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私はいい年ですが、長らく大人になりきれず苦しんでいます。
端的に言うと、甘えた感情を捨てきれないのです。
いい年した大人が年老いた親や師に甘えるのはそれは微笑ましいことでもありますが、そういうのではなく、自分に甘いところがあるのです。事を分かったような気になったりしているのではないか?そのような自戒があります。それで、自分に対する省察を度々為すことがあります。
このようなことを問うこと自体が大人になり切れてない証左でありますが、立派な大人になるには、どのようであればいいでしょう。心がけなど教えてください。

A 回答 (23件中1~10件)

子供というのはわがままな面から抜け出せないものです。


逆に言えばわがままでない、
つまり他人を尊重できるようになるというのが
大人になることだと言ってもいいのかもしれません。
その尊重すべき他人の事情の質や程度みたいなものが
人生経験を通じてより厳密にわかっていくというのが
成長なんだと思います。
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この回答へのお礼

とても分かりやすいご説明ありがとうございます。
私は自分中心的で、わがままではないにせよ、他人を尊重するという事をなかなか覚えてきませんでした。気は遣うし、優しい人だと言われるのですが、尊重できているかどうかというと、自信がありません。
ためになるご回答ありがとうございます。

お礼日時:2018/03/21 14:12

知ったかぶりしてるところがあって、周りにばれてて、あーあと思われながらもそのまま放っておかれてるような気がしてきた、どうしよう。

という主張だと思いました。



こんばんは。元 rパンの子孫です。本家の怪盗(回答)さんを超えたい執着が解消され、また、そのままでは混同される方がいてご迷惑をおかけしてしまうので、名前を変えました。自分語り失礼しました。

苦しい感じがまったりするようにこんな音楽はどうでしょうか。
General Prince Adekunle and his Supersonic Sounds の『Eroya Wawo』

https://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Adekunle
 ジェネラル・プリンス・アデクンレはナイジェリアのジュジュミュージ
 シャンです。…
曲タイトルの通り1:39辺りでエローヤワーヲーと歌ってます。グーグル翻訳すると、イボ語でウェーブサウンド、コーサ語で彼らの目と訳されました。私は聞いた印象から海っぽいし波の音っぽいし、音の波がふわーっと来るので、ウェーブサウンドという訳を推したいです。
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この回答へのお礼

ネット上の、しかもほぼ文章だけのやり取りをしている中では、少ない情報から相手の像を結ばなければならないから、その像が実像とは離れたものとなるのは仕方のないことです。私などは、まったく別のサイトで話している別のハンドルネームの人なのに、同じキャラクターとして感じることさえあります。おもしろいですね。このキサラギが、r_umaniamnvi_the_5thさんの中でどのようなキャラクターとして像を結んでいるのか分かりませんが、少なくとも像は結ばれているようですので、それだけこの質問を考えてくれたのだと思い、ありがたく回答はいただいておきます。

で、貼ってくれた音楽を聴いているのですが、初めて聞くタイプの音楽ですね。何と言えばいいのでしょう。揺らめく水の中でぶくぶく泡が浮かんでいるようなサウンドです。どんな楽器を使ってるんでしょうね。

お礼日時:2018/03/24 21:16

いくつになっても、甘えてもいいじゃないですか?羨ましいですよ。

甘えられる人が居るんだから。ピーターパンシンドローム結構!そんなに、難しく考えなくても、そうじゃなくても、面倒くさい人生なのに。大らかに、開き直って行きましょうよ♪
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この回答へのお礼

みっともないとか、恥ずかしいとか言う感情がないと言えばウソになりますが、開き直ると案外ひっかかりが取れる気もします。
明るいご回答ありがとうございます。

お礼日時:2018/03/23 19:02

もう種切れですが わいわいえいと氏がわいのわいの言うので。



はじめのくだり(前口上)は 意味がとりにくいのですが。

▼ (アウグスティヌスと《愉快な乞食》) ~~~~~~~
私は 名誉と利得と結婚とを渇望していましたが あなたはそういう私を
嘲笑なさいました。
 
私はこれらの欲望のために さんたんたる苦難をなめていましたが ご自
分以外のものに甘さを感ずることをお許しにならなかったあなたは それ
だけ恵み深かったのです。

主よ わが心をみそなわしたまえ。あなたは これを心に想い起こして御
前(みまえ)に告白することをおのぞみになりました。いまはもう 私の
魂はあなたによりすがって そこからはなれることがあってはならない。
その魂をあなたは あんなに粘り強い死のとりもちから ひきはなしてく
ださったのですから。

私の魂は何とみじめだったことか。しかもあなたは その傷の痛いところ
をつかれました。それは 私の魂が 万物をこえながらしかも万物がそれ
なしには無であるあなたを目ざして 万物を投げすててむかい むかうこ
とによって傷をいやされるためでした。

だから わたしは 勇敢にも悲惨に耐えることをせず あなたが 《わた
しの力は 弱さの中でこそ十分に発揮される》(コリント後書2:9)と
言われたように 《その傷の痛いところをつかれました》。

もういちど繰り返します。傷の痛いところをつかれて わたしは おろか
にもなって その悲惨に勇敢にも耐え ただわたしの好むところに従い 
可能なことを為そうとは欲しませんでした。

 

じっさい 私は何とみじめであったことか。ある日 そのみじめさを痛感
するために あなたはどのようにとりはからいたまうたことか。

その日 私は皇帝にむかって讃辞を朗読する準備をしていましたが それ
は 讃辞の中でたくさんのうそをつき うそつきの私が それをうそと百
も承知の人びとのお気にめすようになるためでした。私の心は心配であえ
いでおり 身もほそる熱い思いに燃えていましたが ミラノのある街路を
とおりながら 一人のみすぼらしい乞食をみとめました。

もう満腹していたのでしょう。冗談を言いながらはしゃいでいました。私
はためいきをつき 自分たちのばかげた仕事から何という多くの苦痛が生
じてくるかということについて つれの友人たちと語りあいました。

じっさい 当時 骨折っていたそういう努力のかぎりを尽くして 欲望の
突き棒につつかれながら おのが不幸の重荷をひきずり ひきずりながら
重荷をつみかさねつつ そういう努力によって得たいと願っていたものは 
ほかでもない 安全確実なよろこびでした。ところが そのよろこびにあ
の乞食は すでに先に到着しているのに ひょっとすると私たちは けっ
して達することができないかもしれないのです。

彼が乞食をして得たごくわづかな金ですでに手に入れてしまったものを 
私はこのように辛苦にみちた紆余曲折をへてさがしまわっていますが も
とめているのはすなわち 現世の幸福のもたらす快楽にすぎません。

たしかに乞食とても 真のよろこびを得ていたわけではありません。しか
し私とても そのように奔走しながらさがしもとめていたものは かの乞
食のそれよりも もっと虚偽のよろこびだったのです。

たしかなことは 彼はよろこんでいるのに私は苦しんでおり 彼が安心し
ているのに私は動揺しているということでした。もしだれかが 《君はよ
ろこびたいか それとも心配したいか》とたずねたとしたら 私は《よろ
こびたい》と答えたことでしょう。さらに あの乞食のようになりたいか 
それともこのままでいたいかと問われたならば 心配と不安とで疲れはて
ていたにしても やはりこのままでいるほうをのぞんだことでしょう。

けれども この判断はまちがっていました。どうして真でありましょうか。
じっさい私は かの乞食よりも学問があるからとて 自分のほうがすぐれ
ていると思うべきではありませんでした。なぜなら 私はその学問から 
よろこびを得ていたのではなく ただ人びとの気にいることをもとめてい
たにすぎないのですから。しかもそれは 彼らを教えるためではなくて 
ただ彼らの気にいるためにすぎなかった。だからこそ あなたは こらし
めの杖でもって 私の骨を打ち砕かれたのです。


それゆえ 私の魂にむかってこういう者は 遠ざかってもらいたい。
何によってよろこぶか そこにちがいがある。あの乞食は 酩酊によって
よろこんでいたが 君は栄光によってよろこぼうとしていたのだ。

主よ それはどのような栄光でしたろう。あなたにおける栄光ではありま
せんでした。じっさい あの乞食のよろこびが真のよろこびではなかった
ように 私ののぞんでいた栄光も真の栄光ではなく かえってそれは私の
精神をますます逆転させてゆくばかりでした。乞食の酔いはその晩さめた
ことでしょうが 私は酔いながら眠り 酔いながら起きました。将来も同
じように眠っては起きたことでしょう。その状態は まあ 何日つづくこ
とであったか。


もちろん どこからよろこびを得るか そこにちがいがあることは 知っ
ています。信仰にもとづく希望から生ずるよろこびは あの虚妄とは比較
にならぬほどへだたっているのです。しかし当時においても 私と乞食と
のあいだにはへだたりがありました。疑いもなく 彼は私より幸福でした。
その理由は 一つには 私が心配でふぬけになっていたのに 彼はまった
くの上機嫌だったということにありますが それだけではありません。彼
は道行く人の祝福を祈って酒に ありついたのに 私のほうは うそをつ
きながらからいばりの地位を追いもとめていたのですから。




当時 私はこういった意味のことを 何回となく親しい友人たちに話し 
そのような場合 自分がどういう状態にあるかをしばしば考えてみました。
そして状態がかんばしくないことに気づいてかなしみましたが 悪い状態
をいやがうえにも悪くするばかりでした。そして何か幸運じみたものがほ
ほえみかけることがあっても 手を出す気になれませんでした。なぜなら
それは とらえようとすると飛びさっていったからです。
 (『告白』 6・6・9-10 山田晶訳)
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この回答へのお礼

余計なことを言わないと、只お礼だけを記述してしまうことになりますので、少し余計なことを言います。
このアウグスティヌスの抱える矛盾の構造は、現代の都市で働く人々の心境にも当てはまりそうだと思いました。
素朴な望みを大事にしたいと思っていたはずなのに、世間の大きさに飲み込まれて、目の前の仕事に忙殺される。給与の多寡と望みの乖離、地位の高低と自分自身の乖離、責任と自由の食い違い。
薄汚れたのはアウグスティヌスの方だったという事なのでしょう。
世には、果敢にも汚れを消し去る方へ動く人と、汚れから離れたくなる人とがいて、アウグスティヌスは苦しんだのだと思いました。

お礼日時:2018/03/23 19:00

キサラギXさん こんばんは



>立派な大人

私は、何故大人が立派でなければいけないのか?という問いに悩んでいます。

>大人としての条件は、成人して法律が守れることだと思うからです。

更に、家族を持って子供が生まれて、子供からいい親だと思われるならば十分ではないのか。
それ以上の立派さは必要なのか?

>聖人が立派さなのか?

議員さんでも真面目な堅物ならば、国民のためにはなります。
しかし、その人に投票した人達からすれば、自分の願いを優先してくれない無能だと言われてしまいます。

>偉人が立派さなのか?

人類の発展に貢献すること。
私には無理なので考えたくありません。

>子供や若者に尊敬されることが立派さなのか?

極端な話をすれば、
子供や若者のためなら何でも許されることにもなりかねません。

「俺は、子供を育てるのに苦労している。だから、一番苦労している。」
「え~ それは、子供が苦労しているのでは?」と言いたくなります。」
最近、こういう親が多い。

>宗教団体やボランティア活動をすれば、立派さなのか?

極端な話をすれば、
他人の不幸を利用して資金を集めて、出世欲を満たしていないか。
本当に自分が不幸な人は、他人を利用しようとは思わない。

>親や兄弟、あるいは会社等の組織のためになることが、立派さなのか?

いわゆる、独身の原因です。
仕事はできるけれども、自分の人生を犠牲にしている。

>実業家が、立派さなのか?

トランプ大統領みたいな方です。
利益になることを優先して行動する。決断力にたけている。

>他人に感動を与えることが、立派さなのか?

他人は各々の認識で判断するので、偶然です。

☆私の結論は、立派な大人ではありません。

いつまでも好奇心旺盛な、仕方なく自立、自律した大人でありたい。

う~ん、最低な回答ですね。(・・?
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この回答へのお礼

立派とはどういうことか、立派でなければならないのか。
私の持つ価値観の一つには、難しくない、子供のころに見たアニメの主題歌のようなものがあります。曰く、「もっとワイルドに もっとたくましく生きてごらん ロマンティックあげるよ ホントの勇気 見せてくれたら」
https://www.youtube.com/watch?v=Yf8HEnobqXI

この詩の前部には、「大人のフリして あきらめちゃ奇跡の謎など 解けないよ」という詞があります。
世界の美しいもの、わくわくするもの、そのようなものに魅了されてしまうと世の真実は見えなくなってしまいますが、見たいものを見たいという心の挙動が存在しており、かかる価値観を私は大事にしているのです。つまり、その意味では子供なのですね。

お礼日時:2018/03/23 18:47

自分に対する甘さがあることが許せない、ということなのですね?苦しんでいるということは。



「修行系」の人生観をキサラギさんと私とは共有していると思っていますので、分かる気がします。

自己変革に対する強い欲望があるのだと思います。
それは、ある精神状態に至れば(大人になれば)達するというものではなくて、常に磨き続けてゆかな
ければならない類のものではないでしょうか?

若いうちはまだよくて、40代くらいから年をとるほどに逆に自分に対する甘さは強まってしまうのが
一般的でしょう。

それを、どう乗り切るかといいますと、「自己否定」に尽きると思います。
具体的には、失敗するために挑戦をすること、評価の厳しい人に評価してもらうこと、あるいは高い
目標を持って、そこから自分の力を見てみることなどです。

ピントがずれていたらごめんなさい。
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この回答へのお礼

子どものころは、もっと目が澄んでいて、嘘も簡単に見抜けたはずなのに、どうにも最近、世間の真偽が吟味しないとわからない(苦笑)

立派な大人になるというのは、子供の頃から曲がらずに大人になる事なのかもしれないと思いました。曇った眼を晴らさない限りは、右往左往することになるかもしれないと思うと、このままではヤバイという気持ちになります。この曇りは常に努力し続けなければクリアに保てないというのは、神秀の歌に近い価値観かと思います。

神秀の詩
身是菩提樹 心如明鏡臺(身は是れ菩提樹 心は明鏡台の如し)
時時勤拂拭 莫使有塵埃(時時に勤めて拂拭し 塵埃を有らしむること莫れ)

自己否定はある種のエネルギーを生みますね。ふつふつとした熱を生じます。それは自分に対する怒りであり、励ましであります。

このQAを通して、一つ思い当たる節がありました。それは、ひたむきにやっていることが道となる、という事です。世間には種々様々な道があり、入り口も多く用意されていますが、本当の道となるのはひたむきにやっているそのことそのものだと。
良い収穫でした。

お礼日時:2018/03/23 18:32

こんばんは男子高校生です


自分も今巣立つ準備をしています。やはり自分は勉強やスポーツや恋愛においても自分の都合の良いようにしている事に最近気づきました。人間というものは楽な方へ流れてしまうものなのです。いろんなことを経験して学んだ人間、失敗をしても立ち上がる人間は他人から見ると輝いて見えます。アドラー心理学でも人生のタスク(課題)からは逃れなれない。とあります。つまり恋愛でも勉強でもそれぞれタスクがありそれを乗り越えた人間は立派な大人と言えるのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

こんばんは。
巣立つ準備ですか。私が高校生の頃は、その様なことは何も考えずに、夢ばかり見ていたように思います。
私の経験では、自分の都合の良いように出来ている時、それは二種あって、一つは自分が事態を掌握していて他人を動かせる時、もう一つは逆に自分が周りに泳がされている時です。一つ目には責任が伴い、二つ目には甘えが生じているのだと思います。
私は二つ目の状況に甘んじて、仰るように楽な方に流れることも多かったのかもしれません。

失敗しても立ち上がる、これはいい言葉ですね。言葉自体が私には輝いて見えます。

乗り越えるべきタスクを見失っているのが私の現状かもしれませんが、仰る事は具体性があって納得出来るものです。具体な状況というのは自分の思いとの間に齟齬を生むものですが、それこそが乗り越えるべきタスクなのではないかとご回答を聞いて思いました。
励みになるご回答ありがとうございます。

お礼日時:2018/03/23 01:29

この問いは、感覚・感性に依るものであって、理性的な疑問ではありません。


理性としては大人であっても、感覚に”子供的気分”が残ると云うことです。

私自身の事でもあるから、よく分かるのです。

この”巣”から飛び立つための方法・手段としてのヒント、あるいは的確な示唆、が回答№9ブラジュロンヌさんの云う処の「引き受ける」です。

依頼心。
これが因の一つになります。

寄せられた回答から受ける共通のものは自立。
この自立は単に自身のことのみではなく、他者を背負って立つと云うこと。

また、大人としての親への甘えと、子供的甘えとは違うでしょう。
大人としての親への甘えなら、ほほえましくあるかもしれません。

☆ 再度、ブラジュロンヌさんの意見を求めたいところです。
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この回答へのお礼

感覚的と言えばそうかもしれません。
もう子供には戻れないと言うことは事実で、そういう意味では大人なのでしょうが、、成熟した大人になってないと言った方が良いかもしれません。
私の親ももう前期高齢期に差し掛かっており、家庭や子ども、両親を背負って立つ年齢なのは分かるのですが、そんな気がほとんど起きていません。

ところで、大人の甘えと言うのを、何か気持ち悪いものの様に想像された方がいる様でしたが、私が言ったのは何もそう言うものでは無く、もっと言えばある種の安らぎであり、楽しみをもたらすものであるのです。

学生時代、私の通っていた塾の塾長が、当時で50過ぎくらいでしょうか。彼が激務の合間に、自らの恩師である80歳を超えた現役の国語の先生に会いに行くのですが、それは何のためかと言うと、マンツーマンで授業をしてもらうためなのだそうです。しかし激務の疲れから、彼は恩師の授業中、居眠りをしてしまうわけですね。しかし恩師はそれでも快く、彼に授業する事を何度も快諾してくれるのです。
私が言う大人の甘えとは、例を出せばこう言うものなのですね。
誤解された方が居たのは意外でしたが、この様な人間関係を得られる人もまた多くないのも一面の事実であります。大人の甘えについての誤解は私には防ぐ手立てがなかったのではありますが、ここで弁明することが出来てよかったです。ありがとうございます。

お礼日時:2018/03/22 23:49

私は頭が良くないので難しい事は分かりませんが、人間って死ぬまで大人になんてなれないと思ってます。


周りはどう見てるか分かりませんが、それほど難しく考える必要もないのではないでしょうか。
サラッと流して生きるのもある意味大人だと思うし。
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この回答へのお礼

さらっと流して生きる。これは素晴らしいことだと思います。ズルズルといろんなものや考えを引きずって歩きがちですので、身軽になるというのは大切ですね。ありがとうございます。

お礼日時:2018/03/22 22:53

大人というもの自体、抽象的であるが故に、仕方ないことだと思います。


主さんの考える大人の定義がどうあるかによりますが、自分が最終的に納得のいくように、その場その場で選択する場面を経験していくことだと思います。
自分のおぼろげでも成りたい姿を目指して、途中で考えが変わってもまた違った成りたい姿を目指して、その繰り返しでいいと思います。
立派な大人であるためには、一つの考えに固執しすぎないように、周りに振り回されないことが必要だと思います。
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この回答へのお礼

歩いてゆく事こそ成長になるのだと、お話を聞いて思いました。
私は、自分の考えに固執することはあまりないのですが、周りの影響をよく受ける方だと思います。もうちょっと自分をしっかり持ってもいいのかもしれません。ありがとうございます。

お礼日時:2018/03/22 22:51

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