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一般相対性理論を根拠なくビッグバン宇宙論に発展させ、さらにビッグバン宇宙論→宇宙創生→旧約聖書物語→キリスト教・ユダヤ教に至る一連の流れは人類文明の生みだすものの中で最も醜いものではありますまいか。
最近仏教の中にもこのよーなスタンスをとるものが現れてきておりまする。
科学の成果を借用するこれらの宗教はいずれも宗教としては失格で、信仰ではなくいわゆるカルトの印ではありませぬか?

A 回答 (9件)

仰る通りで宗教は都合の良い方に持っていく所があります。

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無知だけど、科学一辺倒では宇宙の本質にはたどり着けないと思います。


接近しているとは思いますが。

哲学的アタックも同様でしょう。
なぜかと云えば、片輪だから。

本来、宗教の価値は《理》ではなく《情》に在ると思います。

アルケー様も神棚に鎮座していないで、下界に降りてみてはどうでしょか。
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科学は現実の世界に関する知識の体系であり、結局は経験の積み重ねに基づいている。

宗教の形而上学は、科学的方法論に則ってはいないものの、やはり経験を法則としてとりまとめ、またその例外を丁寧に検討するプロセスを含んでいる。つまり、どちらも現実の世界をどう理解すりゃいいのよ、という根源的な悩みに基づいている活動であり、両者はそれほどかけ離れているわけじゃない。実際、科学史を紐解けば、カソリックの坊さんが科学研究を実践するのは珍しくもないと分かります。
 一方、おっしゃるような「科学の成果を借用する」行為とは、科学の成果を正しく理解する努力をすっとばして、ただその成果をスローガン(言葉)として拾い出した上で、言葉の類似性や連想だけに頼って全然別の話に敷衍するという、言葉の曖昧さを利用したいわゆるトンデモ的解釈を行っている、ということを指していらっしゃるのでしょう。いわゆるカル・スタと呼ばれた(理科が全然落第の人たちによるデタラメな科学・数学知識のデタラメな応用によって書かれた荒唐無稽な)珍論文の山(「ソーカル事件」を参照)と全く同じ構造であり、もちろん、そんなもんはスカタンです。また、いわゆる聖書科学(聖書の記載を絶対の事実だと決めた上で、科学をムリクリ応用してその説明を構成しようとするもの)のアプローチも、根本の前提のところからして科学を逸脱しまくっているわけで、スカタンです。
 しかし、スカタンであろうとなかろうと、そこに本気の信仰があるのなら、信仰によって神が生まれる。それを「宗教としては失格」と簡単に断じたら、それは、既に他の宗教に帰依していて「我が宗教は失格じゃない」と信じている方による、感情的かつ排他的な攻撃に過ぎないんじゃないの? と批判されることは避けがたいと思いますがね。
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デ、カルトの世界は僧だからしかたないのです。


クレジットカードとかでとか取り立てられるだけですよ。
やがてレトルトとかキヨもヒカキンとかはじめちゃんみたいに
ロイヤリティで飯を食うのだろうか。
儲け方教えます、真似してよ、できないだろう、
もっとやり方教えます。兼ねだして、と。
ホリエモンとか情報商材の人になるのでしょうか。
それかせぶんあんどあいとか。
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一般相対性理論を根拠なくビッグバン宇宙論に発展させ、


さらにビッグバン宇宙論→宇宙創生→旧約聖書物語→キリスト教・
ユダヤ教に至る一連の流れは人類文明の生みだすものの中で
最も醜いものではありますまいか。
  ↑
その通りです。
科学なんてのは、時代が経てば変わります。
ビッグバン理論だって、何十年、何百年後には
どうなるか判りません。
そのとき、キリスト教はどういう言い訳をするので
しょうか。




科学の成果を借用するこれらの宗教はいずれも宗教としては失格で、
信仰ではなくいわゆるカルトの印ではありませぬか?
  ↑
これも、全くその通りです。
要するに、布教を考えているから、こういうことを
やるのです。
科学を利用すれば、説得力が増すだろう、
そうすれば信者が増えて、儲かる。

そういう意図です。

札びらを切って女性を口説くようなものです。
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№3、№5を見てやっと気が付きました。


私の回答はずれてましたね。

《一連の流れ》に付いては分かりませんが、仏教に《科学の成果》は不要、とは思います。
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意地悪なのでしょう。

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★ 科学の成果を借用するこれらの宗教はいずれも宗教としては


失格で、信仰ではなくいわゆるカルトの印ではありませぬか?

☆ 宗教じたいが もしそのオシヘを心に受け容れなさい(つま
り 信じなさい)と説くとすれば 自己矛盾です。人間性に挑む
狂気のやからです。

つまり オシヘは 思想です。経験的で有限かつ相対的な内容の
ものです。

信仰は 絶対とわれとのカカハリです。(この絶対とわれとのカ
カハリについて教えていても そのオシヘは人間の考えであり相
対的なものです)。

この区別ですべて済むことではありませんか?




宗教がそのオシヘの中で《科学の成果を借用する》から 信用な
らないのではなく 科学も 経験科学であるしかなく 相対的な
ものだからです。
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医者も科学、借用しないと死んでしまう。

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