チベット社会、「匈奴」集団、鮮卑~突厥帝国、ウイグル国家、キタイ・ジュシェン・タングト社会、モンゴル国家、モンゴル以後の南北、大清帝国、
以上のことでひとつでもいいのでわかりやすく教えてください。おねがいします

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A 回答 (3件)

突厥を簡潔に説明すると、


6世紀に、現在の中央アジア~中国北部~モンゴルにかけて君臨した遊牧民族国家です。

もっと、詳しく知りたければ、こちらをご覧下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%81%E5%8E%A5
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よろしければ、ご覧ください。


「チベット→タングト社会」
http://www.wie.co.jp/drc_his/syuhenminzoku/syuhe …
「モンゴル」
http://www.wie.co.jp/drc_his/gen/gen.htm
「大清帝国」
http://www.wie.co.jp/drc_his/sin/sin.htm
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こんな感じで良いですか?



ウイグル国家
九七年九月には内蒙古の各地で「蒙古共和国」樹立を唱える暴動が発生。九八年にはトルコのアンカラでウイグル自治区からの亡命者たちが亡命政権の成立を宣言。

モンゴル国家(モンゴル帝国)
チンギス・ハンによって建設されたモンゴル人による大帝国。モンゴル諸部族を統合後、騎馬による機動的な部隊によってユーラシア各地に遠征して一三世紀前半までに、北アジアから中央アジア、南ロシアを制圧し後半には、西アジア、中国をもおさえて元の王朝を建設した。

モンゴル以後の南北
チンギス・ハンの死後、五代にわたり統合的な帝国を維持したが、領土の巨大化とともに分裂の傾向をうみ、帝国は四分割された。日本への遠征は元寇とよばれるが、一二七四年、一二八一年の二度にわたって鎌倉幕府により撃退された。東西にわたる大帝国の存在によって、ユーラシア全体に「モンゴルの平和」といわれる安定した交流が実現した。
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Q鮮卑、匈奴、烏桓は差別語ですか?

鮮卑、匈奴、烏桓など、字を見ただけで「見下している」ような印象をもってしまいます。歴史というものは完全に中立の立場で記述するのはできないかもしれませんが、そういう配慮はなされているのでしょうか?それらは、漢族の使う用語ではないのでしょうか?それらに該当し、漢族にそう呼ばれる「鮮卑」や「匈奴」の人たちは自分たちの部族のことをどう呼んでいるのでしょうか?
自分たちの部族に「卑」という漢字をつけるわけはないですよね?

Aベストアンサー

匈奴、鮮卑、烏桓(丸)という文字は、中国における正史(各王朝が、一つ前の王朝の歴史を記した正式な史書で、史記に始まる。ただし匈奴は史記以前から記述有り)などに書かれ、漢民族からみて野蛮で文化を持たない、動物に近い忌むべき異民族という意味があります。正しく「見下し」ているのです。

当時(前4世紀以降)、文字を持っていたのは漢民族だけです。遊牧騎馬民族が初めて文字を持ったのは、トルコ系の突厥で、5~8世紀頃(諸説あり)といわれています。匈奴、鮮卑、烏桓は文字の記録を残していないので、彼らの歴史は中国やインド、イラン(ペルシア)の文献が頼りです。なので、中立の立場で歴史を残すことや、両者の歴史書を付き合わせてより客観的な事実を求めることは不可能です。

彼らが自らを何と読んでいたのか、今まで多くの学者が原音を特定しようと、研究をしてきました。「匈奴」、「鮮卑」、「烏桓」という文字は、原音をもとに漢字を当てたので、古代中国語の発音から大体の音は推測できます。また、彼らはモンゴル系、トルコ系、ツングース系あるいはその混血した民族と考えられますから、それらの言語を研究の手がかりにもできます。

最近の論文はあまり読んでないので、違うかもしれないのですが、「匈奴」は「フ・ヌ」か「ク・ヌ」、「鮮卑」は「サ・ピ」か「サ・ビ」(意味はベルトのバックルという説有り)、「烏桓」は「ウラン」(モンゴル語で赤、因みにウランバートルとは赤い英雄の意)の音写ではないかということです。

以上長くなってしまいました。ついでですが、私の卒論のテーマは「烏桓族について」でした。

匈奴、鮮卑、烏桓(丸)という文字は、中国における正史(各王朝が、一つ前の王朝の歴史を記した正式な史書で、史記に始まる。ただし匈奴は史記以前から記述有り)などに書かれ、漢民族からみて野蛮で文化を持たない、動物に近い忌むべき異民族という意味があります。正しく「見下し」ているのです。

当時(前4世紀以降)、文字を持っていたのは漢民族だけです。遊牧騎馬民族が初めて文字を持ったのは、トルコ系の突厥で、5~8世紀頃(諸説あり)といわれています。匈奴、鮮卑、烏桓は文字の記録を残していな...続きを読む

Q鮮卑と朝鮮の出自

朝鮮という名称は五胡十六国の鮮卑から呼び名が来ている、というのは正しい説なのでしょうか?

Aベストアンサー

五胡十六国は紀元4世紀頃ですね。鮮卑はもっと前からあったかも知れませんが。
箕子朝鮮は殷と同じ時代という伝説がありますから、この伝説を信じるなら紀元前11世紀ですね。遅くとも楽浪郡の時代には朝鮮はありました。

Qモンゴル帝国を築いたチンギスハンがいたのに何でモンゴル後進国?

 チンギスハンからのハン一族がモンゴル帝国を築き、日本にも遠征をするほどの勢いがあったモンゴル帝国、

 しかし、今となっては遊牧民中心の後進国です。
 あれほどの勢いが何故近代にも継続されなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

モンゴルですが、チンギスハンの時代に世界帝国になりますが、その死後、オゴタイハン国・中央アジアのチャガタイハン国・ロシアのキプチャクハン国そしてイラン方面のイルハン国の4国に事実上分裂し、彼の息子や孫たちも徐々に分かれていきます。
モンゴルのリーダーを決めるのをクリルタイと言い、伝統的には末の息子が継ぐことになっています。
ただチンギスの長男ジュチは妻が略奪された時に身ごもった子なので血筋に疑問があって、次男のチャガタイと不仲という理由もあり、両者を巧く調停できる3男のオゴタイが継ぎます。
その後この4家はお互いに争ったり同盟したりしますが、フビライがその武力を背景にクリルタイを開いてハン(モンゴル族のリーダー)になり、彼の時代に中国の南宋を滅ぼし、中原の国すなわち中国になります。
中国の王朝は通例では1字ですから、国名も「蒙古」から「元」として、ご存知のように日本にも攻め寄せてきます。
ところがこの元も歴代王朝と同様徐々に中国化し、遊牧民の質実剛健な気風は影を潜め、一方でモンゴル族に従っていた他の遊牧民の心も離れ衰退していきます。
やがて1368年明により首都が落ち、元は滅亡します。
因みに日清戦争の清も同様に遊牧民の国でしたが、中国化して衰退しました。
尚ハンというのはモンゴル族の王の称号であり、一族の名前ではありません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3

モンゴルですが、チンギスハンの時代に世界帝国になりますが、その死後、オゴタイハン国・中央アジアのチャガタイハン国・ロシアのキプチャクハン国そしてイラン方面のイルハン国の4国に事実上分裂し、彼の息子や孫たちも徐々に分かれていきます。
モンゴルのリーダーを決めるのをクリルタイと言い、伝統的には末の息子が継ぐことになっています。
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Qモンゴル帝国と元について教えて下さい

鎌倉時代について勉強しています。
そこで元冦についてあったのですが、モンゴル帝国と元が意味分かりません。
日本史の教科書しかないので教えてください。

1.モンゴル帝国をいくつかにわけて、それぞれを孫が支配した。その一つが元である。
2.1271年に元ができたのに対し、日本に服属を要求したのは68年だから、モンゴル帝国の頃に服属を要求してきた。
3.なので、モンゴル帝国の頃に服属を要求→王朝にわかれて元ができる→元冦がおこる

この3つはあっていますか?

Aベストアンサー

1→正しいとは言えません。
 チンギス=ハーンによって創始された帝国(モンゴル帝国)は,もともと遊牧民の国なので土地を分け与えるという感覚はあまりなく,チンギス=ハーンの一族や配下には,土地というより「何千戸」といった単位で人間が割り振られた,というのが実情に近いところです。
 それら一族のすべてを束ねる「大ハーン」の地位は,チンギス=ハーンの死後,2代オゴタイ(チンギスの三男),3代グユクの順に継承されましたが,3代グユクの即位には一族からの反対が強く,結局グユクは暗殺され,代わってトゥルイ(チンギスの四男)の長男モンケが4代の大ハーンに即位し,このときオゴタイの一族は大半が粛清されました。
 そして4代モンケの死後,その弟であるフビライとアリク=ブカが大ハーンの地位をめぐって争い(アリク=ブカの乱),この争いは結局フビライが勝つのですが,オゴタイ一族の生き残りであるハイドゥがフビライに反旗を翻し(ハイドゥの乱),この反乱は数十年にわたって続いたことから,この間にモンゴル帝国の分裂は決定的になってしまったのです。
 したがって,モンゴル帝国はチンギス=ハーンがその孫達に分けたということではなく,チンギス=ハーンの死後に一族間の争いが起こり,いつの間にか分裂してしまったということです。

2→時系列的には正しいですが,モンゴル帝国と元が別の国という訳ではありません。
 1271年,フビライは自らの帝国に「大元」という国号を定めましたが,これは「大モンゴル帝国」(モンゴル語では「イェケ・モンゴル・ウルス」)という国名を「大元大モンゴル帝国」(ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス)に改めただけのことであり,全く別の国に変わったというわけではありません。
 フビライの実質的な支配領域は,主に現在の中国を中心とする帝国の東方地域に限られていましたが,例えばフビライの弟・フラグが建国したイル=ハン国(現在のイラン,イラクなどを支配)はフビライに服属しており,元という国号を付けた後もモンゴル帝国という建前を捨てたわけではありません。

3→正しいとは言えません。
 フビライは,1261年にモンゴル帝国の第5代ハーンを名乗りましたが,ハイドゥを始め帝国西方の一族の多くはフビライの権威に服しておらず,1268年の段階では,既にモンゴル帝国は実質的な分裂状態に陥っていました。
 そして,1271年に元が成立したというのは,前述のとおり国名がちょっと変わったというだけですから,フビライによる服属要求の時期と元朝成立の前後関係は,歴史的には何の意味もありません。
 したがって,モンゴル帝国の第5代大ハーンを名乗るフビライが日本に対し服属を要求→フビライが自らの国名に「大元」を付ける→元寇が起こるという順番の出来事だったというのが歴史的実態です。

1→正しいとは言えません。
 チンギス=ハーンによって創始された帝国(モンゴル帝国)は,もともと遊牧民の国なので土地を分け与えるという感覚はあまりなく,チンギス=ハーンの一族や配下には,土地というより「何千戸」といった単位で人間が割り振られた,というのが実情に近いところです。
 それら一族のすべてを束ねる「大ハーン」の地位は,チンギス=ハーンの死後,2代オゴタイ(チンギスの三男),3代グユクの順に継承されましたが,3代グユクの即位には一族からの反対が強く,結局グユクは暗殺され...続きを読む

Qモンゴル帝国の滅亡について

チンギスハンが興したモンゴル帝国はなぜあんな大きな帝国ができたのですか。その当時の国はどうして対抗できず滅んだのですか。また、これは教科書にもなかったのですが、なぜあんな巨大帝国が後に滅んだのですか。滅んだ過程がわかる方ぜひともお願いしますむ。中学や高校の教科書で断片的な知識しかなく、ぜひともお願いします。

Aベストアンサー

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができるのは精鋭くらいなもので、精鋭であっても錬度の面で馬上で生まれ馬上で死ぬ遊牧騎馬民族にはとてもかなわない)です。
また、都市という概念がないので食料とかもすべて(生きた状態で)持って移動していますから、「補給」という軍隊において最も重要で最も面倒くさく最も維持しにくいものを維持する必要がないため、桁外れの機動力を持ち合わせていました。
また、その機動力を余すことなく使用する戦術(代表的なものは偽装撤退。城攻めの必勝戦術でもありまして、相手に撤退すると見せかけて追い討ちさせ、それを迎え撃つという戦法です)を保有していました。
そのため、どんな強国でも優秀な指揮のもとで統制された遊牧騎馬民族にはかなわず、ホラズム(この国はモンゴル帝国の侵攻直前まで領土を拡張し続けており、決して弱い国ではないのです)や金も、敗北しています。ちなみに、この強弱関係がひっくり返るのは火器が積極的に導入されてからです。

しかし、滅びたのもまた遊牧騎馬民族である面が大きい、ともいえます。
遊牧騎馬民族というのは、都市の概念がないですから、そもそも「国」という概念が希薄です。
それをかなり変えたのはやはりチンギスなのですが、それでもモンゴルの伝統である末子相続(つまり末っ子が遺産を引き継ぐ)、そして後継はクリルタイという族長会議で決定(ただ、このクリルタイ、モンゴル帝国では2年くらいかかるんです・・・なにせ、あの広い領地から集まってくる上、このクリルタイも半分宴会みたいなものでして・・)というのがありました。
そのため、チンギスは生前に嫡子4人に領地を分配します。長男であるジュチ家(後のキプチャクハン国)、次男であるチャガタイ家、三男であるオゴタイ家、そして四男であり、モンゴル高原を直接的に保有するトゥルイ家です
そして、三男のオゴタイが継ぎました。しかし、その次が問題でして、グユクというのは酒癖も悪く評判が悪かったのですが、母親の根回しもありハーンとなりました。しかし、これを一番嫌ったのが長男家の当主で一族の長老であったバトゥ(また、四男家も、譲歩したとはいえ面白くはなかったようです。逆にグユクの側にいたのが次男家)。グユクは彼に暗殺されたとも言われています。
その後、トゥルイ家のモンケが継ぐのですが、これが面白くなかったのがチャガタイ家とオゴタイ家。このあたりから兄弟家の間での不和が表面化します。
そして、日本でも有名なフビライの代で分裂は決定的になります。彼は、いままでの方針を破って、全族を集めないで(支持者だけを集めて)クリルタイを行った上で即位、また即位を宣言した弟を倒して、ハーンとなりました。これが気に食わなかったのが長男、次男、三男の家。とくに三男の家当主であるハイドゥとは軍事衝突に発展しています。
そうなると、もうあとは各地の地方政権ですから、ほかの歴史上の国と同様、隣国、兄弟家同士でたたきあったり(オゴタイハン国はチャガタイハン国に叩かれて消滅)、支配民族が反乱を起こしたり、ほかの異民族に倒されたりで、消滅していきました。

また、モンゴルの政権といってもほとんどその妻は現地人のため、代を重ねるにつれどんどんモンゴル人から離れていって、しまいにはハーンがイスラム教徒になってハーン位を捨てたり、はてまたキリスト教に染まったり・・
そういう具合に、自然とその地に溶け込んで、消滅していったのです。

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができ...続きを読む


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