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日本史

倭国大乱の時代についてよくわからないので調べてたんですが、卑弥呼が王じゃなくなってから王を決めるための倭国で起こった争いという解釈でよいのでしょうか?間違ってたら教えていただきたいです。

「後漢書」東夷伝は
奴国王が光武帝より印綬を授かるという内容があります。光武帝というのは中国人ですか?
中国から日本に印綬を与えたということですか?
また、帥升が生口160人を献上の内容については、献上は辞書で差し上げると意味だと書いてありました。帥升は生口を誰に献上したのでしょうか?

A 回答 (3件)

>倭国大乱は卑弥呼が王じゃなくなってから~



いいえ、大乱を治めたときに立てたのが卑弥呼です。
「魏志倭人伝 (魏書 卷30 東夷伝 倭人)」
  其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年
  乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 
  年已長大 無夫婿
 (其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。
  倭国は乱れ、何年も攻め合った。(これが倭国大乱です)
  そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。
  鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、
  夫は無かった。)



>光武帝というのは中国人ですか?

はい。後漢の初代皇帝です。
前漢が王莽の簒奪により新になった後、理想を目指しすぎて
人心が離反したことで漢を再興しました。



>中国から日本に印綬を与えたということですか?

はい。志賀島の「漢委奴国王印」(金印)は
この時のものと考えられています。



>帥升は生口を誰に献上したのでしょうか?

安帝(後漢6代皇帝)だと思われます。

帥升が謁見を求めるために献上したとされています。
この記述は後漢書東夷伝に書かれたものだけで、
日本書紀などにも引用されていますが、元は後漢書。
ただし、原本が無いけど、現存する写本は「帥升等」。
金印とは時代が違いますので、金印の「奴国」と同じか、
帥升そのものが固有名詞か役職名かも判りません。
とにかく、史料が少ないのでよく判っていません。
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この回答へのお礼

理解できました。ありがとうございます。

お礼日時:2018/05/15 17:46

既に正しい回答がついていますが、細かいところを少し。



後漢書に書かれている日本の国は『倭奴國』で倭國でも奴國でもありません。そして光武帝が贈ったという金印が見つかっており、金印にもちゃんと『倭奴國』王と書かれています。日本の考古学では、何故か勝手に倭國とか奴國とかに変えてるのですが、これは全く正しくないことなので注意してください(教科書も間違いを書いてることが多いです)。

質問のあたりをおおまかに書くと、
・西暦57年、『倭奴國』が後漢に朝貢して金印をもらう(後漢書)
・西暦107年、『倭国』王”帥升”が朝貢する(後漢書)(魏志の男子爲王の王とは彼のことと考えられる)
・70~80年くらい倭国大乱らしい(魏志)
・卑弥呼が王になり治まったらしい(魏志)
・西暦238年、卑弥呼が朝貢(魏志)
って感じで、帥升が死んでから卑弥呼が立つまで70~80年くらい倭国は乱れていたらしいよってのが、おおよそ当時の中国人の認識です。

面倒な話なのは、歴史的には後漢→三国志時代って流れなのですが、歴史書が書かれたのは魏志(三国志)が先で西暦280年~くらい、後漢書は西暦432年~くらいと後漢が滅亡して200年くらい経ってから。後漢書は後漢時代に残された文章を集めて書かれたと言われていて、上記の国名が違ってたりするのもソースとなった元文章が別のものであった可能性もあります。また後漢書を書く時にはすでに三国志も存在していたので、この記述を(当然のことですが)読んでいたはずです。
なので信憑性はそこそこ。あまり興味はないけど、遠くの倭国ってとこでそんなことがあったらしいよー、ってくらいの感じで書かれていると思ってよいものです。
でも日本の遺跡で高地性集落や環濠が見つかる時期が、ちょうど大乱の時期と重なるので、そういうことが実際にあったんだろうなと言われています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2018/05/15 17:46

イメージとしては邪馬台国という立派な国があったと想像するが、


実際のところは大きくても市町村程度の規模でしかなく、しかもそれが点在していたというのが妥当である。
当時の人口は日本全国かき集めても100~200万人程度。
例えれば岩手県人が全国に散り、他に人はいないという状況である。
しかも中国の書を信じるなら、「国」を10以上またがないと邪馬台国には至らなかった。
これはとりもなおさず日本が細分化されていたということだ。

こういう中で成立できるのはせいぜい部族の集団が武装する程度。
卑弥呼も倭国王とやらも、人口規模と「国」の数からすれば「部族長」と考えるのが妥当である。
部族ならば、他の部族との抗争は日常茶飯事に起こる。
そういう小競り合いの中の中国様の知遇を得た物が風呂敷を広げて書物に記された。
そういうことだと考える。
風呂敷を広げるのは、中国はそういう国をも朝貢させる力を持つと示す必要があるからだ。

中国から見れば、日本など海のかなたの世界の果て。
重要度ははるかに低い。
近所の朝鮮と違いい加減なことを書いても見破られない。
そのため中国の箔をつけるために大国として可能性が多分にある。

恨むのは他に資料がないため比較検討ができないということだ。
資料は一つだけでは客観的な証拠能力を持ちえない。
たぶん発掘調査が進展しない限り真相は永遠に謎の中だろう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2018/05/15 17:46

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