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昨日のテレビで疑問を感じました。
モンゴルが、がちがちに固められた博多を敢えて攻めたのはなぜでしょうか?
博多の防御力が高まっているということを察知していなかったのでしょうか?
詳しい方お願いします。

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A 回答 (6件)

元軍は山口県にも上陸しています。

萩市大井には「元軍の船の碇石」なるものが残されています。
下記の「弘安の役の戦闘経路」を参考に。http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3608/histo2 …
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ごめんなさい。


NO.4の訂正です。

壱岐じゃなくて隠岐の間違いです。
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>モンゴルが、がちがちに固められた博多を敢えて攻めたのはなぜでしょうか?


あくまで推論ですが、
船から大軍を上陸させる場合の条件として、
(1)数多くの船が入れる波の静かな大きな湾があること。
(2)上陸した兵士が速やかに移動できる地形であること
(3)上陸直後に敵軍と交戦できる平野があること
以上3点が必要だと思います。

(1)に関しては、船は横方向への移動ができないので、
空船を転回できるスペースが必要な為。
(2)に関しては、速やかに上陸を終えないと敵軍に
狙い撃ちにされてしまう為。
(3)に関しては、どんな大軍でも交戦するのが小部隊では、
まったく大軍の意味をなさない為。

日本で以上の3点をクリアできる湾があるのは、
(現在の地名で)博多、大阪、新潟、東京ぐらいじゃないでしょうか?
新潟に行くには補給地として壱岐や中国地方の攻略をしなければいけないし、
大阪、東京は論外。
そうなれば博多を攻める以外方法がなかったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
湾の形状まではさすがに私もほとんど知らないので、機会があったら実際に地図を見て検証してみようと思います。
同様の結論が得られのかも知れませんね。

お礼日時:2001/07/15 13:30

 予定としては東路軍と江南軍でニ正面作戦をする予定だったのが、江南軍で事故が起こり、手違いが生じた為に東路軍の短期突入と言うことになってしまったとのことです



 この件に付いては面白い記事がありましたので下のURLを参照ください。
 

参考URL:http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/smouko/mohon/mou …
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蒙古は日宋の親密さを断ちきりたからなのです。


そこで、高麗を使者にたてて日本と交渉させるんです。
成功すればそれでいいし、成功しなければやり方が悪いと、高麗をぎゅうぎゅういわせればいいわけですから。
文永3年(1266)にフビライが国書をしたためて、
高麗を使節にたてるのですが、高麗は、日本が要求を聞くはずがないとみている。
だから風浪の荒さを口実に使節を出さない。
それでフビライが激怒して、翌文永4年に再び強く督促する。
それで、文永5年1月、最初の使者潘阜がフビライの国書を奉じて初めて大宰府に来るわけです。
蒙古側は、当初、「徳化の名を得たい」つまり世界帝王のフビライが、日本に貢物を持ってきてもらいたい、
と下手に出ています。
言うことを聞かなければ、兵を用いるぞと脅しは見え見えですが、南宋問題を抱えているし、高麗も抑えこまねばならない。
まあ、実際のところは、日本が朝貢して、宋と手が切れてくれればいい、というところなんです。
だから辛抱強く前後6回にわたって使節を派遣してくる。
ところが、日本は「蒙古は征服民族だ」という認識なので、断固受け付けない。


 丁重と言いながらも、朝鮮半島を実質的に支配して、いつでも日本へ攻められるように、今の釜山付近に屯田兵を配置しているのです。5回目と6回目は*趙良弼という人が、フビライに志願して交渉の使節としてやってきます。
この人は50いくつかで、当時としては年寄りなのですが、元からきた使節の中では、もっとも和平交渉を念願にしていたようですね。
フビライに、自分が一命をかけて日本の使節を連れてくる。そのときに南朝鮮一帯に屯田兵を置いていると刺激する。だからこれを引きあげてくれと言っています。

一方、日本の外交権を形式的に握っていたのは、京都の
宮廷ですが、実際の戦闘過程に入ると、やはり力ですから、幕府が実質的に外交権を握ってしまうんですね。
文永の役が起こるまでは、幕府は一応朝廷をたてているんですが、朝廷はどうしていいかわからない。
そういうことで、元との対応は幕府となるのですが、その幕府の性格が武士の政権ですね。

つまり、武断政権が基本だということで、
結果的に文永の役を引き起こしたと、言えると思いますね。


中世の外交は、現在のように国際法に照らしてとか、
ある程度まで譲歩してとかじゃなく、売られた喧嘩は買おうという力と力になってしまうということなのですね。



         
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私も昨日の「歴史はその時動いた」を見ました。


でも、たしかモンゴルの二手に分かれた東路軍の方は、第2次攻撃では博多の防塁に驚いて博多湾沖まで撤退したはずです。逆に日本の兵がその場所までこっそり小船で近づき、船に乗船して攻撃し相当の被害を出したはずです。

そこで長崎の平戸沖まで撤退した東路軍は二手に分かれたもう一つの軍を待つんですが、大軍としてもう一度攻撃するはずがそんなこんなしているうちに台風の時期にきてしまい、「神風」でほとんどの船と兵を失ったというわけです。

この回答への補足

ありがとうございます。
モンゴル軍はチンギスの時はちゃんと事前の情報収集
をしていたと聞いていますが、
今回もそのようであったならば、おそらく博多に攻めると見せかけて他を攻めるなりしたと思われます。
今回はあまりに単純な情報収集不足と言えるでしょうか?
その点が確認したかった点です。
以上補足です。

補足日時:2001/07/12 17:27
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