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弥生時代の墳丘墓と古墳時代の古墳との違いを考えると、近藤義郎氏は、弥生墳丘墓と前方後円墳との相違点として、 ①墳形・墳丘規模において「飛躍」がみられること。②埋葬構造として長大な割竹形木棺と竪穴式石室を有すること。③一定の規範にもとづく副葬品において中国鏡、とくに多数の三角縁神獣鏡をともなうこと、以上の3点を挙げられています。
そうすると、寺沢薫氏が提唱した纒向型前方後円墳は①にはあてはまらないけれども②と③には該当するものもあって、弥生時代から古墳時代の過渡期の墳墓とされています。過渡期という言葉がわかるような、わからないような表現です。この時期、ヤマト政権と各地の首長(豪族)の関係が墳墓を通してどのように考察できるのでしょうか?

A 回答 (7件)

No.1です。


もう少し書きますね。

纒向型というのははモヤモヤっとしたくくりなので、これをどこまで重視するかでヤマト政権の位置づけが変わりますね。
寺沢氏は重視するほうなので、纒向型をヤマト政権の成立としてますよね。
でも、重視しない研究者は古代国家の成立史を述べていても「纒向型」というワードすら出てこないこともあるかと。
研究者によって分かれてしまうので、諸説を列挙するか、曖昧にまとめるかになってしまいます。

纒向型の時期に言えるのは、
前方後円墳体制成立時よりも広い地域に共通性があると捉えることもできる、でもその共通性の強さは前方後円墳体制よりは強くないようだ。
纏向遺跡ができていて、九州北部からこの地域に鉄が流れているようだ。
というレベルです。
この位置づけをどうするかは難しいんでしょうね。

>共通の祭祀

これは祭祀が完全に一致していると取るより、地域ごとに独自だったのが一部に共通性がでてきたということですよね。
弥生墳丘墓の段階では地域ごとに独自、前方後円墳の段階では墳丘や副葬品などに共通性が強く出てきたと。

で、祭祀というワードも曲者です。
この時代の考古学ではなんだかよくわからない遺跡や遺物は全部、「祭祀」ということになっているような。
軍事や経済活動で使うと明確にわかればいいのですが、そうでないと「とりあえず祭祀ということにしておけ」となってますよね。
ですので、頭の片隅では祭祀は広い意味で捉えておいたほうがいいかもしれません。
(遠い未来、斬れない剣道の竹刀やサイリウムや裁判で使うトンカチなどが発掘されて、使い方がわからなかったら「祭祀」のものとなっているかもということ。)

>首領の埋葬スタイルが、広い範囲で流行・伝搬したとしても、それって、栃栗の料理法、土器の製法、水田耕作、塩漬け保存法の伝搬と同じです。

墳丘の設計が同じものなので、単なる流行や伝播とは違いますね。
明確なつながりがあり、設計したものを与える貰うという関係はあったでしょう。

>鉄

纒向型の時期に鉄がどう日本列島に来たかは、私にはわかりません。

ヤマト政権成立後は、朝鮮半島南部との関係でいいと思います。
ここの通説を崩すのは大変だと思いますよ。
古代の朝鮮半島南部で鉄が出るという認識、高句麗が南下しているということからも合理的なのでは。

>戦利品が列島に持ち込まれた主たる鉄類であるとは、ちょっと思えません。

戦利品というより、鉄の恒常的な流通ルートを確保するためにヤマトが参戦したんですよね。

>この鉄の引き渡しは、冊封関係のような権威の証明としての朝貢だから行えたのではないかと、私は思います。 

中国からというと、鉄が与えられたとの根拠は何になるんでしょう。

朝鮮半島相手だと冊封関係なんてありえたんでしょうか。
それと、高句麗の南下で朝鮮半島南部がピンチという視点が抜けてるようにも思えます。
鉄を貢納物として、朝鮮半島からヤマトへの形式上朝貢ということはあるかもしれませんが。
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この回答へのお礼

初めのNO1で書かれた慎重な書き方で、タダモノではないと思いました。
今回の追加の回答、素晴らしいです。これぞ、プロ仕様の解説をありがとうございます。

>この時代の考古学ではなんだかよくわからない遺跡や遺物は全部、「祭祀」ということになっている

非常に面白く、論点が鋭いですね。言われてみて、なるほどと思います。

>墳丘の設計が同じものなので、単なる流行や伝播とは違いますね。
明確なつながりがあり、設計したものを与える貰うという関係はあったでしょう。

その「つながり」の実像を知りたいのですが、考古学の手法では難しいでしょうね。

NO2.3の方は、おそらく冊封体制もわかってないと思います。
こんな新書を読みかじっただけの人が、長文で、さもわかったように回答を書いてくるのに失望し、「教えて!goo」には二度と質問しないと一時は思いましたが、あなたの詳しい解説を読んで、思い直しました。
この質問は専門家でも難しいかと思います。ヤフー知恵袋でも同じ質問をしましたが、元日本史教師であろう方から、トンチンカンな回答が返ってきました。
ともあれ、ありがとうございました。

お礼日時:2018/05/13 19:12

> 貴方あなたが書いている、古墳時代の始まりを3世紀後半あなたとする根拠は何ですか? といのが、私の質問の趣旨です。



NO.2の回答で次のように書きました。
⑤ 古墳時代の時期区分としては通説のとおり、次の3期を設定し、
古墳時代前期 … 3世紀後半から4世紀末まで
古墳時代中期 … 4世紀末から5世紀末
古墳時代後期 … 6世紀初頭から7世紀前半

「古墳時代の始まりを3世紀後半」と私がしているのではないです。弥生時代の始まりとか、旧石器の終わりを何世紀とみるというようなことを述べてはいないし、そのような判断を自分なりにするほど詳細な情報をあさってはいません。
墳墓が見つかりさえすればその造築時期は古墳時代になるなんては思いません。
前方後円墳が列島の広範囲に造築されたには、それなりの変化があっただろうという見方をし、それ以前の列島内の社会と文化的違いがあったとみるのでしょう。 だからといって、畿内、北越、吉備、九州、中部などの地域首長制社会が、畿内首長に服属的スタンスをとった時期をもって古墳時代の始まりとするという認識は、「たぶん、一般的見解でも、妥当な見解でもない」と思います。 古墳の造成地域が急速に広まることは、それが政治体制、支配服従関係の成立を意味するものではないからです。 NO.2の回答を読み直してください。
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>  あなたの中では⓺がまとめの結論ということでしょうが、


> これでは「纒向型前方後円墳の意義」の回答になっていません。

⑤ 古墳時代の時期区分としては通説のとおり、次の3期を設定し、
古墳時代前期 … 3世紀後半から4世紀末まで
古墳時代中期 … 4世紀末から5世紀末
古墳時代後期 … 6世紀初頭から7世紀前半
この区分をさらに、前期前半(4世紀前半)、前期後半(4世紀後半)、中期前半(4世紀末・5世紀前半)、中期後半(5世紀後半)、後期前半(6世紀前半から後葉)と細分して以下の節立てをこれに準拠させる。後期後半(6世紀末葉・7世紀前半)は政治的時代名称としては飛鳥時代の前半に相当する。
古墳には、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などさまざまな墳形がみられる。数としては円墳や方墳が多かったが、墳丘規模の面では上位44位まではすべて前方後円墳であり、もっとも重要とみなされた墳形であった。前方後円墳の分布は、北は山形盆地・北上盆地、南は大隅・日向におよんでおり、前方後円墳を営んだ階層は、列島各地で広大な領域を支配した首長層だと考えられる。

> 過渡期という言葉がわかるような、わからないような表現です。この時期、ヤマト政権と各地の首長(豪族)の関係が墳墓を通してどのように考察できるのでしょうか?

このことに関する私の回答は、NO.2の回答の中の終わりに書いてある次の一節以降の部分です。
単純にいえば、強いもの、かっこいいと思えたもの、すごいと感じたことを、とにかく自分も模倣し、自分の価値を高めることに対する真摯な取り組みが、今も、昔も、同じようになされただけだという考察です。

《ヤマト政権と各地の首長(豪族)の関係》というのは《英仏米と日本の明治政府の関係》に類似しているのではないかと思います。
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この回答へのお礼

その通説が現在、問題視されている。
いま、気が付いたけれど、あなたは「元高校生」ということは、現在、大学生?
大学入試で使われている高校日本史の教科書の知識は古くてタイムラグがある。
もしくは、最大公約数的で、最先端の研究成果はあまり反映させていないのが現状。
貴方あなたが書いている、古墳時代の始まりを3世紀後半あなたとする根拠は何ですか?
といのが、私の質問の趣旨です。

お礼日時:2018/05/15 09:23

> あなたは、素人? ちゃんと論文読んでる? 書店で売られている新書だけを読んでいるの?


⇒ 素人です。 ちゃんと読んでいるとは言えないです。 適当に読むので新書だけではないです。
  もっとも、新書にしても、精読とはほど遠く、ごく一部を少し読む程度で、しかもすぐに忘れます。

> 大学で古代史をきちんと勉強している?
⇒ 大学の専攻は違うし、古代史の講座は受けていません。

> とてもおかしなことを書いているので。 きちんと体系的に勉強された方がいいですよ。
> その辺の本を読みかじっただけで書いているようなので。
⇒ 感想と、お勧めはわかりましたが、きちんと体系的に勉強する気にはなれません。

> たとえば、祭祀に用いる勾玉は、どこで造られたものでもよい、というわけではない。
⇒ 何を根拠にされているのかがわかりません。祭祀に用いる勾玉とそうではない勾玉の使い分けが
  当時あったのか、どうあったのかを推定するようなものはないと思います。

> 出雲の玉造り集団が作成したものをヤマト政権内で用いる。
⇒ 《ヤマト政権内》と《ヤマト政権内ではない》の識別基準がわかりません。
  《出雲の玉造り集団が作成したもの》という識別は何を基準にしているのですか。
  勾玉の生産?加工?はあっちこっちでなされていたようです。
  形だけではいわゆる出雲型の勾玉でも、生産地を出雲と推定するのは無茶です。
  勾玉には加工者の銘もないし、《出雲の玉造り集団が作成したもの》という識別は無理です。
  瑪瑙の勾玉ならば古墳時代の花仙山の産で宮ノ上・宮垣など地域で加工されたと思うのは早計です。
  蘇我では4世紀後半から6世紀中葉まで大規模な玉作りがなされ、出雲や北陸で玉作りは衰退します。
  蘇我の玉作りの材料は列島外も含めていることやその加工数量が膨大であったらしいことから推定して、
  いわゆる畿内地域近傍での利用のみを目的にいていたのではなく、朝貢的交易にとって重要な価値財・
  美術工芸品・威信財として扱われたのだろうという推定もできます。だから、というのも変ですが、
  宗像や朝鮮半島でも、こうしたものが出土するのでしょう。
  それに、ヤマト盆地東南部の古墳で玉類が出土するのは茶臼山が最初のものらしいです。
  有利な交易を独占できるので玉類の加工技術集団をもったという可能性はあるように思います。

> 現代の市場経済の感覚で考えてはいけない。
⇒ それはそうでしょう。
  しかし、旧石器・縄文、弥生、古墳時代、飛鳥、奈良時代に、日常の食料と生活上の危難を避け、
  より増収、豊漁豊作を実現する方策や技術、風水害干害冷害虫害などを除く方策や技術が、酒や踊り、
  大声、らんちき騒ぎ、酩酊状態、アドレナリンやノルアドレナリンの調整方法としての念じであれば、
  それはそれで有効な方法だったろうと思います。 
  日本語の「まつり」というのはそういうものでしょう。 
  神や天を恐れて、あるいは恵みを期待して祈った、祈願する行為、そのための貢ぎ物を出す行為が
  まつりや祭祀なのだと考えると、おかしなことを強引に思いついてしまうのだと思います。
  個人ベースの自由等価交換=市場経済と思い込むのは「経済学をかじったものの思い込み」です。
  首長層がその社会集団のリーダとして執り行う行為は、それが、大きな館作る、大岩をまつる、
  墳丘を作りあげる、周溝を掘る、土塁や石垣を築く、イベントを催す、鏡やトーテム、刃物や火を
  盛大に使い見せる、鐘や太鼓を鳴らす、ネックレス・冠・ブレスレッド・剣や杖を帯びる見せる、など
  なんだって、それが統治集団内部への絶大な効果を生むという実経験に基づく《まつり(政)》です。
  その魅力は、カーニバルや大会、世界大会などを実行することが魅力的に思えるという意味からすれば、
  対外的な効果だってあったのでしょう。
  それが、集団の統率や集団の力の発揮に有効なら、首長はどんどんそうした行為をします。
  また、その地方では入手や製造が困難な物財を入手でき自分のものにできたことをアピールすることが、
  一層自分を立派に見せ、権威を高めることにつながれば、そうした物財得るために例えば奴隷を送る、
  こちらで入手できる貴重な財を贈り、何かの返礼があるのを期待するという交易方式は、結構多いです。
  思います。 

> 出雲で造られた玉にのみ呪力がこめられている。
⇒ 「これは出雲で造られた玉なので」が魅力やアピール効果を持つのは、その社会が情報化の影響を
  強く受けるようになるまでは無理です。どこ産の原石です。加工は誰がしたんですなどの説明が、
  古墳時代に効果を持つとは思えません。

> こうした玉の産地と玉を使用した祭祀が行われるまとまりをヤマト政権と考えています。
⇒ あり得ないことと思います。
> ヤマト政権内の結びつきは玉だけではないですが。
⇒ 「政権内の結びつき」は血族関係を中心として、あとはいわゆる親疎や服従と重用によるもので、
  玉などの  存在はたいした要素にはならないでしょう。

≫ この鉄の引き渡しは冊封関係のような権威の証明としての朝貢だから行えたのではないかと私は思います。
> 中国の歴史書に書いていますか? 出典をあげてください。
⇒ 詳しくは知りませんが、中国や朝鮮の史書にそうした記述があるということを聞いたことはないです。
 ただ朝貢は貿易の一つというのは常識だと思っています。
  https://www.y-history.net/appendix/wh0301-080.html
 列島から交換にだすのに奴隷や青大句珠を提供していますから、勾玉は交易品だったのでしょう。
 貿易の中継地はそれなりに興隆します。港町はどこでも先進地になる可能性は高いです。
 宗像沖の島と大和朝廷という特別展が九州国立博物館で2017年にありました。
 中国でも朝鮮でも、日本列島に「物々交換経済行為で鉄素材やスクラップをまとまった分量を供給する」
 民間行為があったとは考えにくいです。 当時の状態では、渡海は大変です。 組織による意図的な
 渡海をしないとまとまった分量の鉄素材やスクラップは列島には届きません。
 そうした組織行動を可能にするのは、それだけの要員を使える首長が必要です。

> 想像力で何でも書けばいいというわけではないのですよ。(怒)
⇒ (怒)のは、けちをつけられたと感じたからではないのですか。それならわかります。
 自分が当然と思っているか、気にもしてないでいたことを、文句つけられたと感じたら、普通は
 むかっとしたり、いらっとします。
 しかし、それって、違う見方や反論異論もあると最初から想像していれば起きない感情の高ぶりです。
 この回答をきっかけに、当然に自分が思っていることについても、きっちり見る機会にしてください。
 テレビドラマで刑事が「素人が想像で言うんじゃねぇ!」というようなのは、みっともないです。
 専門家の教えを聞いたり読んだりしてそれで自分の常識をつくってしまったら、
 それは効率的な面もありますが、検証なし、自問なしの虚構を信じているのと似てきます。
 昨日新聞にこんなのが載ってました。
  https://mainichi.jp/articles/20180514/k00/00e/04 …
 wikiには、「日本では長崎県の多良見町にある伊木力遺跡から、縄文時代前期の桃核が出土しており、
 これが日本最古とされている。弥生時代後期には大陸から栽培種が伝来し桃核が大型化し、
 各時代を通じて出土事例がある。桃は食用のほか祭祀用途にも用いられ、斎串など祭祀遺物と
 伴出することもある。」とあります。
 それだけ、桃は特殊な果実とみられていたのでしょう。こうした文化伝承とその受容は、
 いつの時代でも起きます。 (桃にそうした特別の力があることの立証はいらないのです)
 だから、印綬や銅鏡をもらえば、それが特別ものと思えたし、銅鐸や独古、仏閣、仏像も、経典も
 似たような受容がなされたのだと思います。 その需要には、内容の理解納得は重要ではないです。
 刀や茶道具を賜っても、それをありがたく価値があるものとして扱うのは、
 その価値を知っていたからではなくて、
  (権力と権威をもつ○○から下げ渡されたから)というのが普通です。 
  (出雲で造られた玉にのみ呪力がこめられている)なんて解説はなかったでしょうし、
   そういう解説が必要だとは渡す方も思ってはいないと思います。
 ダイヤやルビーなどの宝石でも、著名画家の絵画でも、その価値そのものより、
 見てくれがそこらにあるのとは一見ちがった台座やチェーン、額にあって、それなりの人や商店から
 いただいた、買ったということで多くの場合、十分です。
 医薬品でも、ちゃんとしたお医者さんに診ていただいて処方してもらったというだけで、何の薬かは
 知らなくても、理解してなくても、大事に服用はするのと同じです。
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この回答へのお礼

勾玉の問題はあなたの主張は了解しました。
本題は、「纒向型前方後円墳の意義」についてです。
あなたの最初の回答は、新書を引用しただけで、しかも、まったくまとまりのつかないものです。
長文で書いていただいたのはありがたいですが、もう少し整理して書かないと、何を言いたいのは
わかりません。
これでは、知識の羅列になってしまう。
あなたの中では⓺がまとめの結論ということでしょうが、
これでは「纒向型前方後円墳の意義」の回答になっていません。

お礼日時:2018/05/15 07:42

> ヤマト政権(山尾氏の定義ではヤマト王権=大王家)と豪族との関係は共通の祭祀と軍事で結びついた関係だと考えています。

安全保障上の軍事同盟という意味では、明治期のイギリスと日本との関係が挙げられるでしょう。祭祀は剣・玉・鏡を用いたもので、これは前方後円墳の副葬品でもあります。

なんせ古いことで、文献はないし、考古資料も少ないので、なんともわかりません、
しかし、「ヤマト政権と豪族との関係は共通の祭祀と軍事で結びついた関係・安全保障上の軍事同盟」ということは可能性は低いでしょう。 各地域間の物資交流は確かにあります。 しかし、日常の消費生活物資は、塩を別にすると、ほとんど地産地消で済ませていたハズですし、数十キロの遠隔地は、地域社会にとって縁の薄いものでしょう。 民族移動のような形で集団移動したこともあるはずですが、それに対して、安全保障上の軍事同盟的な連携が効果的とみなして、日常的につながる可能性はないです。 汗国に対して欧州各国が同盟して何かしたということもないです。 19世紀、20世紀と同じように考えてはいけないです。
祭祀に「共通の祭祀」て、どんなイメージですか。 イスラムなどの強い一神教なら、そういうスタイルもあり得るでしょうが、古代日本で「共通の祭祀」って、考えにくいです。 雨乞いのスタイル、豊漁豊猟祈願、首領の埋葬スタイルが、広い範囲で流行・伝搬したとしても、それって、栃栗の料理法、土器の製法、水田耕作、塩漬け保存法の伝搬と同じです。 後世になりますが、掘っ立て柱の家屋建築が広範になったからって、「共通の祭祀」などとは言いません。 鳥葬、風葬、火葬ではなく、首長を葬る塚などの形式が流行し広範に広がったとしても、またその方台部で儀式などが類似の形式で行われていたとしても、「共通の祭祀」ではないです。 祭るか封じるかの対象が違っていたら「共通の祭祀」ではないです。

> 朝貢貿易では、鉄は該当しませんよ。銅鏡や金印、日明間では陶磁器や絹織物などの唐物です。
> 鉄は4世紀に朝鮮半島南部に倭が進出して獲得したものです。

そうでしょうか。 もちろん、朝鮮半島南部に進出して獲得して列島に持ち帰った鉄類があったことは想像できます。 しかし、戦利品が列島に持ち込まれた主たる鉄類であるとは、ちょっと思えません。
鉄は、当初、朝鮮半島でも貴重品でしたし、農耕具である他、戦闘用武器でもありました。 かなり貴重品だったと思われます。 民間ベースで等価交換するには、相当の代品(交換品)を持ち込まないとならないし、鉄を供出する側も(高価な贅沢品というだけのものではない《鉄》)なので、鉄を手放せる民間は少ないでしょう。
首長あるいは王のような権力者だけが、鉄を手放して列島に提供することが可能だったと思われます。
この鉄の引き渡しは、冊封関係のような権威の証明としての朝貢だから行えたのではないかと、私は思います。 列島で鉄を受け取ったのも、漁労や交易を渡世にしているものたちではなくて、列島である程度の広域を支配し、中国や朝鮮の首長に対して、冊封関係/朝貢関係を結べるポジションにあると何らかの方法で(朝貢の奴隷(生口)や朝貢にふさわしい貢ぎ物を渡せる)立場にあるものだろうと思います。
また、倭が半島に支配地域を持っていた折に入手した鉄類も、個々人の所有に帰したということはなくて、基本は支配者である首長の所有になったのだろうと思います。
http://www.infokkkna.com/ironroad/tatara/tatara0 …
列島内の鍛冶製鉄をするにも、それなりの権力者が推進しないとできないことです。
ランダムに少量たまたま入手できる鉄鋌や古い鉄製品、塊状錬鉄、脱炭鋳鉄をあてにして、鍛冶施設を作るようなことはないでしょう。 スクラップ再生も含めて、首長クラスが統治行為の一環として鉄を占有し扱っていたと考えるのが妥当だと思います。
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この回答へのお礼

あなたは、素人?
ちゃんと論文読んでる?
書店で売られている新書だけを読んでいるの?
大学で古代史をきちんと勉強している?
とてもおかしなことを書いているので。
きちんと体系的に勉強された方がいいですよ。
その辺の本を読みかじっただけで書いているようなので。

たとえば、祭祀に用いる勾玉は、どこで造られたものでもよい、というわけではない。
出雲の玉造り集団が作成したものをヤマト政権内で用いる。
現代の市場経済の感覚で考えてはいけない。
出雲で造られた玉にのみ呪力がこめられている。
こうした玉の産地と玉を使用した祭祀が行われるまとまりをヤマト政権と考えています。
ヤマト政権内の結びつきは玉だけではないですが。

>この鉄の引き渡しは、冊封関係のような権威の証明としての朝貢だから行えたのではないかと、私は思います。 
中国の歴史書に書いていますか?
出典をあげてください。

想像力で何でも書けばいいというわけではないのですよ。(怒)

お礼日時:2018/05/13 00:19

> この時期、ヤマト政権と各地の首長(豪族)の関係が墳墓を通してどのように考察できるのでしょうか?


> 弥生時代から古墳時代の過渡期、ヤマト政権と各地の首長(豪族)の関係が墳墓を通してどのように考察できるのでしょうか?
> 寺沢薫氏が、弥生時代から古墳時代の過渡期

以下  
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91 …
① 寺沢によれば、『魏志』倭人伝では一度として卑弥呼を「邪馬台国の女王」とは記さず、一貫して「倭国王」「倭の女王」と記していることより、「邪馬台国」とは弥生時代以来の「ヤマト」国という部族的国家レベルの国でしかないとしている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E …
② 古代史学者の山尾幸久は、「ヤマト王権」について、「4,5世紀の近畿中枢地に成立した王の権力組織を指し、『古事記』『日本書紀』の天皇系譜ではほぼ崇神から雄略までに相当すると見られている」と説明している。 山尾はまた別書で「王権」を、「王の臣僚として結集した特権集団の共同組織」が「王への従属者群の支配を分掌し、王を頂点の権威とした種族」の「序列的統合の中心であろうとする権力の組織体」と定義し、それは「古墳時代にはっきり現れた」としている。

③ 白石太一郎は、「ヤマトの政治勢力を中心に形成された北と南をのぞく日本列島各地の政治勢力の連合体」「広域の政治連合」を「ヤマト政権」と呼称し、「畿内の首長連合の盟主であり、また日本列島各地の政治勢力の連合体であったヤマト政権の盟主でもあった畿内の王権」を「ヤマト王権」と呼称して、両者を区別している。 白石太一郎は、「邪馬台国を中心とする広域の政治連合は、3世紀中葉の卑弥呼の死による連合秩序の再編や、狗奴国連合との合体に伴う版図の拡大を契機にして大きく革新された。この革新された政治連合が、3世紀後半以後のヤマト政権にほかならない」と述べている。 その根拠となるのが奈良県の纒向遺跡であり、当時の畿内地方にあって小国連合の中枢となる地であったとして注目されることが多い。この遺跡は、飛鳥時代には「大市」があったといわれる奈良盆地南東部の三輪山麓に位置し、都市計画がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で認められ、運河などの大土木工事もおこなわれていた一種の政治都市で、祭祀用具を収めた穴が30余基や祭殿、祭祀用仮設建物を検出し、東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびに北部九州にいたる各地の土器が搬入されており、また、広がりの点では国内最大級の環濠集落である唐古・鍵遺跡の約10倍、吉野ヶ里遺跡の約6倍におよび、7世紀末の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡であり、多賀城跡の規模を上回る。武光誠は、纒向遺跡こそが「大和朝廷」の発祥の地にほかならないとしている。 纒向石塚古墳など、この地にみられる帆立貝型の独特な古墳(帆立貝型古墳。「纒向型前方後円墳」と称することもある)は、前方後円墳に先だつ型式の古墳で、墳丘長90メートルにおよんで他地域をはるかに凌ぐ規模をもち、また、山陰地方(出雲)の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓など各地域の文化を総合的に継承しており、これは政治的結合の飛躍的な進展を物語っている。そうしたなかで、白石太一郎は、吉備などで墳丘の上に立てられていた特殊器台・特殊壺が採り入れられるなど、吉備はヤマトの盟友的存在として、その政治的結合のなかで重要な位置を占めていたことを指摘している。

④ ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現とその広がりを基準とする見方が有力である。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末など若干の異同はあるが、いずれにしても、ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる。 3世紀後半ごろ、近畿はじめ西日本各地に、大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳もしくは前方後方墳で、竪穴式石室の内部に長さ数メートルにおよぶ割竹形木棺を安置して遺体を埋葬し、副葬品の組み合わせも呪術的な意味をもつ多数の銅鏡はじめ武器類をおくなど、墳丘、埋葬施設、副葬品いずれの面でも共通していて、きわめて斉一的、画一的な特徴を有する。これは、しばしば「出現期古墳」と称される。 こうした出現期(古墳時代前期前半)の古墳の画一性は、古墳が各地の首長たちの共通の墓制としてつくり出されたものであることを示しており、共同の葬送もおこなわれて首長間の同盟関係が成立し、広域の政治連合が形成されていたと考えられる。その広がりは東海・北陸から近畿を中心にして北部九州にいたる地域である。 出現期古墳で墳丘長が200メートルを超えるものは、奈良県桜井市に所在する箸墓古墳(280メートル)や天理市にある西殿塚古墳(234メートル)などであり、奈良盆地南東部(最狭義のヤマト)に集中し、他の地域に対し隔絶した規模を有する。このことは、この政治連合が大和(ヤマト)を中心とする近畿地方の勢力が中心となったことを示している。この政権を「ヤマト政権」もしくは「ヤマト王権」と称するのは、そのためである。また、この体制を、政権の成立を画一的な前方後円墳の出現を基準とすることから「前方後円墳体制」と称することがある。

⑤ 古墳時代の時期区分としては通説のとおり、次の3期を設定し、
古墳時代前期 … 3世紀後半から4世紀末まで
古墳時代中期 … 4世紀末から5世紀末
古墳時代後期 … 6世紀初頭から7世紀前半
この区分をさらに、前期前半(4世紀前半)、前期後半(4世紀後半)、中期前半(4世紀末・5世紀前半)、中期後半(5世紀後半)、後期前半(6世紀前半から後葉)と細分して以下の節立てをこれに準拠させる。後期後半(6世紀末葉・7世紀前半)は政治的時代名称としては飛鳥時代の前半に相当する。
古墳には、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などさまざまな墳形がみられる。数としては円墳や方墳が多かったが、墳丘規模の面では上位44位まではすべて前方後円墳であり、もっとも重要とみなされた墳形であった。前方後円墳の分布は、北は山形盆地・北上盆地、南は大隅・日向におよんでおり、前方後円墳を営んだ階層は、列島各地で広大な領域を支配した首長層だと考えられる。
前期古墳の墳丘上には、弥生時代末期の吉備地方の副葬品である特殊器台に起源をもつ円筒埴輪が立て並べられ、表面は葺石で覆われたものが多く、また周囲に濠をめぐらしたものがある。副葬品としては三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの青銅鏡や碧玉製の腕輪、玉(勾玉・管玉)、鉄製の武器・農耕具などがみられて全般に呪術的・宗教的色彩が濃く、被葬者である首長は、各地の政治的な指導者であったと同時に、実際に農耕儀礼をおこないながら神を祀る司祭者でもあったという性格をあらわしている(祭政一致)。
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❻ 列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、前方後円墳という、王と同じ型式の古墳造営と首長位の継承儀礼をおこなってヤマト政権連合に参画し、対外的に倭を代表し、貿易等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給をうけ、貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられる。

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明治政府は、欧米の政治的武力的優勢を認め、首都東京の主要建築物を西洋建築物とし、軍制を改め徴兵制とし、学制を決定し義務教育化し、西洋的殖産興業を推し進め、積極的に西洋文明の取り入れ、文明開化の旗を振り、議会制政治もはじめました。

《ヤマト政権と各地の首長(豪族)の関係》というのは《英仏米と日本の明治政府の関係》に類似しているのではないかと思います。
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日本では、明治期になる以前は、通常の民間貿易という商業的な貿易は少なく、(貢物を献上し、返礼品を受ける)形式のいわゆる朝貢貿易がメインでしたから、鉄などの貴重品を海外からえるには、朝貢の形式を曲がりなりにもとれる体制を持っていると標榜できて、相手側もそれを承認できるだけのものはし示さないとならなかったでしょう。
《貿易等の利権を有するヤマト王(倭王)》というのは、ヤマト王(倭王)の傘下・支配権とは、独立していた地方豪族や首長にとっても、それなりの権威でもあり、羨望の豊かさを持つものでもあったでしょう。

北朝鮮の応援団、芸術団、高層ビル、高層ホテル、ミサイル、原子炉なども、他国の文化や技術などを得てできているのでしょう。 主要な優勢地域や権力のものを、他の地域の権力や集団が積極的に取り入れる関係があっても、双方の権力機構が親和的であるとは限らないと思います。

ガソリンエンジンだけでなく、ハイブリッドやディーゼル、電気自動車、水素エンジンなどを競い合うメーカ相互も、張り合っているのだと思いますが、いいとこ取りを狙えば、似たようなものはあちこちに出現することになると思います。
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この回答へのお礼

>《ヤマト政権と各地の首長(豪族)の関係》というのは《英仏米と日本の明治政府の関係》に類似しているのではないかと思います。
ヤマト政権(山尾氏の定義ではヤマト王権=大王家)と豪族との関係は共通の祭祀と軍事で結びついた関係だと考えています。安全保障上の軍事同盟という意味では、明治期のイギリスと日本との関係が挙げられるでしょう。祭祀は剣・玉・鏡を用いたもので、これは前方後円墳の副葬品でもあります。

朝貢貿易では、鉄は該当しませんよ。銅鏡や金印、日明間では陶磁器や絹織物などの唐物です。
鉄は4世紀に朝鮮半島南部に倭が進出して獲得したものです。

お礼日時:2018/05/12 21:57

ヤマト政権の成立過程を言っているのでしょう。



弥生墳丘墓:地域独自→地域ごとに首長が独立状態
纏向型:地域をまたがってちょっと共通→ヤマト政権の前段階で首長同士が緩い連合
前方後円墳:地域をまたがってかなり共通→ヤマト政権
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この回答へのお礼

NO2・3の方、おかしなことを書いていると思いませんか?
考古学で言えることは限定されている。
書くとしたら、あなたのようにぼかした書き方をせざるを得ないと思います。
文献史料ではっきり論証できるのは、せいぜい6世紀以降のことですから。

お礼日時:2018/05/13 00:22

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