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〇 一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教の
絶対的批判


0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標
や場を超えている。ゆえに 想定していざるを得ない。


1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍(はた)
から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。
〔(5)に見るごとく神は 《非知》ゆえである〕。

1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これ
は・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。
〔(9)以下の個別絶対性を参照されたし〕。

2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出
かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念
としてのみ扱った場合に限る。
(思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。或る種の信念を形成す
るかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない)。

3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つ
まり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言(うわごと)である。主観の
外に出かけているから。
つまり 神なる概念の弄びである。宗教に 存在理由は無い。主観のおままご
とは せいぜい一個人の内面までにとどめなさいと言われなければならない。




4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え 
因果関係から自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう
想定する。

5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

  経験事象(相対世界について経験合理性にて認識する)

    可知(認識しうるものごと)

      既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)
      未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)

    不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと。証明が間
      違っていたということもあり得る)

  非経験の場(絶対性)

    非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。不可変である)


6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において
――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》
が成る。
ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何もの
かの自覚が起きる。

  【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド;ヒラメキ・良心
  -----------------------------
  【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 
  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス


7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:
マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよ
ぶとよい。または 《霊霊一如》である。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
   霊:われ(自然本性 +α )

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

8. したがって これら前項の神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし
非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。
非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。名が違うのみである。
また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての
互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は 経験世界の有る無
いを超えている)。
――これが 《一般絶対性》である。





9. 《個別絶対性》とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれと
の関係》をめぐっての説明となる。

10. というのは 普遍神をよぶ名前がひとによって異なっているだけでは
なく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想
定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人
間には分からないからである。

11. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由と
いう内容につながっている。
目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだ
が その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対
性のもとに そのように一般化され得る。
また 個人ごとの個別絶対性として とうとばれる。つまり 信教・良心の自
由。


12. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカ
カハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまり
は 一般絶対性理論――からみちびかれる。


13. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》
が――生身の人間にとってゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 《特
殊絶対性》という側面もが 捉えられる。

13-1. 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらに
なお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。おれは 現人神だ
と言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。特殊絶対性は
それぞれ神観として――内面にて――持たれ得る。・・・ダ・カーポ。



14. ちなみに 信仰から得られた観想を――その一定の人の神観としての
自己表現から外に出て――倫理規範とし・また世界観にまで展開したのは 宗
教のオシヘである。

15. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての
神観にとどまることをすり抜けたオシヘというのは すでに人間の言葉で考え
表現した《思想》である。神という言葉をまじえた経験思想なのである。
信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。
普遍神という正解をみちびくためにと人間が引いた補助線である。


16. ところが もし宗教がこのオシヘをかかげ 他人に向けて 無条件に
受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くなら やはり いまの絶対性理
論の外にある。
オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》と
は 何の関係もない。


17. 神とわれとのタテの関係である神観(特殊絶対性)を われわれなる
ヨコの人間関係の世界に持って来て その倫理(つまり 良し悪しを認識した
人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。た 
だしこれは 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。

18. 絶対性を人間の認識の中に採り込みヨコに寝かせた神観 この神観を
まじえた経験思想たる世界観 このようなシュウキョウは 神論ないしタテの
信仰関係にかかわって口を出してくるなら 絶対性を知らない者の道楽か・ま
たは ただの商売である。 


☆ 見解を述べられたし。添削・批判そして賛同をどうぞ。

A 回答 (4件)

神に人格があるとは思えないね。


言葉や単語を並べて神を記述することは無理と思う。
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この回答へのお礼

どこで わたしは:
★ 神に人格がある
☆ と言っていますか?


☆☆(趣旨説明欄) 0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようと
しても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 想定していざるを得ない。
☆ すなわち 神は 人間を超えています。

そのような・いわゆる人知を超えた何ものかについて どうして《人格がある》
とか《人格がない》とかが分かるのですか?



また それでも:
☆☆ 想定していざるを得ない。
☆ と言っています。
つまり:
★ 言葉や単語を並べて神を記述することは無理と思う。
☆ については 《想定》なのですからそれは 人間やその生きる経験世界に
ついて記述するように 《人間の言葉で記述する》とはどこにも言っていませ
ん。

言いかえると 《想定》にもとづき――あるいは仮説法(アブダクション)に
もとづき――そのかぎりで 《記述》しているのです。

記述そのものは 人間の言葉で表現しているのですから 同じかたちです。


すなわち:
〇 神は 《人格がある》とも《人格がない》とも――人間には――分からな
い。

〇 神は 《人間がその言葉で記述することが出来る》とも《出来ない》とも
いづれとも 分からない。

☆ このような前提を立てて・その限りで《記述》しています。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/05/15 03:09

賛同。

でよろしいかと思います。よろしくお願いいたします。
状況的な一面として、この絶対せいを信ずるときに、
神を信じない あるいは、むしんろんの自由として、正統性を持てるものと読んで差し支えないのではないかとも思いました。

もちろん、宗教者には、信じがたきこととは思われますが、
哲学的 一方向性、として今後か確立可能なのではないかとも思います。

私はこれ以外に、いくつかの方向性を納めた、集合表を持っています。
色相表12原色図
アストラルスフィアと呼ぶ、右脳提示型の、グラフのようなもの。
是非この方向性も加えさせていただきと思いました。

高尚なる論理の公表、ありがとうございました。

紫のさん
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 賛同。でよろしいかと思います。よろしくお願いいたします。
☆ 最近では めづらしくと言いますか 賛同してもらえるのですね。
ありがとうございます。そして こちらこそ よろしくお願いいたし
ます。。


★ 状況的な一面として、この絶対せいを信ずるときに、
神を信じない あるいは、むしんろんの自由として、正統性を持てるも
のと読んで差し支えないのではないかとも思いました。
☆ ええ。ヘンなたとえを用いるなら 有神論と無神論とは けっきょ
く――タテの関係において―― 互いに背中合わせに立っているという
ようなイメージです。


★ もちろん、宗教者には、信じがたきこととは思われますが、
哲学的 一方向性、として今後か確立可能なのではないかとも思います。
☆ 重ねてありがとうございます。

宗教は やりたいことをやって来たという時代を葬り去って行って欲し
い。


★ 私はこれ以外に、いくつかの方向性を納めた、集合表を持っていま
す。
色相表12原色図
アストラルスフィアと呼ぶ、右脳提示型の、グラフのようなもの。
是非この方向性も加えさせていただきと思いました。
▲ アストラルスフィア( Astral Sphere ) ~~~~~~~
https://www14.atwiki.jp/gundamwar-novel/pages/83 …

Colors of Fateのキーワードの一つである。日本語名は精神宝珠と書く。

選ばれし覚醒者のみが使える魔法のようなモノである。実際はこの世
の理を 破壊する事で各自が使える特殊能力である。また使える者は魔
法使いと呼ばれる。
~~~~~~~~~~
☆ これとは違うようですか。


★ 高尚なる論理の公表、ありがとうございました。
☆ いいえ。どういたしまして。

★ 紫のさん
☆ 分かんない。

お礼日時:2018/05/09 15:49

公僕としての僕はあまり一般的ではないですか。





祈るとき、他人に見せるように祈るいのりかたの国と、他人から隠れて祈るのがあたりまえのものもあるように思います。
プラトンさんが書いているところは、祭壇は公の場所のみにあって、個人の家の中にあるべきではない。


イスラムのひとびとは、できることならモスクに集まって礼拝しているように思います。仕事中かなにかで仕事の休憩時間に空いた部屋を使って、敷物を敷き、西のほうに向かって礼拝をしているかたもいます。


善行は隠れてするのがあたりまえで、祈りもひとりで静かに捧げる方々もいます。それでも日曜日に集まって祈りを捧げることもあります。


宗教と政治をほぼ一体のようにするひとびともいます。
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この回答へのお礼

★ 公僕としての僕はあまり一般的ではないですか。
☆ あっ。それがありましたね。

たぶん 公僕というイメージを持ち出すと 違和感を感じるので 出て
来なかったのかと思います。

いや 特にこだわりを持っていません。
わたしは 《わたし》が好きですから 使っています。



★ 祈るとき、他人に見せるように祈るいのりかたの国と、他人から隠
れて祈るのがあたりまえのものもあるように思います。
☆ 聖書では 隠れて・見せびらかすことなく 祈れと言っていました。

▲ (マタイ福音 6:5-6) ~~~~
http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html

6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せよ
うとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言ってお
くが、彼らはその報いを受けてしまっている。

6:6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所に
おいでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられ
るあなたの父は、報いてくださるであろう。
~~~~~~~~



★ プラトンさんが書いているところは、祭壇は公の場所のみにあって、
個人の家の中にあるべきではない。
☆ ふーむ。《祭壇》と《家庭での祈る場所》とは 別だと思うのです
が。

★ イスラムのひとびとは、できることならモスクに集まって礼拝して
いるように思います。仕事中かなにかで仕事の休憩時間に空いた部屋を
使って、敷物を敷き、西のほうに向かって礼拝をしているかたもいます。
☆ らしいですね。


★ 善行は隠れてするのがあたりまえで、祈りもひとりで静かに捧げる
方々もいます。それでも日曜日に集まって祈りを捧げることもあります。
☆ 先ほど聖書のくだりを引きましたが それほどやはりこだわること
もないように思うのですが どうなんでしょう。


★ 宗教と政治をほぼ一体のようにするひとびともいます。
☆ 日本教=すなわちクウキ教は 不文法として慣習であり宗教であっ
て 同時に政治(マツリゴト)と 《伝統》としては 一体であるよう
に思います。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/05/09 13:46

自分がいま、プライベート感をだすとき、わたし、を用いて、公け感を出すとき、ぼく、を用いるのは、どう思いますか。



女性でも、仕事をしている最中は、僕、を使い、

男性でも、プライベートであることを表明するには、わたし、ちょっと恥ずかしいときは、わたくし、を使う

というような感じなのですが、どのように思いますか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 自分がいま、プライベート感をだすとき、わたし、を用いて、公け感
を出すとき、ぼく、を用いるのは、どう思いますか。
☆ 感覚(印象)として わたしと ぎゃくですね。

強いて理由を挙げれば 《ぼく(僕)》は 何者かのしもべだからです。

もっとも 中には《アブドラ― ← アブダッラーフ》というように《神
のしもべ》として 名前に用いている場合があります。〔アブド(しもべ)
・アッラーフ(神)〕

あるいは ペルシャ語では 何て言いましたか 《バンデ(しもべ)》を
日本語と同じように自称の代名詞に用いているらしい。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …



★ ~~~~~~~~~
女性でも、仕事をしている最中は、僕、を使い、

男性でも、プライベートであることを表明するには、わたし、ちょっと恥
ずかしいときは、わたくし、を使う

というような感じなのですが、どのように思いますか。
~~~~~~~~~~~
☆ われ・なれ・かれで 済ませればよいようにも思いますが こればっ
かりは 思うように行きません。行っても 言葉は ただちに別様に変化
します。

女性の《ぼく》なる自称には 初めて聞いたときには おどろいたことが
あります。



それほど こだわらなくてもよいのではないかという見方でいます。

お礼日時:2018/05/09 13:17

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