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関ヶ原で 小早川が石田三成を裏切らなければ
徳川家康は負けていた??

A 回答 (4件)

小早川の裏切りだけが目だってますが、西軍のほとんどが日和見でした。


決着が数時間、もしかすると数十分違うだけで、勝敗に影響はなかったでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2018/02/12 18:05

小早川は戦の途中で東軍につくことを決めたのではなく


戦の前から約束していたことなので、家康の勝利は
戦の前から決していたんです
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この回答へのお礼

そうだね。

お礼日時:2018/02/07 18:56

一説にはそう言われてますが決着がつくのが早まっただけです。

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この回答へのお礼

どちらにしろ負けていた。

お礼日時:2018/02/07 18:56

関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。

ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。
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この回答へのお礼

頭脳プレーて訳ですか。

お礼日時:2018/02/07 18:58

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