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最近、ある著名な科学者の次のような言葉に出会いました。

「私は、哲学というものはいたずらに思考を混乱させるもの以外の何物でもないと
思っています」と。

私は、このカテゴリーに参賀するようになってから早3年近くたちますが、「哲学な
どやらないほうがいい」という助言を、実は何度ももらっています。
そして、事実何度も混乱をしています。

何故、混乱したかと考えたところ、哲学というものは、ある結論とそれに基づいた論理
を合わせたものと私は理解していて、西洋哲学というものは究極の結論というものがあ
って無いようなもので、それに基づいた論理であるから混乱をせざるを得ないのだと思
います。

意識の厚薄はあれ、人はそれぞれ経験に基づいた哲学を持ち、論理を持っているはずです。
それが、現実を離れた観念思考によって混乱をさせられるのではないかと考えられます。

私は西洋哲学というものをキチンと勉強したことがなく、少し腰を入れて学ぼうかなと
思っていたところでしたので、この質問をしました。

また、冒頭で紹介した科学者は続けてこう言いました。

「しかし、私は明快な哲学に出会い、哲学というものの理解を変えるに至りました」と。

皆さんの率直なお考えをお聞かせください。

A 回答 (20件中1~10件)

二階建てのバスのことだと思います。

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この回答へのお礼

ふむ、そうですか。

お礼日時:2018/04/02 10:22

ハイデッカーですか 大物実存主義者ですよね。

「存在と時間」でしたっけ「存在と無」でしたっけ

私は実存主義にはあまり肯定的でないので読もうと思ったことはないですねえ

便所の戸を叩きながら「ハイデッカー ハイテッカー 入ってるかー」という哲学者だと聞きました。

人間の精神と言ったってそれほどまで特別なものではありません。性質が主体化したものです

実存主義も現実に繋がって 地に足をつけて生きて貰いたいと思います。

唯物論じゃではないですが 人間が宇宙の中心じゃないことは確かです。ただ可能性だけはあります。
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この回答へのお礼

ハイゼンベルクの「不確定性原理」とかハイデッカーの「存在と時間」などは
難解で、正確に理解している人は少ないなんて言われているほどですから、読
まないで評価してはイカンと思いますよ。

「サイデッカ~」なんて言わないでね。

お礼日時:2018/04/02 10:20

哲学者である中島義道さんの「哲学塾からこんにちは」を読んでみては、どうでしょうか?


http://toyokeizai.net/category/tetsugakujuku

その中でも、私(富山)は↓が良かったです。

巷にばら撒かれる「ニセ哲学」に警戒せよ
「趣味としての哲学」は成り立つのか?
http://toyokeizai.net/articles/-/64011
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この回答へのお礼

紹介していただき、ありがとうございます。
なかなか面白そうな題名が並んでいますね。

こういう人は、哲学をしないと生きていけない、死んでしまうのです。哲学が、楽しいからでも生き甲斐があるからでもない。むしろ、逆で、苦しくて、虚しいかもしれない。しかし、それでもせざるをえない。なぜなら、彼らは哲学に「囚われて」しまっていて、それしかできないから、気がつくと哲学をしてしまっているから、です。

ちょっと引用してみましたが、鋭く人間真理の一面をついていると思います。
むしろ、悲しくなりますね。

お礼日時:2018/04/01 20:42

哲学の歴史とか大体のダイジェストは必要でしょうけど 西洋哲学を本腰入れて勉強しても



結論が出てないし それ以上にますます分からなくなって来ています。

そんなものに本腰入れるくらいなら自分で自分の人生観・世界観を伸ばしていった方がいいのでは?

哲学に学ばなくても科学でも歴史でも学ぶものはたくさんあります

この哲学者は気になるという哲学者だけその結論だけ見れば大体わかるでしょう。
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この回答へのお礼

本腰入れてではなく、「少し腰を入れて」です。(笑)

私が一番興味があるのは仏教哲学なんです。しかし、恐ろしく難しい。
ですから、仏教だけ学んでいてもなかなか理解できないだろうと思っています。

ですから、西洋哲学とか理論物理学とかと比較相対して学んでゆくのがいいと思
ったのです。
大まかな流れと結論が分かればいいと思います。でも、例えばハイデッガーなど
はそう簡単に理解出来そうもないですね。

haruさんはハイデッガー分かりますか?

お礼日時:2018/04/01 10:41

その疑問に永遠に明確な答えは出ませんが、神も誰も議論し、疑問に思うことを否定しないでしょう。

むしろ温かく見守っているはずです。
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この回答へのお礼

科学的な答えが出てしまったら、もう人類は哲学できなくなりますね。

お礼日時:2018/03/31 00:07

誰も答えを知らないからじゃないですか。

誰も正解を知らない。
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この回答へのお礼

哲学という学問には触れないほうがいい、という結論に至ったとしても、
また、誰も正解を知らないことが明らかになったとしても…
哲学的・本質的なことは考えなくてよい、ということになってはいけない
と思います。

お礼日時:2018/03/30 08:06

このご時世ですから、哲学を職業にしようと思ったら、大学の先生になるしかないと思います。

自分の子供だったら、絶対におやめなさい、というところです。

ご質問に、質問で返すのは、ルール違反ですが、ギリシア哲学から、歴史の順を追って、ということでしょうか。それとも、ドイツあるいは、フランスの有名どころでしょうか。どのあたりにご関心が向いているのか、興味があります。

お好きな哲学者の著作を、繰り返し読んで、共感を得るのは、深い喜びです。昔、森有正さんや、寺田寅彦さんの言葉が、私の生き方の指標になりました。大学時代の愛読書でした。

現在は、聖書です。その知識があるとないのでは、生活の仕方が、根本のところで変わってきます。四十代から、人生を模索したときに出会った本でした。聖書は、哲学書の対局を成す本であると思います。もう、最初から、答えが出ているので、せっかちな私には、最適です。

質問者さんも、万が一、ご自分の人生を歩んでゆく上で、霧にまかれたとき、出口を探す手がかりを、見つけたいと思っていられるのかもしれませんね。

哲学のほうに、自分を寄せてゆく。。。学ぶのは、やたらと時間がかかります。でも、それとは逆方向に、自分の気に入った著者を見つけて、それを自分の生活に利用する分には、哲学も、テレビのスイッチを入れるような”役に立つ”作業なのではないかと、考えます。件の科学者さんも、哲学を、科学的に利用しているのでしょう。
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この回答へのお礼

毎度、含蓄のあるご回答をありがとうございます。

そうですね、古いものから順に、変化を見ながら、有名どころの哲学者たちが
どういう結論に至ったかということを学んでゆくのが、私の性格に合っている
ように思っています。

ソクラテス・プラトン、アリストテレス、ショーペンハウアー、ベルクソン、
そして、カント…そのあたりに興味があります。

実は私は仏教徒です。まだ新米ですが。で、教えがあって、やはり答えが出て
いるわけですが、それを、深く理解したいというのが目的です。
聖書は昔読んだことがあったのですが、捉えどころがなくて挫折しました。今
なら理解できるだろうと思います。

お礼日時:2018/03/28 03:20

哲学は、どんな時でも役に立つと思います。

あまり詳しくはありませんが、人間はやはり何かの問題に当たった時に数限りなく思考することができます。選択肢があまりにも多いためにひとつやふたつに限定し、それが答えだと決めつけたがります。そして、考える労力を減らすためその一つか二つに限定した同じ思考を繰り返します。そしてより良い思考があったにもかかわらず、決めつけがあったためにもっとより良い考え方が消し去られてしまいます。それを防ぐために哲学があると考えています。自分が考えた答えよりもっと正しい答えがないかと考えていく。科学者などはひとつのことを追求しそれが唯一正しいものだと証明しないといけません。そうしなければ、みんなが安心してその技術を使うことができません。それに対してその唯一正しいものだという決めつけは、他により良いものがあったとしても、その選択肢は消し去る事になります。それを防ぐためにに哲学があると思います。科学者は唯一の答えを求め、そして、哲学のような考えによって唯一の答えを発展させていく。哲学は思考を繰り返すことでより良い答えを求めようとするため混乱の元になる。しかし、そのような哲学は科学の発展には欠かせない学問のひとつであったということではないでしょうか。間違ってたらすみません。
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この回答へのお礼

なるほど、そういう考え方もあるのかと思いました。

私は、いわゆる哲学は「難しい」ということが問題だと思うのです。
若くても理解してしまう人もいるのですが、大抵は消化不良になって、物事を
曖昧なままにしてしまう癖がついてしまわないかと思うのです。

ですから、文学とか映画とか音楽・芸術などから物事の本質を見る訓練を兼ねて
楽しむということから始めるほうが無難ではないかと思っています。

お礼日時:2018/03/28 01:20

諸学的な連絡通路がイメージできない形而上学はすごく謎だとおもいます。



だれかの言葉をじっと聞いていて、なんとなく、あの話をしているのかな、となってきたら聞くのも少し楽になります。

形而上学が自然学のあとに講義されたので、タ・メタ・タ・ヒュスカと名前がつけられたらしいですが、自然学が何かしらの区切りになっているのではないかと勝手に思っています。

文法学や様々な諸学を学んで、自然学を学び、そのあとに形而上学を考える。

これは、研究論のようなものなのだろうかと考えました。さまざまなものは活動していてそれらのものを、うまく調整してさらに良いものにしたい、形而上学には自然的に私たちが制約されているなにかの条件のもとでもう少し何かを考えたい。

今まで学んだものごとを一度心の中に収めてみて、それらが自然に動くさまを観察しながら新たなものをつくりだそうとしているように思います。

さまざまなことどもをいろいろ学んで、それが心のなかに収まり、言葉をもって表現できるなら、それは(事)を表現する(理)に思えます。

人によって、この(理)の表現の仕方がことなるときはやはりすり合わせる努力をお互いにしないといけないでしょうか。

この(理)はことばとしてのモデルでしょうか。
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この回答へのお礼

人間は物心ついたときには現実という「事」の中で生き始めるわけです。
小さな子供にはスピリチュアルな能力があるといいますね。あると思いますが、
それはいったん引っ込んでしまい、後から「真理」を考えるというのは人間の
運命、と言えると思います。

事=形而下=事実=色法、理=形而上=法則=心法

要するにこういうことだと思う。しかし、事と理の関係は一歩深く考えようとす
ると難しいですね。

お礼日時:2018/03/27 00:11

哲学無しに人はいきられるだろうか


この世界はそんなにぬるくはないと思うけど

成しうる者が為すべきを為す
のだから何も心配は要らないとその科学者にお伝えください
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この回答へのお礼

より深い哲学を求めて学んだのだろうとは思います。

お礼日時:2018/03/26 03:57

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