例えばアインシュタインの脳
テレビではなんか切ってもらってたりしてました
まぁ、研究とかなんやらに使うのでしょうが
はっきりいって嫌でした

そーゆーのってなんか自然の法則っぽいこと(?)反してるようで嫌でした

土とゆーか、自然に還る
それが私の中で当たり前の法則なんでしょうが

ドナーとかもそうでしょうね
自分の臓器とか提供したり
私は絶対嫌です

私は私として
私は私の身体で、ちゃーんと自然に還りたいものです

日本の医学の先端技術による人体をぐちゃぐちゃ扱ったり
みなさんどう思います?

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A 回答 (20件中1~10件)

たとえば病院で亡くなった場合は家族に解剖をさせてほしいとお願いしてきます。

私の親が亡くなった時そうでした。その時に弟がはっきり断ったのを覚えています。わたしはしてもいいと思っていました。今後私の親の解剖の結果で救われる人が一人でも増えたらいいとおもったからです。考え方しだいではないでしょうか。
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弔うってのは、残された人が個人をしのぶものですよね。


だからなるだけ個人を陵辱するような司法解剖は望まないわけです。
しかし、嫌だといっても事件性があった場合は、法律により司法解剖されてしまう。

そのとき なるだけ元の形に戻すようにする。
そうしないと葬式のときに、残された人がよりいっそう悲しむから。


で、キリスト教ではイエスがまた来るって言ってこの世を去ったとなっており、イエスが到来したとき、死人を蘇らせるとしたので、火葬しないで土葬にするのだそうです。
しかし、土葬にしたところで腐敗しますよね。

ですが、中には死体が腐敗しないものもおり、その人はイエスが再来したとき、蘇り生きていたときと同じ姿のまま永遠に生き続けるとしたんです。

だから0歳で無くなったら0歳のまま、100歳で無くなったら100歳のまま永遠にその姿で。


キリスト教で福列ってのがあり、この認定基準は、何十年たっても死体が腐敗しないことが条件。
だから、死んで福列認定されるまで30年とかかかるんです。

ところで、実際死後腐敗しなかった人はいたのか?
ノー。

全員自然の法則にのっとり死体は腐敗しました。
エジプトでも死体保存技術を研究しミイラを作りましたが、外側が黄金で覆われているだけで、内部は乾燥していて形はあるが、水分が抜けているので、どう見ても今もって生きているって状態じゃあない。

キリスト教の場合も薬品を塗り、懸命に腐敗を止めようとしたのですが、いろいろやっても腐敗は続いていったんですね。
それで、どうしたかというと、蝋を表面に塗った。
蝋が着色され展示されている。
その工作された遺体を閲覧した人は「まるで生きているよう 眠っているだけのよう」と感じる。
そして「この人は死後肉体が腐敗しなかった人」だと勘違いする。

思うんですけど、もう死んでしまったから どう他人に遺体を利用され金儲けに使われようと、どうしようもないのですが、、、そういう工作を遺体にほどこすってことは故人を陵辱していることになりはしないか と。

まあ 生きている間も死んだ後も教会の所有物だ ってことらしいですが、、、、
物ですもんね 生きているときも物扱い。

そして、実際は腐敗しているってわかった後も、信者はその物をして妄想にふけって「自分も死後腐敗せず イエス様がきたとき蘇るんだもん」って楽しむ。
宗教ってほんと恐ろしいと思う。
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チベットでは鳥葬というのが行われているらしいです。


まず,死体を山頂に持っていきナタでばらばらに人体を切断し,
ハゲタカ(確か)が食べやすいようにするみたいです。
ハゲタカに食べられた肉体はきっと天に昇るイメージがあるのでしょう。
また,子供にもその人体切断などを見せ肉感で死について教えるのだろう。
ここまでしてくれれば自然に変えるという雰囲気は十分ではないでしょうか。
ただ,ここでは少しの親切心が人体切断になるわけです。
私はその写真とか見てグロイと思いましたが,荘厳な感じもちょびっとしました。
望めばドキュメントムービーも見れると思いますよ。きっと移植手術や解剖実習とは一味違う感覚があると思います。
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皆さんに関心の在る題材のようですので私も初めて二回目の投稿します。


#16 whitecafeさん、私は個人的にこの質問に関して自分の死後の事はどうでもいいと考えている人の多いのには正直驚いています、私もそう答えました。しかしながら、私が先の投稿で書いたように皆さんが他者の死に対面した時にどう行動するかが現実的な問題ですので、どの方も他者の死体を粗末に扱う事は無い筈と今でも信じております。
次に臓器移植の問題ですが、統計を見たわけではありませんが、移植賛成派はむしろ少数派だと思っておりました。
ニュースで見たのですが、最近でも2、3の例でほんとうは臓器提供賛成のはずの人が、ちょっとした記入ミスで臓器提供の手続きをなされなかった事を知りました、この事は法律の問題でもありますが必要以上に臓器提供手続きが慎重に行われている事を物語っております、したがってあなたの心配は現在の所杞憂だと思います。
いずれにしても、今後とも時間をかけて皆で考え続けなければいけない問題だと思います。
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私は臓器移植意志表示カードは持ってません。

そこには私の望む提供しないというチェックがあることは知っています。でもなんらかの形で書き換えられたり、もしくは取り替えられたり、偽造されたりするのではないか、と思ってしまうからです。一般に臓器移植は嫌ですという意見は少数派で、みなさん死体は物だから,もしくは死んだらただの物とかゴミだからとかで移植OK!というのは安易すぎません?しかしこれを見ていたら臓器移植拒否派の意志はあまり尊重されていないのかなーと思いました。マスコミもそうでしょう。以前回りの人間に移植は嫌だと話したら私の意見はおかしいと言われました。
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akane_cookieさん、こんにちは。



ドナーは、登録しています。
アイバンクも登録しています。

死んだあとのことは、どうでもいいです。

自分の死体が、利用価値があるなら
利用してくださってもいいと思っています。
家族が反対しなければ。
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私は死んでしまったら自分の体がどうなろうと知ったことではないので、


臓器移植でも検体でも使ってもらって構わないと思っています、今の所は。

ただ、質問の方が「自然の法則っぽい事(?)に反してるようで」とおっしゃるように、医学に携わる方々の「本来死ぬことはない人が助かる」などという言いぐさは我慢なりません。
正しくは「本来死ぬべき人が死ななくなる」でしょう。
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私は医学部の解剖業務に携わる仕事をしていますが、最後の「人体をぐちゃぐちゃ扱ったり」は、少し他の方々に誤解を招きかねないと思います。



あなたの目で「人体をぐちゃぐちゃに」扱われている場面ってご覧になったことがあるのでしょうか?解剖する側は決してご遺体の尊厳を無視するような行為をしていませんし、目的があってしているわけです。

たとえばあなたが誰かに外部から分からない手段で殺されたとしたら?
あなたは別に死因なんか調べなくても、殺されようが何しようが死んでしまったんだからもう放って置いて!って思われるかも知れませんが、殺人という罪を犯した人は、その罪について何も問われなくなってしまいますよね。またそれをいいことに続けて全く別の人を殺害してしまうような事があったらどうしすか?

また、病理解剖は確かに医学の発展のためにという目的もありますが、なぜ死に至ってしまったのか?を詳細に調査することによって、亡くなられた原因についてご遺族の方も納得できるようになりますよね。
そして、系統解剖(学生が行う解剖)でも、確かに死後自分の身体を実験台にされているという印象を抱かれるかとは思いますが、もし系統解剖による人体の内部について直に自分の手で確かめた経験のない医者が手術をしたら…、上達は遅い上に、生体が実験台になってしまいかねないでしょう。また、新しい手術方法を検討する際にも系統解剖することがあります。こういったことができることで、本来死ぬことはない人が助かるわけですよね。

そしてあらゆる疾患の病因を解明するために、解剖された方々の組織を使わせていただくことがありますが、動物実験だけではとうてい無理なことなのです。「研究やらなんやら…」とありますが、あなたは病院には掛からないのですか?医師は全てこういった事を経験して、診察しているのですが。

解剖されるのが嫌であれば、その意思表示を常にご家族に強く行い、また常に一筆かいたものを持ち歩いていればよいのではないですか?
また、臓器提供意思表示カードは、臓器提供する意思のある人だけが持つものではありません。意思のない人は、そのカードの該当欄にチェックを入れて持ち歩けば、たとえ脳死になったとしても、臓器提供されることはありません。

医学教育のために系統解剖に自分の身体を提供する人はおかしい…と取られるような文面だったので、少し残念です。戦前?のイメージのまま、死体はホルマリンのプールに沈められてるとか考えておられそうですが、個別にきちんと丁重に預からせていただいています。またそういった人は、自らの確固たる意思で提供を考えてくださっているわけですから、登録されている方々がこの内容をみると、憤りを感じる人もいるかも知れません。

ですが、考え方は人それぞれ。自然に帰りたいのであれば、あなたがその意思表示を死後自分に関わる人たちに示せばそれでいいでしょう?
臓器提供にしても同じ事。
今日の医学の発展に、そういった点で嫌悪感を感じられるのであれば、残念です。
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もしも死んだ後、私の体を必要としてくれる人がいるなら、髪の先からつま先まで、差し上げます(ドナーカード所持してます)


私の体を解剖して、そしてそれが後の医療の発達に役立つなら、医学生さん達が学べるなら、切り刻んで欲しい。
(同じ理由から、アインシュタインの脳は人の思考を科学する為に重要だと思う)
そして不要になったら鳥葬にして欲しい。焼かれて灰にされて埋められるより、鳥の餌になりたい(日本じゃ無理だけど)
生きている間、本当に人の役に立てる事なんて少ないと思う。
死んだら私の体はただのゴミになる。なのに役に立てるなんてありがたいとすら思います。
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私の場合は宗教を信じていませんし


死体はただの物質に過ぎないと考えますので、
死んだら風葬・火葬でもなんでも構わないのですが、
死後も土地を占拠し続ける墓や土葬だけは嫌ですね。

私も死んだら身体は自然に還したいと思いますが、
自然に還るという観点ならば
ドナー登録にしても医療機関への検体としての提供にしても、結局最後には焼却され(日本での一般的な場合)散骨・埋葬などで、その後結局は自然に還る訳ですから全く構わないと私は考えています。

人体であっても死体であれば、それはただの物質の固まりに過ぎないということです。
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命が私を生きている


そうなんだろうけど、そうだなあと思うことが自然だとは思わない。なんかスレてて時を経てきたんだろうなと思います。

最初っからしっくりきてしまっては、
命さんとしては困ることでもあるんですか?

Aベストアンサー

これね、枝雀師匠の座右の銘みたいなものでした。
首を吊ってしばらくして亡くなっちゃったけど、仏教をよく学んでいた人でした。

命さんがお上で、私が手下、という理屈は足すところも引くところもない理屈なんですけれども、〈私〉というのは、〈私〉を否定し続けたら病気になるように出来ていて、〈私〉にOKを出さないと死んでしまうものなんですね。この、能動的な〈私〉に、受動的な〈私〉が否定ばかりされるようなことがあったら、もう、生きて行かれないのです。〈私〉が無いと命も生きず、また、命が生きているなら意識不明でも〈私〉はあるといえましょう。
だから、生きて命を守るためには、〈私〉が上で監視をして、ほどほどにOKし続けないとなりません。そういう心の(脳の)習慣が、一歩間違うと、〈私〉が上にあって命さんをどうとでもできる気持ちになってしまったりと、両刃の剣でもあります。解約希望さんの心が標語にしっくりしないのは、監視役の〈私〉が、〈私〉をOKしつつ命を守っているからで、また、それが人間の自然だからです。

Q自然の法則

この質問は物理の欄で聞いてみたのですが、同じ質問を哲学に興味をもっている方はどう考えるか、是非知りたいです。その質問とは:

皆様もご存知のように「自然の法則」という言葉は、「Laws of Nature」と言う言葉の訳として作られた言葉ですね。

そこで質問です。英語には「 Law School」と言う言葉が在ります。同じ「Law」なのに、何故、江戸末期の日本人達は「Law」を「法則」と訳してしまったのですか? 江戸時代末期の日本人には西洋人の心が分からなかったのですか?

と言うものです。

物理欄での遣り取り、と言っても、お二方の遣り取りだけでしたが、

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4200407.html

に載っていますで、それも参考にしてみて下さい。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

追伸
「物理学者も含めて,西洋人は神を抜きして自然を語ることができないと理解してよいのでしょうか。」
西洋でも最近では神を抜きして自然を語る者が多いですね。思想的にはニーチェやマルクスが神を否定してますからね。また進化論が行き過ぎたせいもありますね。神を否定した物理学が行き着く先は「偶然性や確率論」ですね。
アインシュタインは神はサイコロを振らないと「偶然性や確率論」を否定してましたが「偶然性や確率論」で積み上げた理論に真理はないということですね。現代物理学も砂上の楼閣ですかね。ただ人間が発見したものは「法」ではなく「法則」程度だと思えばいいんじゃないかな。

Q自然状態、自然権、自然法?

今、学校で啓蒙主義について勉強しています。そこで三人の人物について読まないといけないんですけどこれがよくわかりません。ホブス、ルソー、ロックの言う、自然状態とはいかなる物なんでしょうか?一応wikipediaは見ましたけど....はっきりとは掴めなかったですね。
自然権、自然法についても詳しく教えていただけないでしょうか。
自分なりに社会契約についてある程度リサーチをしてみたんですけど自然状態、自然権、自然法の三つがよくわからないんですよね。

Aベストアンサー

お邪魔します。
参考ページ、見ましたが、ルソーが書いてありませんね。

確か、ルソーは「人間不平等起源論」で
自然状態では、言葉も、過度の欲望もなく、平等で、孤立した暮らしができ
ポップスの言うような「万人の万人に対する戦争」にはならない、
と言った結論だったようです。

ルソーに関して、カントもこんな事を言っています
「ルソーは文明より未開の状態が望ましいと語ったが、われわれ人類がこれから登りつめようとしている最後の段階を見逃すならば、これはそれほど間違っていたわけではない」と

ルソーの「人間不平等起源論」は、文庫ですし、本文は割と短いですから、
読んで見ると面白いですよ、暇があれば、訳注も面白いですが、長いです。

はい、失礼しました。

Q自然は真空を嫌う

 「自然は真空を嫌う」というのは誰がいったことばですか?

Aベストアンサー

古代ギリシャ人のアリストテレスです。
         

Q親鸞の自然法邇と自然外道

自然法邇を表す親鸞の言葉として最も適当なものを、次の(1)~(4)から選べ。

(1)悪を懲し善を進むるは、古の良典なり。ここを以て、人の善をかくすことなく悪を見ては必ずただせ。
(2)しからしむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切の罪を転ず。
(3)貪欲なからんと思はば、先づ須らく吾我を離るべきなり。吾我を離るるには、常を観ずる是れ第一の用心なり。
(4)法華経流布の国に生まれて、この経の題名を聞きて信を生ずるは、宿善の深厚なるに依れり。

(2)が答えらしいのですが、現代語に訳すとどういう意味なんでしょうか。

他の選択肢についてですが、(1)はなんとなくわかりますが、(3)の「吾我を離るる」、(4)の「宿善の深厚なるに依れり」とは、どのような意味なんでしょうか。

また、道元は自然外道を仏教の教えに背くものと見たそうなのですが、「自然外道」とはどのような意味なんでしょうか。

Aベストアンサー

ちょっと字にミスがあるようですが、正しくは「自然法爾」。
親鸞のいう「自然(じねん)」というのは、natureのことではなくて、「おのずからしかり」「おのずからしからしむ」と読んで、「世界を今あるようにあらしめる働き」といった意味です。「法爾(ほうに)」も同じニュアンスです。この「しからしむ」という言葉を親鸞は非常に多用します。

われわれ人間は、いつも自分の分別を働かせることで、善悪を判断したり好き嫌いの気持ちを起こしたうえで、何かを求めたり避けたりといった努力をするものです。親鸞は、そのような個人の作為や思慮分別(=はからい)を完全になくした時に初めて、世界の現象や事物すべてが良し悪しを超えて「ただただそのようである」という本来の姿を現すのだ、ということを説いたわけです。そのことを親鸞は「阿弥陀仏に受け入れられた状態」とたとえました。

ご質問の部分は、『唯心鈔文意』という書物からの引用。直前で「自然」という言葉を説明して「自然というのは『おのずから』ということ。おのずから、というのは『しからしむ』(=そのようにあらしめる)という働きのことだ」、と書いています。
引用部分はこれを受けて、「『しからしむ』(=そのようにあらしめる)というのは、どのようであれ人がはからい(=思慮分別)を捨てた時に、過去や未来にいたる一切の罪が転じて善となることを指すのだ」と説明しているところです。

道元の批判する「自然外道」というのは、仏教一般の解釈とは少し違うのですが、平たくいうと「人間は何もしないでもそのまま悟った存在である」ということを説く立場のことを指します。その立場の代表が、バラモンの一派であるインドのセーニカ学派です。
彼らの主張は、「人間誰にでも、思考や感覚の中枢である“心”が存在する。これはたとえ身体が滅んでも無くならない常住不変の実体である。これは汚れのない清浄な存在で、その存在に気が付きさえすれば、それを悟りというのである」といったもの。この考えを、道元は『正法眼蔵』という書物のなかで繰り返し批判しています。

ただ、「人は本来、仏である」という思想は、大乗仏教ではいろいろと論じられてきた歴史があって、仏性論、本覚思想など非常に広がりがあります。道元は、必ずしもこういう思想すべてを切り捨てたわけではないので、実態は少々ややこしいものです。
ここではとりあえず、道元が否定したのは、悟りの本質に実体があること、そして、悟りのためには修行は一切必要ないという主張である、ととるとよいと思います。つまり、道元の否定した「自然」とは、「修行をしない、素のままの状態」という意味だということ。

吾我というのは、いわば「欲望や執着を持つ存在としての私」といった意味です。執着の対象の最たるものが自分自身であるので、そのように言うわけです。
「宿善の~」は、「前世で善行をたくさん積んできたおかげで」という意味。「宿」というのは、「宿敵」などと使うように、「前世からの」ということです。

ちょっと字にミスがあるようですが、正しくは「自然法爾」。
親鸞のいう「自然(じねん)」というのは、natureのことではなくて、「おのずからしかり」「おのずからしからしむ」と読んで、「世界を今あるようにあらしめる働き」といった意味です。「法爾(ほうに)」も同じニュアンスです。この「しからしむ」という言葉を親鸞は非常に多用します。

われわれ人間は、いつも自分の分別を働かせることで、善悪を判断したり好き嫌いの気持ちを起こしたうえで、何かを求めたり避けたりといった努力をするものです...続きを読む


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