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最近『三国志 魏志 東夷伝』に触れる機会がありました。

卑弥呼が中国に遣いを送った理由をそこから読み解ける気がするのですが
うまく自分でまとめられません。

みなさんだったら『三国志 魏志 東夷伝』から、どのような分析をしますか?

A 回答 (2件)

魏志倭人伝には、年表のところになりますが、倭から3度ほど使いが送られていることが書かれています(景初二年、正始四年、正始八年。

西暦だと 238年、243年、247年)。また行程が書かれている中の伊都國のところで『郡使往來常所駐』、訳すと『郡の使いが往き来する時は常にここに駐まる』と書かれてます。

魏からの使者は、正始元年(240年)の梯儁と、正始八年(247年)の張政ですが、もしこの2隊がともに伊都國に停まったとしても『常』と記述するにはやや違和感があります。

倭人伝だけでは書かれていませんが(魏志には書かれています)、韓半島の漢の国の帯方郡(と遼東郡)は公孫氏が支配していたのですが、漢の後を継ぐ魏を裏切り独立し司馬懿に討たれています。その討たれたのが景初二年で、これにより帯方郡が魏の支配下に戻り、その魏の帯方郡に倭の使者がやってきたので倭のことを魏が知ることになり、歴史書に書き残されているという経緯があります。
前置きが長くなりましたが、倭は、魏に使者を送る前から公孫氏に使者を送っていたのであろう、という見解が多くの支持を得ていると思います。

とはいえ、倭から魏への使者も6年後と4年後と、毎年送っているわけではないので、何か大きなことがあった時にだけ送っていると考えられます。行程の記事の狗邪韓國から末廬國までのところで『南北市糴』と記述し、これらの国々で恒常的に(といっても月に数度程度?)行き来があるところを見ると、海を渡ることが難しかったわけではないことは分かります。

とはいえ、なぜ倭が使者を送ったのかというと、よく分からないところがあります。

まず1回目(238年)、魏志倭人伝には六月とありますが、上記のとおり公孫氏が滅んだ年でもあります、でいつ滅んだかというと(韓伝によると)7月以降であるようなのです。つまり六月に行っても、まだ公孫氏が生きており城の周りを魏の軍隊が取り囲んでいるような状況だったようです。
もしこの使者が公孫氏へのものだったとすると、理由は不明だが公孫氏へ使者を送ってみると、魏の軍隊に城を包囲されており、急遽、魏への使者に変更した。あるいは決着がつくのを待って魏への使者とした。
もしくは公孫氏の滅亡が時間の問題と見て、滅ぶ前に魏に新たな外交相手として使者を送った。

また景初二年が景初三年の間違いであるとする説もありますが(これは他の文献で三年と見えるためですが)、景初3年1月に魏の第2代皇帝の曹叡(34才)が亡くなり、曹芳(7才)が皇帝になっています。東夷伝が書かれた経緯や魏志倭人伝に残されている書簡の内容を見るに、”景初三年の間違い”は無いだろうと思われます。(まぁ大人が代わりに書いたからとか考えることもできますが。)

2回目(243年)も理由は不明とされています。中国の朝貢貿易でおもしろいのは、贈られたもの以上のものを贈り返すというところで、魏志倭人伝にも倭から贈ったもの(1度目の使い)より魏から贈られたもののほうが豪華であることが見て取れます。2度目の倭の使いが、これに味をしめて~というものならば、それこそ毎年のように使者が送られたことでしょうから、そのようなことではないようです。

3回目の理由は、はっきり書かれています。狗奴國が攻めてきてるから援軍を出してほしい、という旨です。

注意しなければならないのは、倭の使いと魏の使いの”応答(対応)”です。
景初二年の倭の使い(1回目)があったので正始元年の魏の使いが来ています。
そして、正始四年の倭の使い(2回目)があったので、正始八年の魏の使いが来ています。正始八年の魏の使いは正始八年の倭の使い(3回目)の後に来ていますが、正始八年の倭の使いに応えて倭に来たのではなく、あくまで正始四年の倭の使い(2回目)に対して倭に来ています。

正始六年の『詔賜倭難升米黃幢 付郡假授』の記事は『倭の難升米に黃幢を賜うようにと、郡に命令を出した』という意味で、実際に倭の難升米に黃幢が賜われているのではなく、それは八年の記事に書かれています。

そして、正始八年の倭の使い(3回目)に対しては、2回目の応答に加えてに、”檄する”(これは木札を立てて兵を募集するという意味)をついでのようにやって、それでおしまいにされています。

最後に、正始八年に倭に来た張政が帰るときに一緒に倭の使い(4回目)も行っていますが、これに対する魏の使いもなかったようです。


ここからは私の持論が展開されます。一般的な話とはちょっと違っていますが、頭のすみにでも入れておいてください。
まず正始八年の記事は長いので(内容的にも)数年に渡ることが書かれているのではないか、と良く言われます。つまり張政が正始八年に倭に来て、何年も留まって魏に帰っていったのではないか、ということですが、これは間違いです。まず魏志倭人伝自体が長期滞在して書かれたものというより短期滞在で書かれていたものであると思われる記述が多く見られます。また何より、張政が卑彌呼ではなく壹與に『檄告喻』しているのは、張政が倭に行ったときには既に王が壹與であった証拠であり、その為に壹與に『檄告喻』したんだよ、と言うのが『政等以檄告喻壹與』の文章です。なので、正始八年の記事は、何年も前に卑彌呼が死んでいて男王が立ったけど上手くいかずにごたごたして壹與が新な女王になっていたので、どこの馬の骨とも知らないやつではなく、新たな倭の王の壹與に『檄告喻』してきましたというものです。
なので、卑彌呼の死から壹與が立ち張政が来るまでに長い年月が経っていて、そういう文章が八年の記事に残っているのです。

それを考えると、正始四年の倭の使い(2回目)は、卑彌呼が死に男王が立ったために送られたのではないだろうかと考えられます。
彼が不幸だったのは、これに対応する魏の使いが正始六年に送られるよう指令が出されたのにも関わらず、運悪く韓の反乱が起きて太守が殺され、倭の使いを実行できる人が居なくなってしまったことです。結局それは、正始八年に王頎が太守に着任して、倭の使いとして張政が送られました。(王頎の太守着任の記事が、倭とは関係がなさそうなのに倭人伝に書かれているのは、そのような訳です。)

しかし、その時にはすでに狗奴國からの攻撃が激しくなっており、男王じゃダメだと急遽女王を立てたのが壹與なのかも知れない、などとも思ったりもしています。


参考にでもなれば♪
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少し違う話から始めます。


明史 巻322 外国 日本伝 より
日本故有王、其下称関白者最尊、時以山城州渠信長為之。偶出猟、遇一人臥樹下。驚起衝突。執而詰之。自言「為平秀吉、薩摩州人之奴」。雄健蹺捷、有口弁。信長悅之、令牧馬、名曰「木下人」。後漸用事、為信長画策、奪並二十余州、遂為摂津鎮守大将。

日本はもともと王がおり、その下に関白という者がいて最も偉く、この時は山城州の信長がこれ(関白)である。 たまたま猟に出て、一人の樹下で寝ていた者がいて、起きると驚いて衝突した。とらえて問い詰めたると「平秀吉という薩摩出身のものだ」と言った。健脚で弁がたったので、信長は喜んで馬の管理をさせ、「木下人」と名乗らせた。のちに重用され、信長のために策を使って二十余州を奪い、摂津の鎮守大将となった。

時代が変わって秀吉のころでもこの程度の認識です。


邪馬台国の記述は238年ころからですが、書かれたのは西晋の280年以降です。
このため、伝聞等が非常に多いので、魏王に使いが来たこと以外は
これだけではほとんど信頼できませんので、参考にしかなりません。
(全てを否定するものではありません)
そもそも、倭とか卑弥呼の字でも判るように蔑んだ字を使うなど
東夷の蛮族についての記述は、名称すらまともかわかりません。
なので、いくら細かい分析をしても、その人の想像なので
鏡や遺跡などのその他の史料で検証するべきと思います。



これでは元も子もないので、中国に使いを送った理由は
57年には漢委奴国王印(金印)を後漢から賜った
(後漢書 巻85 列伝巻75 東夷伝)ように
それ以前から中国の存在は知られていたので、
倭国大乱を治めた卑弥呼が政権の安定を図るため
権威付けを考えたものと考えます。
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