
新約聖書の「マタイによる福音書」に有名なイエスの「山上の説教」がありますね。
この冒頭で、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という文にはじまって、同じ形式の文が8回繰り返されています。
最後の(8個目の)部分は、「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という言葉です。仮に、この部分がカットされて、冒頭7つの「幸い」だけが書かれていたら、どんな印象を持ちますか?
実はあるテキストで、この8つめがカットされて、最初の7つの「幸い」だけが引用されているのを見つけました。クリスチャンではない編集者によるものです。深読みなのかも知れませんが、最後の「幸い」をカットすることで、テキスト全体の印象を変える意図があるのかしら、と考えました。
必ずしも専門的なお答えを期待しているわけではなく、この8個目の「幸い」がカットされていることで、どのようにテキスト全体の印象が変わってしまうか、などのご感想・ご意見をクリスチャンの方などにお答えして頂けると、大変嬉しいです。もちろん専門的なお答えがあれば、助かります。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
#1 です。
>引用されていたテキストというのは、実はある国の中学生向けの教科書です。私は関心があって、外国の教科書の内容分析をしており、原文でそれを読んでいます。その国ではクリスチャンはマイノリティであるため、政府が意図的に聖書の内容を軽んじる、利用するなどという可能性があるのかないのかを考えたわけです。
…なるほど。とてもよく背景が分かりました。マイノリティであるにも関わらず、「教科書に載せる」ということにとても面白さ(←funny という意味でなく)を感じております。
戦時下における日本のキリスト教弾圧に関しては少し資料を読んだことがありますが、戦時下では「敵国の宗教」として禁じたことがありますが、キリシタン弾圧等の徹底した弾圧をかけるより、少し操作意図を含ませた「解禁」の誤った教義の中で泳がせておきたいという国の思惑が見え隠れするのですね。
そうすると、「その国がどんな文化を持っているのか、もしあれば国教はなんなのか」ということでも髄分と削除の意味合いが違ってきますね。キリスト教では「両親を捨てて自分についてくるように」また、「信仰を弾圧するような法に屈しない」(原文のママではありませんが)という思想がありますよね。
それは国家だけでなく、時の権力者にとってはとても怖い考え方であって、「非暴力・不服従」ではないですが、少しずつ改竄した経典を与えることにより、一本貫かれている教義を形骸化することが出来るようにも思います。
クリスチャンがマイノリティの国、それでも教科書に母国語でバイブルを編集して載せる国。色々と思い浮かべていますが、今思い浮かぶ国の文化の中で#1 の (1)~(7)を排除する思想を持った国を思いつきません。(だからこそ教科書にも堂々と載せているのでしょうが)
「生ぬるい」クリスチャンに仕立て上げるには(8)の削除は確かに有効と思えます。
■聖書 / 新改訳 (翻訳:新改訳聖書刊行会)■
【日本聖書刊行会 1983年 2版5刷より引用・抜粋】
わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろあなたが冷たいか熱いかであってほしい。このようにあなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないのでわたしの口からあなたを吐き出そう
【ヨハネの黙示録 第3章15節~16節】
を連想させられます。
>なお、この質問は個人的・学問的な関心に基づいており、何かの団体や政治的利害に関係しているわけではないことをお約束しておきます。
そういった心配はしていなかったので(無用心?)安心なさってください。私も学問的関心から宗教の一つとして持っている知識の中で、思ったことを書いただけですので。
ただ、マイノリティであるクリスチャンは正しい教義を知っている人もあり、実際にそういった国に住んでいるクリスチャンが「原典」を書き換えられるといった行為にどれだけの憤りを感じているのかと思うと(当たり前ですが、「聖書」から加えたり引いたりする者は「呪われよ」とも書いてありますよね、確か)非常にお気の毒に感じます。
私も哲学のカテに参加すること自体、1ヶ月程度の「教えてgoo」というコミュの中では2度程しかありませんし、確固たる「信仰」を持った人間ではないのですが、宗教論を書くことは時に危険を伴うものという認識くらいは持っております。
…ので国名は書けませんが、割と近くて私にもある程度読み書きの出来る言語を持つ国で、非常に弾圧が強かったけれど、マイノリティであったはずのクリスチャン人口が増え続けている国が一つ想起されています。
今では地下活動でしか「正しい聖典を学べない」というのはそういったことなのかな、とも思っています。宗教の違い、宗教観の違いは国と国との争いにまで発展するのは言わずもがなのことですから、教科書に載せるには「丁度いい温度」が必要なのでしょうか。
私が「国教はキリスト教」というところにポンと放り込まれるとしたら、確かに、「何もかもを捨ててキリストについていきなさい」と言われるよりは、「生活に支障を来たさない程度の」「生ぬるい」宗教を望むと思います。日本は宗教観の曖昧な国ですが、その文化の中で生きてきたものにとっては、「何時になったら何をしていてもコーラン」といったように「生活に干渉されたくない」という気持ちが強いので。
生活に干渉するからこそ宗教だという気持ちもあるのですが、本来は仏教の教えも厳しい部分があるのにもかかわらず、なんら制約をうけず生活をしているたくさんの「そういえば、うちブッディスト」という人たちと変わらないのが私個人です。
中学生の教科書に「あえて削除したものを載せる」ということは、小学生の教科書に載せるより、はるかに効果があるようにも思えます。家がクリスチャンの中学生なら、はっきりと「意図的に削除されている」という無言のメッセージを感じ取ることが出来る年齢だと思うので。(何歳から中学生の国かは拝察しかねますが。)
度々失礼致しました。そうやってなまぬるい生活を許されているうちに、軍事大国として憲法も変わっていたということのないように、宗教だけでなく、なまぬるい日本の生活観念を改めなければならない危機感のようなものを教えていただいた気がします。
本当に丁寧なお返事、というかコメントをありがとうございました。一人の人間の一つの疑問が、別の方に向けられたときに、さまざまな方向に変転・発展していくことの面白さと「恐ろしさ」(マイナスの意味ではなく)のようなものを感じました。
No.3
- 回答日時:
参考程度に
内村鑑三先生は、山上の垂訓(9)「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。」が真のクリスチャンであると考え、それを実践されましたね。
ということで、垂訓(9)は、目的がはっきりしているのですが、垂訓(8)は、言葉自身に功罪がありますね。「義のために迫害される人々」を逆に「迫害されれば義である。」として、たくさんの怪しげな団体を世に送り出している点に罪があるからですね。道徳という意味では(1)から(7)までで(8)を削除することは、悪を助長しないという意味で肯定されるべきですね。
もし、(8)を入れるのなら(9)まで入れるべきでしょうそうすれば、宗教的な間違いは減ると思います。
No.1
- 回答日時:
ご質問者様の立場と、テキストに対するご意見とが把握出来かねておりますので、通り一遍なことしか申し上げられませんが。
私自身クリスチャンではありませんが、有名なマタイ伝の5章の「山上の垂訓」ですね。
ご存じない方のために、8つの「幸い」を記しておきます。
■聖書 / 新改訳 (翻訳:新改訳聖書刊行会)■
【日本聖書刊行会 1983年 2版5刷より引用・抜粋】
1) 心の貧しい者は幸いです
2) 悲しむ者は幸いです
3) 柔和な者は幸いです
4) 義に飢え乾いている者は幸いです
5) あわれみ深い者は幸いです
6) 心の清い者は幸いです
7) 平和をつくる者は幸いです
8) 義のために迫害されている者は幸いです
【新約聖書 マタイの福音書 第5章3節から10節まで】
それぞれに、「その者が幸いである理由」が記されていると思いますが、確かに(8)の「義のために迫害されている者は幸いです『天の御国はその人のものだからです』」という一節がないと、「道徳論的」な印象が強まるのかもしれません。
ただ、「なぜ幸いなのか」という理由を挙げずに上記のような表現にすると、「義のために迫害される者は幸いです」という一節は大きな意味を持つような気がしますが、「なぜ幸いなのか」という部分まで目を向けていくと、
【同 日本聖書刊行会 新約聖書よりの抜粋残り部分】
1) 天の御国はその人のものだからです★
2) その人は慰められるからです
3) その人は地を相続するからです
4) その人は満ち足りるからです
5) その人はあわれみを受けるからです
6) その人は神を見るからです☆
7) その人は神の子どもと呼ばれるからです☆
8) 天の御国はその人のものだからです★
【新約聖書 マタイの福音書 第5章3節から10節まで】
★で最初と終わりを締めくくっていますが、☆の部分で「道徳論ではない」「キリストの教えである、聖典である」ということがはっきり分かります。
個人的には、キリスト教の聖典として読むには、むしろ「心の貧しい者は幸いです」という部分がカットされていた方が奇異な感じを受けます。
「義のために迫害されている者は幸いです」という部分だけみても、「宗教一般に通ずる」理念として見られますし、「迫害」が宗教につきものであることを歴史的に鑑みても、「迫害されるものこそが幸いだ」というのは、多くの新興宗教が引用している部分であると思いますし、
実際の所、ユダヤ教から分派した際にまだキリスト教が「新興宗教」として捉えられていた頃には、「格好の言い訳」として攻撃の的になった聖句だったのではないかと思います。
(6)(7)は、理由を鑑みなければ、立派に道徳論として捉えることは出来ますが、(1)だけは、「幸いです」と言われ、その理由を提示されても、今ひとつ漠然とした印象をノンクリスチャンは持たざるを得ないように思えます。
私が聖書を他の宗教の聖典としていいように利用したいと思ったら、(8)だけでなく(1)を真っ先に削るような気がします。「義」=「信仰」のために迫害を受けるものは幸いであるという教えは、どの宗教に対しても有効に感じられますので。
その上で(6)(7)も削るような気もします。どういった立場からどのようなテキストを使用され、(8)を削られたこと、削ったのがノンクリスチャンであることに、どのような違和感を感じられたのかがよく理解出来ませんでしたので、子どもの感想文のようになってしまいました。
さっぱり専門的な文章でなくて申し訳ありません。アドバイスでもなく、ただの感想なのですが、何かの参考になれば幸いです。
この回答への補足
非常に丁寧なお答えをありがとうございました。
「質問者の立場が分からない」という疑問は予想しておりましたが、話が複雑になってしまうのではないかと思い、省略しました。
引用されていたテキストというのは、実はある国の中学生向けの教科書です。私は関心があって、外国の教科書の内容分析をしており、原文でそれを読んでいます。その国ではクリスチャンはマイノリティであるため、政府が意図的に聖書の内容を軽んじる、利用するなどという可能性があるのかないのかを考えたわけです。
なお、この質問は個人的・学問的な関心に基づいており、何かの団体や政治的利害に関係しているわけではないことをお約束しておきます。
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