プロが教えるわが家の防犯対策術!

生きているうちに座禅を組んでは無の境地に至ろうとする輩がおりまする。
まったく愚かであると言わねばなりませぬ。
何故なら人は死ねば自ずと無になるからでございまする。
人は死ねば好むと好まざると無になるのでございまする。
その無とは完全なる無でございまする。
その無とは完全なる無である故、生きている人間がどーあがいても決してたどり着くことのできない完全無欠なる無なのでございまする。
それゆえ生きているうちに座禅を組んでは無になろー無になろーとしても無駄なのであり、またその必要さえないのでございまする。
さてさて生きているうちに座禅を組んで無を求めても無駄ではございませぬか?

A 回答 (14件中1~10件)

質問を拝読させて頂きました。



それは、個人が決める事ではないでしょうか?

私には、これしかお答え出来ません。
    • good
    • 0

瞑想とは、どの様な心の状態を言うのでしょうか。

また、瞑想をすると、悟りが開けるとはどう言うことなのでしょうか。

 目覚めている時、自由自在にはこの宇宙を体験することは出来ません。五感から入ってきた刺激に基づいて、外界を心の中に再現するからです。しかし、眠っている時、貴方は五感から解放され、自分の欲求・悩み・記憶等に導かれ内界を作り出します。これが夢です。

 夢であっても、花びらの鮮明な色や、その1枚1枚の形を克明に見ることが出来ます。木々の葉っぱの1枚1枚が風に揺れている様を見ることが出来、その葉っぱの擦れ合う音を聴けます。風や太陽の光を感じます。夢の中に出て来た人の声を、はっきりと聴けます。起きている時と全く同じなので、起きているのかこれは夢なのか判断が付きません。

 しかし、眠っている間は、記憶する機能も眠っているので、それだけ鮮明な夢であっても、憶えておくことは出来ません。漠然とした断片的な印象が残っているだけです。

 瞑想とは、起きていて夢を見ることです。起きているので、その夢を自分の意思でコントロールすることが出来ます。夢は、自分の意思とは関係なく進んで行きます。しかし、瞑想では、望む人に出会い、会話を楽しみ、望むものに触ることが出来ます。その感じは、起きている時と何ら変わりありません。また、記憶する機能も働いているので、瞑想を止めてもその事を記憶しています。

 瞑想により、貴方は本当はこの宇宙そのものであったことを悟ります。貴方の心がこの宇宙を作り出していることを理解します。海の彼方を探さなくても、輝くものは私の中にあったのです。 今まで私だと思っていた存在は、私の中の小さな一人に過ぎなかったのです。

 ではどの様にしたら、起きていて夢を見ることが出来るのでしょうか。
 それには、先ず座ることです。横に寝てしまっては、本当に寝てしまうからです。そして、ほんの少しだけ目を開けます。僅かで構いません。眠ってしまうのを防ぐだけで良いのです。

 そして、臍の下10cm位の所を軽く意識します。思考している時、意識は上の方にあります。何かを考えて、意識を脳の位置に持ってくると、瞑想の状態には入れません。何も考えず、全てを捨て去ります。すると、意識は、次第に下に降りて来ます。

 悩みも欲も何かをしなければならないと言う意識も、全て捨て去ります。自分自身も捨てて下さい。何も要りません。何もしません。自分もいりません。瞑想に入らなければならないと考えてもいけません。何かを感じようとしてもいけません。すると、次第に眠くなって来ます。それを、僅かに目を開いて、ただ本当に寝てしまわない様にするだけで良いのです。

 そうしていると、後ろの頭頂部の辺りで、音が響いてきます。その音は、瞑想の都度異なります。私の場合は、ピアノの音であったり、お経の声であったりすることが多い様です。その音に耳を澄ませます。それは、次第に大きくはっきりとした音になってきます。

 すると、今度は、額の中央の辺りで、ひっきりなしに動き回っているものを感じます。大きさは一円玉位です。ウニの様に、何本もの黒い枝が伸びたり縮んだり様々な方向へ向いたりと、不規則に激しく動いています。その動きを妨げてはいけません。思考すると、その枝を操作することとなり、動きを止めてしまいます。それは、動きを止められると消えてしまいます。

 その動き回るものは、全てになります。言わば世界の種です。それに頼り切って下さい。思考することは「自力本願」です。思考を止めて、私の全てをその動き回るものに委ねます。この世界の種に頼り切ることを、「他力本願」と言います。

 その動き回るものに私を預け切っていると、それは次第に大きくなって行きます。その黒い枝の1本1本は、家や木や池や石などあらゆる存在にせわしなく絶えず変化しながら、絶えず動き回る様になります。そして、どんどん大きくなって行きます。

 すると突然、広々とした空間が開けます。今までせわしなく変化していた存在の中に、私が入り込んでしまっています。私は、一瞬にしてそれに吸い込まれました。せわしなく動き回っていた1本1本の黒い枝は、実際にその空間の中で家になり、車になり、木になり、池となっています。 そして、無秩序に動き回っていたその存在は、車として規則正しく動き、木の葉として秩序通りにそよぐ様になります。 私がドアを開けると、ドアは動きます。私の行動に合わせて因果関係通りに、それは動く様になります。今まで、後頭部で鳴り響いていた音は、風の音や人の声となっています。これが瞑想状態です。

 この世界は現実の世界ではないと言う意識はまだあります。しかし、現実の世界と全く変わりません。起きていて、広い周りを見渡している時と全く同じ状態です。風が吹くと髪がゆれ涼しく感じます。車の音も聞こえます。振動も感じます。すがすがしい空気を、深呼吸することも出来ます。  会いたかった人に会うことも出来ます。その人の肌は、ぷよぷよとした感覚があり毛穴まで見えます。話もします。

 瞑想状態に入ってしまうと、もう思考しても大丈夫です。瞑想から醒めることはありません。私は、自由自在にその世界で思考し、活動することが出来ます。この世界は私そのものです。この木も家も宝石も人も、私の欲しいものは既に私のものです。私は、こんなにすばらしい世界を所有しているのです。これが本当の「あの世」です。

 瞑想から醒めるには、その世界で大きく息をし伸びをして、頭を振って眼を覚まそうとします。 そうすると、現実の世界に戻ることが出来ます。
 しかし、目の覚めたこの世界も、私の心が作り出しているのです。 実は、瞑想状態の世界と同じものです。一度、瞑想の世界を経験すると、現実の世界全体も、私の心が作り出したのであり、私自身であることを理解します。

 今まで私だと思っていた一人は、「小さな私」であったことが分かります。感じている世界全体が、大きな私です。
 生きとし生けるものは貴方自身です。ですから、それらに博愛を注ぐことが出来るのです。 他人も貴方自身です。ですから、汝の隣人を愛することが出来るのです。 敵も貴方の一部です。ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。
 これが、悟りの内容です。 この世の全ては貴方の物です。ですから、幸福なのです。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/meisoutohananika.html
    • good
    • 1
この回答へのお礼

心とは何でしょーね。
その心は一体いつどこから生まれたのでしょーね?
その心は死んだ後も残るのでしょーか?
死んだ後も残るとすればどこにのこるのでしょーか?
死と生はどー違うのでしょーね?
自然の成り行きってことではダメですか?

お礼日時:2018/05/06 23:19

ごめんなさい。

ホラ吹きさんと間違えました。
複数同時に質問回答していると、混雑して、脳内ぐちゃぐちゃ、こりゃもう一回さ取らなきゃ足りないやぁ。

担ってしまいますから。


お名前を間違えるなど、大変失礼をば致しました。

どうぞ平にご容赦ください

m(_ _)m
    • good
    • 1

ご回答有り難うございます。



horahukiさん

賢人の域かとお見受け致し候。

さて
あるけいほんがん 神様
は、今後どのようにされることを貴方とともに臨むのでしょう

gooにて質問されるだけですか?
それとも広めようとされている、のでしょうか?

もしくは、この場で誰かに出会う因果の時を待っている とか?

何度かお見かけしましたが、
世直しのために活動されているのであれば、
私もしたいと思い生きていますので、どうぞお仲間に加わり、お加えください。

よろしくご検討のほどを
よろしくお願い申し上げます。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

>それとも広めようとされている、のでしょうか?

広めよーなどと考えなくても、正しいものは自然に広まるってゆー・・・
そのよーなスタンスでございまする。

お礼日時:2018/05/04 12:37

無を求めるかどうかはさておいて、生きているうちに幸せになるのはええこっちゃ。

    • good
    • 2

ふむ、座禅.



かつての神仏代行者、
釈迦クラスの人
達は、座禅で死後の世界にも触れれました。
悟りを開くとは、もっと壮大、宇宙スケールの物の見方に近づける気がします。

まぁ、私も悟っとるわけですか''
訳あって、内容はこれ以上お話できません。
自ら自らを見つめ、
人となる、人 となり 磨く。
頑張ってくださいね。

哲学板の 賢人候補達ょ。

のちの代の、世界を動かせしもの達と、称えられるのは、貴方達..

無明!光明!

探し見つけたり!

インスピレーションは、無に近づくほど湧きますよ。

何故なら。

エルミルシスティーア


アカシ. っく、とは
永遠
    • good
    • 1
この回答へのお礼

哲学するうちに分かったことがございまする。
それは座禅をすることでもなく、無を求めることでもございません。
それは人の道でございまする。
人の道とは何かについて探求するのでございまする。
その結果辿り着いたの有瑠慶本願でございまする。
信仰に関して申し上げるならば、万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神もございませぬ。
悟ったのでございまする。

お礼日時:2018/05/04 12:19

座禅はただ雑念を払う為にあるのでは? 涅槃の境地もいい気分だっただけかも



いい気分で考えればいい考えが浮かぶ と言うのではないでしょうか

人間の体は動物ですから 動物を食うのは食物連鎖で仕方ありません

でも人間の精神は違う 人間精神は無駄に生き物を殺さない

座禅にしても賛美歌でも嗜みにはいいが それが目的じゃない。
    • good
    • 1

座禅など意味ありません。



禅宗は、字も読めない武士の為の宗教
だったので、座禅すれば、良い、という
ようにしただけです。

座禅を続けていれば、エンドルフィンが
出て恍惚になることがありますが、
だから何?

座禅して、瞑想すれば、多少健康に良い、という
だけです。
    • good
    • 1

>いやいや座禅を組む者はみな無になろー、無になろーとして座禅を組んでおりまする。


いや、だから違うって
もちろん宗派によるけど
一般向けの座禅はただの精神集中や自分を見つめなおしたりするために行うものですよ
    • good
    • 1
この回答へのお礼

色即是空空即是色などと考えつつ無になろー無になろーって座禅を組むのでございまする。

お礼日時:2018/05/03 18:13

>座禅をするとは漬かることでございまする。


言っている意味分かりませんが
最初あなたは「生きているうちに座禅を組んでは無の境地に至ろうとする輩がおりまする。」
と言っていますが、そもそも無になるために座禅をのではないので
そもそもが間違っていますよ?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

色即是空空即是色。 
いやいや座禅を組む者はみな無になろー、無になろーとして座禅を組んでおりまする。
ところが現実は逆で無になろー、無になろーと願う者ほど無にはなれないのでありまする。

お礼日時:2018/05/02 16:46

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!