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バッシングを公認されるような過失・落度のある相手は、どれだけ叩いても構わない。その際、相手がどうなるかは配慮しなくて構わない、死んでも構わない社会は正常といえますか?

A 回答 (5件)

不寛容な社会になっている。


ルソーのエミール、人間教育の原点は、人の痛みを感じ取れると言うこと。
そして、その感受性は、家庭で育まれる。
欲望展開社会、自我展開社会、の中で、産業ロボット化している両親の元で育つと、
仲間外れにならない為、条件反射で人をいじめ、相手の傷みを感じなくなっている。

本当の何かを掴んでいない人が多すぎ、自分のストレスを 相手にぶつけているだけなのに、
それに、自分自身が気づいていない。
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どれだけ叩いても構わないからバッシングを公認されたのでしょ?


その社会の人にとっては正常なんじゃないですか。
物事は相対的であって、絶対のものなんてないですよ。
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正常じゃない?


自分は嫌いだが、そういうの好きな人が一定数いるからなくならないわけで。
人の不幸は蜜の味っていうし、日本人的にも世界的にもね。
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>バッシングを公認されるような過失・落度のある相手は、どれだけ叩いても構わない。



意味不明。
そもそも、「バッシングを公認されるような過失・落度がある」という前提では、それが行われるのは正常なのではありませんか。
(私は、どのような過失・落度であっても、それを理由に「どれだけ叩いても構わない」とは思いませんが)


それに、現在、バッシングを「公認」している社会があるとも思えません。

想像上の事象や世界を語る事に意味があるとも思いません。
ここ(ニュース・時事問題 としての「メディア・マスコミ」で扱うべき事とも思えません)


「野放し」や「なかったこと」にしている国はあるらしいですが、それは「公認」とは違うと思います。
「バッシングを公認されるような過失・落度の」の回答画像2
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人治国家なら正常。

法治国家なら無法状態。
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