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哲学でこれ以上、神や仏が何たるかについて語るのは無意味なので止めませう。
何故ならこの問題については既に答えが出ているからでありまする。
まず第1に神は仏であり、仏は神であるってことで既に答えは出ているのでありまする。
第2に神は宇宙の法則であるってことで、これも既に答えは出ているのでありまする。
第3にその神とは万物の根源、宇宙の法則、アルケーであるってことでこれも既に答えが出ているからでございまする。
このよーに神や仏については全て答えは出ているのでありまする。
それゆえこれ以上、神や仏が何たるかについて語るのは無意味なのではありませぬか?


教えて!goo グレード

A 回答 (10件)

この世は物質と精神で構成されています。

もし、この世は物質のみで構成されているとしたら、私は何も感じないでしょう。

熱いとか赤いと感じている主体が私です。熱いとか赤いと言う感じは、幾ら高性能な顕微鏡で脳の中を覗いても見えません。物質が、熱いや赤いに対応する動きをしているのが見えるだけです。
その動きの刺激を受けて、精神である私が熱いとか赤いと感じているのです。
熱いや赤いは物質ではないので、それを感じている私も物質ではありません。私は、無限の感受性である精神です。

物質の全体を宇宙と言います。質問者さん、それでは「精神の全体」を何と呼んだら良いでしょうか。

そして、この世の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果が原因となり更に結果を生じると言う形になります。
従って、宇宙の始まりは原因なくして結果を生じなければなりません。つまり、無から有を生じなければなりません。しかし、それは不可能です。

一方、精神は物質を動かすことが出来ます。精神である私は物質である手を動かすことが出来ます。ですから、宇宙の始まりにおいて最初に動いたものは、「原因から自由な精神」以外にはありません。

質問者さん、この「宇宙を創造した精神」を何と呼んだら良いでしょうか?

 ユダヤ教・キリスト教では、外界は神が創造したと信じます。
 ここに物が落ちたのは、ここに落ちるように、宇宙が作られているからであると考えます。そして、どうしてここに落ちたのかを追求し、 物体は外から力が加わらなければ、そのまま飛び出した方向へ等速運動を続けるが、落下距離は時間の2乗に比例する為、 放物線を描いて地上に落下し、ここに落ちたことを発見します。
 宇宙で起る全てのことは、必然であり意図されたものであると考えます。ですから、一見偶然に思える事柄に対しても、 必然であると確信し、その仕組みを解明しようとします。
 ある天才は、「神はサイコロを振らない。」と言いました。 これは、現象を確率で説明しようとする態度に対して、必然な説明をしなければならないと批判したものです。
 この様に、西洋では神が宇宙を創造したと言う確信により、自然科学は発達して来ました。

 それに比べて、東洋では仏が宇宙を作ったとは考えません。精神の中に仏が存在していると考え、内心の仏を追求します。
 宇宙は偶然出来たと考えます。物は色んな所に落ちます。物がここに落ちたのは偶然だと考えては、 落下の法則や万有引力の法則は思いつかないでしょう。
 無神論も同様です。ハッキリと必然と分ること意外は偶然であると考えたのでは、人に先駆けて新しいものを発見することは出来ません。


 神を持ち出すと、単純に非科学的であると非難する方が居られます。しかし、科学で全ての現象を説明出来るでしょうか。
 第一、物質の因果関係のみでは、宇宙の始まりを説明することは出来ません。 物質の因果関係は、原因→結果=原因→結果=原因→結果・・・と続きます。原因があり、その為に結果が生じ、 その結果が原因となり次の結果が生じると言う順番となります。
 しかし、これでは最初の原因が存在出来ません。その最初の原因は、何らかの原因により生じなければなりませんが、それがありません。 物質のみでは、宇宙の始まりを説明できないのは自明のことです。

 また、コインのゲームを考えて見ます。コインを縦に立て、倒れて表が出れば私が勝ち、裏が出れば貴方が勝ちます。 科学では、このゲームで私が勝つ確率は50%、負ける確率も50%としか言えません。 しかし、現実にはどちらかが勝ち、掛け金を全て手に入れます。それを決めるのは何でしょうか。
 これと同じことは、素粒子レベルでは無数に起っています。完全に均衡している状態で、僅かな力が加わり少しの不均衡が生じると、 不均衡が不均衡を呼び次第に大きくなり、終にはコインは倒れます。

 確率は50%ですが、ほんの僅かな力が加わることで、表が出たり裏が出たりする。その為に、ある者は人生で成功し、ある者は失敗する。 その僅かな力が精神である可能性はあります。

 精神である私は、物質である手を動かすことが出来ます。肉体は動かすか動かさないかで物的に均衡した状態にあります。 ほんの僅かな精神の力を、物的に均衡した物質(脳)に加えることにより、手は動いたり動かなかったりします。 この様に、精神は物質を動かすことが出来ます。

 単なる偶然の連続で、この宇宙は進行しているのでしょうか。それとも、何らかの意図があり、僅かな精神の力が加えられているのでしょうか。

正しい知識を得るには、全てのものを疑うことの出来ない自明なものなのか否か問いかけることが必要です。 デカルトは、この方法的懐疑により、全ての知識を自明なものか否か検証して見ました。
 その結果、自明なことは唯一つしかないことが判明しました。それは、全てのものを疑っている自分が存在することだけは 疑うことが出来ないと言うことでした。 「我思う故に我あり。」です。それ以外は、正しいと思ってはいたが、そう思っていただけであることが分りました。 これが「無知の知」です。

 しかし、自明なものしか信じないのであれば、そこまでです。そこから先は、何を信じるかによります。
 心は、その中に宇宙を作り出しています。私たちが感じている宇宙は、心の外の宇宙ではありません。心が作り出した宇宙です。 心の外を覗くことは不可能です。心の外に、宇宙があるのかどうかも分りません。
 しかし、心は外界に似せて、心の中に世界を作り出しているのです。心の中では、1+1=0でも、1でも3でも何でも構いません。 心の中に在るものは、消えたり生じたりします。従って1つと1つ在ったものが消え去り0となっても良いし、 新しく生じて3になっても良いのです。決して増えもせず減りもしないと前提して、1+1=2としなければならない必要はありません。

 しかし、外界では、無から有は生じませんし、有が消滅して無となることもありません。エネルギー保存の法則が成立します。 従って、1+1=2でなくてはなりません。
 心が1+1=2に制約されている事実は、心の中の世界は、外界に出来る限り似せて作られていることを証明しています。 外界に1+1=3を適用すると、その行動は誤りであり、失敗するからです。
 従って、外界には、心で感じている様な世界が存在することを前提とせざるを得ません。

 宇宙の仕組みを完全に解明した時、物質だけでは説明出来ないことが残されたら、神の存在を証明したことになります。  この様に、宗教は全く科学的な態度であると言えます。

「神の存在」について、私のホームページに纏めました。是非ご参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/syuukyouhahikagakut …
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この回答へのお礼

>質問者さん、この「宇宙を創造した精神」を何と呼んだら良いでしょうか?

なぜ宇宙は創造されたものと分かるのですか?
誰が宇宙を想像したのですか?
いつ宇宙は創造されたのですか?
宇宙は創造されたのではなく既に存在していたのではないのですか?

お礼日時:2018/05/10 21:15

ぷよぷよというゲームを対戦でやっていると、ものすごい数のなにかが降ってきた、みたいに感じます。

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デカルトが神の存在証明とかやってしまったのが悪い。



カントは純粋理性の可能性と限界を真面目に考えて、よく定義してくれたから、カント以降の哲学を良く学習し、自らの哲学もカントを見習うよろし。

理性をネガティブに扱うポストモダンの哲学だって、カントがおらんかったら誕生せんかったと思う。与党がいなくちゃ野党が成立しない、ってのと同じ屋根。
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★ (№6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


(あ) 一般絶対性、個別絶対性、特殊絶対性といろいろ出ておりまする。

(い) その上で《神を感じる》は特殊絶対性として成り立つのであれば、
《神を信じる》は何において成り立つのでしょーか。

(う) 《神を信じる》は一般絶対性として成り立つ? 個別絶対性とし
て成り立つ?

(え) それ以外に、一般相対性、個別相対性、特殊相対性とか出てくる
のでしょーか?

この際だから全部語ってみなはれ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (お) (え)の《相対性》は すべて《相対性》一般です。光速度
も 相対的なものですから。


(か) 《感じる》は 感性・感覚(センスス)が人びとのあいだで互い
に共通(コムニス)であると見なされています。

(き) ですが 神は 超経験であり《非経験の場》です。経験世界にお
けるいかなる座標によっても捉え切ることはできない。

(く) ならば その神を《感じる》というのは 人びとの間でどのよう
に共通の出来事であるのか?

(け) むろん 神を《知った・認識した・その声を聞いた・姿を見た》
ということも――そう言うひとがいたとしても―― 人びとにとって一般
的であるかどうかが分からない。

(こ) だから 《神を見た・感じたうんぬん》の主観〔としての神観〕
は 神という絶対性について 《一般的》ではない。

(さ) そして確かに《主観》がそういった神観を表わすのであるからに
は 個別の絶対性にかかわっているのだけれども その個別絶対性に付属
したものごとが やはり《一般的》ではない。

(し) つまり 誰もが神を見たわけではない。ゆえに そのような見神
なる主観は 特殊絶対性に属する。





(す) 《信じる》とは どういうことか?

(せ) 《非経験の場》なる絶対性が――《非知》として―― 人間たる
われにカカハリを持つ。

(そ) 人間どうしのヨコの関係とは別の 言わばタテの関係である。

(た) ヨコの関係は 互いに相対的な存在として カカハリを持ちさら
に経験的にマジハリを持つ。

(ち) タテの関係は 片や人間として相対存在なるわれであり もう一
方は 絶対性なる神である。

(つ) つまり われわれなる人間は 何もしなくても――生まれ落ちた
そのままの存在で――すでに この非知なるナゾとのカカハリをまぬかれ
ていない。
絶対性をまぬかれる者はない。




(て) あとは このカカハリまたはナゾを――けっきょく人間にとって
は無条件で(それが 絶対・対・相対のカカハリである)―― 受け留め
ていることに気づくだけである。

(と) ただし 人間は 相対的な存在であるゆえに この《非知なるナ
ゾの受け留め》にあたって 承知することも拒否することも 自由にする
ことが出来る。

(な) 《相対的な存在であるゆえに》とは 非知なるナゾの正体を知ら
ないということであり その神が 《有る》とも《無い》とも いづれと
も分からないという意味である。

(に) 分からないなら 或る人びとは 《有る》という人間の言葉で受
け留め またほかの人びとは 《無い》として受け留める。どちらも 自
由である。同等である。


(ぬ) 《有る神》派も《無い神》派も それぞれそのように表現して非
経験の場なる絶対性を 《わが心に無条件に受け容れた(つまり信じた)》
ということになる。


(ね) 有神・無神を問わず また有神の神がいかなる名であるかを問わ
ず 非経験の場なる神は 絶対性であるからには 同じひとつの神である。
これは 《普遍神》である。

(の) 普遍神が成り立つことを 一般絶対性とよぶ。

(は) ただし 一般絶対性は 個々の人間たるわれにおいて 成り立つ。
この現実性を捉えて 《個別絶対性》としても規定する。
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★ (№5お礼欄) なぜなら神は信じるものではなく、「感じる」


ものだからでございまする。
☆ 《感じる》というのは あくまで《主観》の内部でのお話です。

つまり 一般性ないし普遍性にまで広げるには その是非を判定す
る基準を人間は 持ち合わせていないのです。

だから 《神を感じる》という場合は ひとりの主観内部における
神観であり 特殊絶対性として成り立つかたちです。

一般および個別の絶対性について理論立てないと 普遍神について
は なお人びとに分かりがたいでしょう。
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この回答へのお礼

一般絶対性、個別絶対性、特殊絶対性といろいろ出ておりまする。
その上で《神を感じる》は特殊絶対性として成り立つのであれば、《神を信じる》は何において成り立つのでしょーか。
《神を信じる》は一般絶対性として成り立つ?個別絶対性として成り立つ?
それ以外に、一般相対性、個別相対性、特殊相対性とか出てくるのでしょーか?
この際だから全部語ってみなはれ。

お礼日時:2018/05/09 09:58

神の理論をプレゼントしましょう。




〇 一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教の
絶対的批判


0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標
や場を超えている。ゆえに 想定していざるを得ない。


1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍(はた)
から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。
〔(5)に見るごとく神は 《非知》ゆえである〕。

1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これ
は・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。
〔(9)以下の個別絶対性を参照されたし〕。

2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出
かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念
としてのみ扱った場合に限る。
(思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。或る種の信念を形成す
るかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない)。

3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つ
まり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言(うわごと)である。主観の
外に出かけているから。
つまり 神なる概念の弄びである。宗教に 存在理由は無い。主観のおままご
とは せいぜい一個人の内面までにとどめなさいと言われなければならない。




4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え 
因果関係から自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう
想定する。

5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

  経験事象(相対世界について経験合理性にて認識する)

    可知(認識しうるものごと)

      既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)
      未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)

    不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと。証明が間
      違っていたということもあり得る)

  非経験の場(絶対性)

    非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。不可変である)


6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において
――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》
が成る。
ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何もの
かの自覚が起きる。

  【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド;ヒラメキ・良心
  -----------------------------
  【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 
  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス


7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:
マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよ
ぶとよい。または 《霊霊一如》である。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
   霊:われ(自然本性 +α )

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

8. したがって これら前項の神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし
非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。
非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。名が違うのみである。
また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての
互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は 経験世界の有る無
いを超えている)。
――これが 《一般絶対性》である。





9. 《個別絶対性》とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれと
の関係》をめぐっての説明となる。

10. というのは 普遍神をよぶ名前がひとによって異なっているだけでは
なく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想
定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人
間には分からないからである。

11. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由と
いう内容につながっている。
目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだ
が その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対
性のもとに そのように一般化され得る。
また 個人ごとの個別絶対性として とうとばれる。つまり 信教・良心の自
由。


12. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカ
カハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまり
は 一般絶対性理論――からみちびかれる。


13. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》
が――生身の人間にとってゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 《特
殊絶対性》という側面もが 捉えられる。

13-1. 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらに
なお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。おれは 現人神だ
と言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。特殊絶対性は
それぞれ神観として――内面にて――持たれ得る。・・・ダ・カーポ。



14. ちなみに 信仰から得られた観想を――その一定の人の神観としての
自己表現から外に出て――倫理規範とし・また世界観にまで展開したのは 宗
教のオシヘである。

15. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての
神観にとどまることをすり抜けたオシヘというのは すでに人間の言葉で考え
表現した《思想》である。神という言葉をまじえた経験思想なのである。
信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。
普遍神という正解をみちびくためにと人間が引いた補助線である。


16. ところが もし宗教がこのオシヘをかかげ 他人に向けて 無条件に
受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くなら やはり いまの絶対性理
論の外にある。
オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》と
は 何の関係もない。


17. 神とわれとのタテの関係である神観(特殊絶対性)を われわれなる
ヨコの人間関係の世界に持って来て その倫理(つまり 良し悪しを認識した
人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。た 
だしこれは 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。

18. 絶対性を人間の認識の中に採り込みヨコに寝かせた神観 この神観を
まじえた経験思想たる世界観 このようなシュウキョウは 神論ないしタテの
信仰関係にかかわって口を出してくるなら 絶対性を知らない者の道楽か・ま
たは ただの商売である。
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この回答へのお礼

>3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つ
まり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言(うわごと)である。主観の
外に出かけているから。

その通りただの譫言(うわごと)でございまする。
なぜなら神は信じるものではなく、「感じる」ものだからでございまする。

お礼日時:2018/05/09 08:34

表題には賛成です


質問内容には賛同できません

ここの連中はなんで哲学と神を紐づけするのか理解できない
、、、とまでは言いませんが
過去の時代背景や歴史、考え方を無視して
何故今の自分の価値観で神を語るのか?
何がしたいのか?
何を求めてるのか?
本気で解らない

突き詰めると現存する神や仏を否定する事しかしてない
その先へ至る気が有るのか無いのかすらわからん
ホント、良く解らん連中だと思います
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この回答へのお礼

>ホント、良く解らん連中だと思います

ホント、良く解らん連中だ。

お礼日時:2018/05/08 23:15

人間はなんであるか、良く生きるとはなんであるかを考えるとき、神や仏の話がでてきます。



宗教は大地から生じるようなもの、哲学は大地の上で営むようなもののようにおもいます。

その界面をうまく知りたいと思っていたのですが。
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その言い回しはなんでありまする?

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この回答へのお礼

言い回しのことではございませぬ。

お礼日時:2018/05/08 21:44

無意味なことに情熱を注ぐのが人間です。

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