。むしろ戦争の醜さや残酷さを表現したものと思います。白黒で描かれていることにも意味があるように感じます。

古代ギリシャにおいては理想の美というものが追及され、自然造形からの抽出や模倣、様々な彫刻、建築などによってそれらは表されてきました。それらは神々の持つものとして位置づけられ、超人間的なものであったと思われます。
しかしながら、人間的な美しさというものがここに存在し、それは何かと問う、もう一つの美についての探求があり、それについて端的に言えば、心の美しさとか、行為の美しさとか、又は道徳や倫理であると言う人もおれば、そうではなくもっと素朴なものだと言う人がいたりします。美しい音楽とか、絵画というものは感覚器官に由来する感受性によるものですが、人間性としての美しさはこれは、そうではありません。盲や聾の人が人間的な美しさを知れないということはないでしょう。そしてこれは形而上のものではなく、しかし生々しい現実のものでもありません。人間的な美というものは、善に近しいものということになるのかもしれません。

人間個人にはそれぞれ、偏りとは言わないまでも、傾向というものが存在していると思います。創作物の真贋を判じるときに、どうしてもその傾向に寄ってしまうのは否めないことでしょう。そしてその傾向は、いわばその人にとっての得意分野と盲点とを同時に現象するでしょう。したがって、この傾向を客観的に認識することは、より正しい真贋の判断材料を得ることになるのだと私は考えます。これは難しいことです。得意分野がある故に人はその対象に対して探求の心を起こす動機を確保しているとも見れるからです。しかしその得意とするところの味方によってかえって盲点を生じているとはなかなか思い至らない。それで、客観的に見ることの意義が推奨されるのです。見えなかった面が見えてくることは、一つの面を掘り下げて見ることよりも、新鮮で意味あることであることもかなり多いでしょう。

お礼日時:2018/01/24 14:39

説明をありがとうございます。

ですが ちょっと分からなくなりました。

では その客観であるか無いかを決める判定基準は どういう内容にな
りますか? おしえて欲しいと思います。


★(№26お礼欄) 結局、世の中は玉石混交であり、・・・しかしそ
の上でも、真を求める人は真なるものを見極めなければならないと言う
要請を、自己の内側に持っているのです。
☆ そのときの《真贋》を見極めるときの物指しは 何でしょう?

贋作を見抜くのではなく よい作品・立派なものであるという判定の基
準は どうなるのでしょう?

ピカソのゲルニカは 客観的に真なる芸術ですか?



★ 哲学・・・それが学であるからには、せめてその知的探究心にはあ
る程度の純度が求められても良いのではないか。
★ その知的探究心が正しく機能するための態度、姿勢の事を言ってい
るのであり、正しく判じる為の立場の事を言っているのです。
☆ 《純度》を具体的にどのような《姿勢・立ち場》において――人び
との共通に理解しうる内容であるとして――決めることが出来ますか?



★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
概念世界や形而上世界についてもこの立場は適用されるのであり、その
探究する対象に正しく向かい合ってこそ、見出されるものがあり、そう
言うものが知見と呼ぶに相応しいのでは無いかと思います。

その立場(客観)であって、主体的に探究すると言う事です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《探究する対象に正しく向かい合う主体性》でしょうか。けれども
その内容は 人それぞれである部分があって その部分のほうが 最終
的な判断にあたっては むしろ決定的な役割りを演じてしまう・・・の
ではないかと思うのです。

人それぞれが 主体的に探究して到達した客観的な評価だと言いつつ
その結果は 違う内容にならないとも限りません。

要するに 具体的にどの哲学が 客観的にすぐれているとお考えなので
しょう?

すごく知りたいと思うようになっています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

例えばゲルニカなど、ピカソの発明した空間操作による表現と、歴史的惨事を画壇に刻み込んだと言う意味では、芸術としての価値も意味も高いものがあるでしょう。
しかし、この様に説明しても、普通の人々は、空間操作とはなんじゃいな?となり、ピカソの功績を直に知ることはできないのです。何故なら絵の素養を修めていないのが、普通だからです。逆に言えば、2、3年でも真剣に絵を描いたなら、誰でもゲルニカくらいの顕著な例ならその真偽の判別はつくという事です。

哲学においても同じ事が言えると思います。ここまで言っておきながら何ですが、私は哲学の素養を修めていません(哲学の勉強をしていない)ので、具体的にどの哲学が素晴らしいのかと問われたなら、ソクラテスぐらいしか思い浮かびません。他にはウィトゲンシュタイン の論考など読みましたが、語り得ないものについては沈黙せねばならない、との言も、印象は深いが哲学としてどうかと言うと、ソクラテスの方が立派だと思います。しかし、ソクラテス以外にも私の知らない立派な哲学はあるだろうと思っています。それを知りたいとも思っています。

何によって立派だと判断するのか、それは、真っ当な人間性でもって受け止められる言葉がそこにあるか、と言う事になります。真っ当な人間性とは何かと問われたならば、凡ゆる偏見を押し退けて、そして残る何ものか、と言う事になります。何が偏見で何が偏見でないのかと言うと、ここに来て客観というものが出て来る。

客観であるか無いかを決める判定基準は、それが正しく知られたか、という事です。
正しく知るためにはその対象に正しく向かい合わなければなりません。それこそが偏見を取り除くという事なのです。
喩えば医師は患者に不用意に近づかない。
伝染病の恐れもあるからです。しかし決して患者を見捨てないでしょう。観察の後、立派な医師なら癒す術を見出すかもしれない。
ここで、客観とは何かがまだはっきりと分からないとしても、もしこの医師が客観性を失って仕舞えば、この医師は医師たる処置をとる事ができないのは容易に想像できるでしょう。
客観とはそう言うものではないでしょうか。これが無ければ始まらないと言うものなのです。
モノ自体は認識できないとか、現象だとか言う見方も、認識作用や見方そのものに対して客観的に向かいあおうとした結果生じた哲学的見解と言えるでしょう。

お礼日時:2018/01/24 01:10

★(№25お礼欄) 喩えば作品は、誰が作ったかではなく、その作品


そのものについて評価されるべきでしょう。それ故に無銘の逸品と言う
ものも世には存在することになります。
☆ この論理は――大幅に出しゃばりますが―― 或る種の自己欺瞞が
あります。

そういうことを言わなければならないとしたら 有銘ないし有名の作者
の作品は その作者が誰であるかに関係なく みなさん 評価してくだ
さいとわざわざ言わなければならなくなります。

つまり つねに《客観要請》の注意書きを添えて扱わなければ 人びと
一般に共通の理解が得られる評価をくだすことはむつかしい・・・と言
っていることになります。

言いかえると いづれにしても 《客観的な評価》は 基本的に望み薄
であるという大前提を じつは 置いているご議論になっているのでは
ないでしょうか?

それでも そのような理想の評価の仕方を 実際には 求めておられま
す。

(定評のある作品については その定評についての《客観性》は 証明
しなくても成り立つと言えますか? わたしは 『ゲルニカ』は ガラ
クタだと見ます)。





★ 客観
☆ は 理念(理想概念)としての目標のようなものではないのでしょ
うか?



そして 芸術作品については 美学ないし審美眼の問題であるからには
その感性のあり方が 人によってさまざまなのであり 客観的評価は基
本的に 無理だと思います。


理論や評論あるいは施策の議論については あくまで経験合理性――自
同律や因果関係――にもとづくよりほかに 共通の理解は得られないと
思われます。

経験合理性にかなった理論や政策は 同時に複数のものがあり得ると考
えます。(因果関係のすべてが――過去・現在にわたって・そして未来
については精確な予測において――知られていない限り 人間の思索は
つねに 部分観であることを免れませんので 解は複数出され得ます)。




★ 自分の、或いは他人の思想乃至哲学に対し、客観的である事は空想
でもなんでもなく、実際的な態度としてあるのです。
☆ 信念・信条として立派な態度だと思います。そして 実際には上に
述べましたとおり 実現がむつかしい。と思います。




★ 作品が、制作者の希望や願望とは別に客観的な評価を得るべきと言
うのでなければ、その正当性を担保するものが何も無くなってしまう。
☆ この願いと思いを――かたちのない希望において―― 共有します。



言わずもがなであったかも知れませんが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

結局、世の中は玉石混交であり、駄作、偽作、佳作、名作、凡作、贋作などが入り乱れているのが実際でしょう。その中で、各自が自らの眼力でその真贋を見極めなければならないと言う状況に私達は置かれています。ある人は偽物を掴まされ、ある人は真作を発見する。それは各自が自分で為した事なのであり、誰に責を問うことも出来ません。それに、私はこの作品が好きだとか嫌いだとかの評価軸や、それこそ感覚、人によって異なる良し悪しと言う評価軸も存在する事が世間においては認められています。しかしその上でも、真を求める人は真なるものを見極めなければならないと言う要請を、自己の内側に持っているのです。
哲学が何であるかは、人によってそれぞれでしょう。それこそ種類や幅のある事です。しかし、それが学であるからには、せめてその知的探究心にはある程度の純度が求められても良いのではないか。私の言う客観とは認識論における客観の事を言うのではなく、その知的探究心が正しく機能するための態度、姿勢の事を言っているのであり、正しく判じる為の立場の事を言っているのです。

概念世界や形而上世界についてもこの立場は適用されるのであり、その探究する対象に正しく向かい合ってこそ、見出されるものがあり、そう言うものが知見と呼ぶに相応しいのでは無いかと思います。

その立場(客観)であって、主体的に探究すると言う事です。

お礼日時:2018/01/22 20:56

お礼ありがとうございます。


客観を単純に、自己の内的な認識から独立した観点と言うならば、それは自己においては、認識論的には、単なる空想でしかありません。(あくまで、客観だと思われると言うだけの事です)
質問者が提示している命題に対する探究に対して、回答者が客観的に対応するとしたら、文字通り、質問者の立場で質問を考えなければいけないのでは無いでしょうか?
質問者が、客観的に自己の命題を探究すると言うのは、空想として行うのは可能ですが、完全には無理でしょう。
特に、形而上の命題に関しては、その対象が観察不能な形相を持たないものです。
このような命題に対して、客観性を質問者に求めるのは、本質的に無理だと思います。
確かに、同じような事を何回も提示する事は、無駄に思えるかもしれませんが、そこに回答者がきちんと、質問者から見て客観的な見解(あくまで、回答者の考える客観ですが)を述べていけば、多少なりとも、質問者の探求も進歩すると思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうではなくてですね、
喩えば作品は、誰が作ったかではなく、その作品そのものについて評価されるべきでしょう。それ故に無銘の逸品と言うものも世には存在することになります。
この度申し上げている客観も同じことです。自分の、或いは他人の思想乃至哲学に対し、客観的である事は空想でもなんでもなく、実際的な態度としてあるのです。

また、おっしゃる認識論というものにおいて、客観が空想でしか無いと言われているのは承知していますが、ともすればその考え自体が空論に過ぎないかもしれない。
もっと、そして敢えて少し哲学的な言い方をすれば、正しい判定の為には思想や哲学も、客体化されなければならないとしたならどうでしょうか。主体が無色である故に、客体の色を純粋に判じれると言うことです。(形而上のものをものとして扱って言うとしたら)
ただ、この(認める事が難しいかもしれない)見解も一例に過ぎないですが。

話を戻します。
もし、自分の考えだからと言う理由でそれが優れたように見えるのならば、彼には我の囚われにまつわって偏見と執見があると認められるでしょう。

また、仮に客観的な回答をしても聴く耳が持たれなければ無意味ですし、耳が痛い回答をする回答者をブロックする事も質問者には許されていますから、回答者の方にもこの意味で出来ることには限界が生じます。
自分の考えを知ってもらいたいとか、理解して欲しいとか、共感を集めたいとか、同意して欲しいとか言うのは、提出された哲学自体にとってはどうでも良い事です。
作品が、制作者の希望や願望とは別に客観的な評価を得るべきと言うのでなければ、その正当性を担保するものが何も無くなってしまう。

名誉が欲しいあまりにガラクタを指して芸術だと言い張るのは虚言であり、欲望に殉じて戯言を哲学と言い張るのも同じ事ではないでしょうか。

いただいたご回答に対して、今は一々のお礼を省略していますが、締め切る時に補足欄にてさせていただきますのでご了承下さい。

お礼日時:2018/01/22 02:59

哲学は人生観、世界観を追求するとか ほかの学問の追求しないことを追求する哲学の元だとか



広義には 漁師の哲学 教師の哲学 政治の哲学とか色々あるようですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

広義にも色々あるのは分かるのですが、それにしても、哲学カテの現状は哲学から逸脱しているものが多いように思います。
正直に言いまして、多くの方がそう感じるだろう、又は感じているだろうと思います。現状を肯定的に見る理由を色々と言う事はできても、これって哲学って言えるの?と言う気持ちは隠し切れないのではないでしょうか。

お礼日時:2018/01/21 22:11

お礼をありがとうございます。



★(№20お礼欄) 膝の痛みが哲学によって治るのなら、その質問の
意味もあろうかと思います。
★ 際限の無いガラクタ作りは表現の自由を行使しているとは言えない
のでは無いでしょうか。
☆ といった評価・判断も 基本としては 《ひとによる自己表現は例
外なくすべてが ともに生きることとしての哲学である》という大前提
をみとめあった上での自己表現なのだと考えます。

また 医学も 大きく哲学です。犯罪者の怪我や病気をも 無条件に文
句なしに 治療します。(存在ないしいのちのとうとび)。

同じように いやしくもわたしたちが《哲学の徒》であるなら 哲学以
前なる哲学をも――すでに自己の自由な表であるなら―― まづは排除
しないという姿勢が ふつうに自然なる心がけであるのではないでしょ
うか。

(そのあと特殊に サイコパスだったら どうするか? の問題がある
ようですが)。



★ ところで話は変わりますが。 / 理由の一つに、深い考えというもの
が潜在的に求められていて、様々な質問が哲学カテに流れ着いてくると
いうのはあるのかもしれません。
☆ お互い精進してまいりたいと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

犯罪者を治す医療ですか。考えさせられますね。
生きることとしての哲学と言うものを、どのようなものと考えれば良いかについて、理解が進みました。

お礼日時:2018/01/21 17:12
1  2  3  4 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す