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わからないことだらけです。

1
イエスによる救済とは、その死によって人間の原罪が贖われ、
永遠の命を得られるかもしれない可能性ができたこと、で合ってますか?

2
ということは、アダム以降イエス以前の人間には救いはないということですか?

3
三位一体論だとイエスは神の子、人間ではない。いわば神の身内。
イエスが自ら人間の救済を言い出したのでしょうか。
「俺に免じて許してやってよ。ちょっと地上行ってくるから見てて」と。

4
イエス自らの意思でなければ、その死で罪を贖うことにならないと思います。
しかし、イエスは神によって使わされたとあります。
しかもイエスは死の間際に例の言葉を残してます。
神は自分で自分の怒りを収めるために、自分の子を犠牲にした?
イエスの死が贖罪になる理屈が、わかりません。

5
自分の子を人間がどのように扱うかを見て、テストしたならわかります。
案の定、人間は罪なき者に手をかけたわけですが。
普通に考えると、イエスの死は人間と神との断絶を意味する出来事に思えます。
神の子を殺したんですから。これはもう決定的です。
それが真逆で、イエスが救ってくれた、神の愛だ、救済だという主張。
信者は違和感を覚えないのでしょうか。

6
罪のないイエスだけが人間の贖罪ができたということですが、
贖罪というのは罪のある者にしかできないと思います。
なぜ「罪のないイエスだけが」という言い方になるのでしょうか。

A 回答 (6件)

1 人間と神との契約が 人間の裏切りで反故になってから 人間は「救われない生き物」になっていたが これが「救われ得る」生き物になったということ


 「永遠の命」という解釈は人それぞれ。
 ただ 多くのものが「永遠に平安で幸福な世界」を 至高の状態と考えてはいる。

2 基本的に救いはなく 地獄行きらしい。

3 どっちかと言うと触媒。
 「まあ放置しておくのも何だから 繋ぎとして一役かってくれる?」といった役割かと。

4 あの神は犠牲を尊ぶ。
 より高貴なものの犠牲は より高い見返りがある。

5 聖書を読むと アブラハムが自分の子供を生贄にしようとした話がある。
 その時は「おいおい 試しただけだって やめて」と 神がやめさせたそう。
 昔からあちら方面では 生贄は日常的なもので 神との契約と対話の一環だった。

 「自らを贄として差し出した」という ちょっと東洋では納得できない感覚とは思う。
 とはいえ中国でも 自分の妻を来客を饗すために振る舞う話もあるのだが。
 西洋の場合 妙に背徳的な「人類の罪」 を絶えず自分も感じる。

6 「自らの罪を償う」贖罪ではなく 「人類の罪を贖う」という贖罪。
 霊的に「神により祝福された」存在でなければ その資格が無いと。

だと思う。
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この回答へのお礼

1
わかりました。

2
ありがとうございます。運ですねw

3
やっぱり神の意志ですよね。「怒りを収めるために」ってとこが私の理解の誤りなんでしょうね。罪が許されるとはどういうことかという新たな疑問が出てきました。

4
供物を喜ぶ神だというのはわかります。
でもそれって自分の子ですよね。
自分の大事なものを自分で自分に差し出したら、供物としての意味をもたないと思います。
だって、犠牲になったのは自分です。それこそが神の愛!という飛躍した理論なのか…。キリスト教ならありえそうですが。

5
あの話は神の性質をよく表してますよね。本当にゲスい(信者さんすみません)。
まあそれは置いといて。
人間に犠牲を求めたというのなら話はわかります。もう一度イサクを差し出せと。
それなら犠牲をお喜びになったかもしれません。
でも死んだのは自分の子です。そこがわからない。自慰的な何かなのか。

6
やっぱりわかりません。
当事者じゃない者が他人の罪を贖うことなんかできるのでしょうか。
「俺を殴れ!代わりにこいつは助けてやってくれ!」ってマンガたまにありますが、
「何言ってやがるこいつ。自分から殴られにくるとはな、ククク…」って反応じゃないですか?

お礼日時:2018/05/31 17:30

六十代、米国在住、女性です。

25年前に、キリスト教に改宗しました。

何人かの聖職者の方と時間をかけてお話しいただいたことがありますが、イエス・キリストとその犠牲、そして、贖罪については、その一生をキリスト教にかけてきた人にも、神秘です。ですから、祈りの中で、毎日、その犠牲に感謝をささげます。すべて、明々白々では、語る価値がない。イエス・キリストが生前繰り広げた、たとえ話での教えは、当時のユダヤ教の教えに反することが多かった。現在でも、ユダヤ人の中では、その評価は分かれています。ですから、ユダヤ教とキリスト教は、はっきりと分けて考える必要があると考えます。

ユダヤ教の神は、嫉妬深い神です。アダムとイブの話が、巻頭に来るのは偶然ではなく、次に来るカインのアベル殺しよりも、神の目からは罪が重いからです。神に逆らうことが人間の一番の罪である。よって、死を賜ります。しかし、兄弟殺しは、死すべき人間にとって、ありうることなので、見過ごされたように見えます。

他にも、旧約聖書で、一番の悪者は、ユダヤの王妃でありながら、地元の農業神を信仰していた女性は、おかげで、墜落死を遂げ、死骸は犬に食われます。旧約聖書の中では、何度も、自分は嫉妬深い神である、と繰り返します。服従しないこと、神の言うことに耳を傾けないことが、最大の罪なのは、私達、現代人には、ピンときませんが、当時のユダヤ人は、神の与えた”律法”に、違反しないよう、注意深く生きていました。

そこにイエス・キリストが現れて、次々に律法を破る行為をし、不思議な教えを展開します。乖離してしまった神と人間の中立ちの役割を、生きていた時から努めますが、決定的なのは、彼の死と復活だったのは、仰る通りです。
1.永遠の命。。。苦しみや悲しみの全くない、神の国での、永遠の命が、約束されています。
2.イエス・キリストは、すべての人間と神を、もう一度つなげる役割でやってきました。”すべての人間”ですから、アダムもイブも含まれます。
3.https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%84 …
以上、ゲッセマネの祈りと呼ばれる、逮捕前夜の彼の行動です。”どうしても、死の盃を受けなくてはいけないのか?”と、何度も父である神に懇願した様子です。(三位一体説は、有名ですが、一般的には、判りづらい説です。現世の人間には理解できないことが多い。)ですから、十字架にかかる刑死を受け入れるには、時間がかかった。この祈りの時に、血の汗を流した、とされています。
4.神が、哀れな人間をかわいそうに思い、自分の子供を使わして、人間の救済をしてくださった。人間の穢れを払うために、対価として払われた犠牲が、イエス・キリストの命であった。日本でも、むかしは、度々洪水で流される橋のたもとに、人柱を埋め、平安を祈った、という、歴史があります。江戸時代まで残っていました。古代の考え方なので、現在ではわかりにくくなっていますが、イエス・キリストは、教祖様なので、古代のしきたりが、現在まで、残っています。
5.信者としては、私達、罪深い人間の、その罪を、穢れのない人が背負って十字架にかかって贖罪をしてくださった。これは、深い感謝に値するのです。ですから、毎日感謝の祈りを捧げます。普通に生き、普通に考えていれば、自分の利益になることだけに、目がゆきます。他人の不幸や、困っている人を助けようという気持ちになることは、ありません。毎日の生活の中で、私達は、苦しんでいる人に何ができるか、それが、キリスト教徒の課題なのです。なぜなら、イエス・キリストは、私達のために十字架にかかってくださったから。
6.罪のないイエスだけが、人間と神との仲立ちの資格があったからです。


おっしゃる通り、キリスト教の教義は、判らないことだらけ、逆説だらけです。けれども、その教えには、根本的に、人間性を高めるところがあります。それが、現在でも、多くの人々の支持を集める理由かと思います。

長くなりましたので、以上にいたします。
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この回答へのお礼

知識ある方からの回答ありがとうございます。
1
そうなんですね。わかりました。
2
no1の方とは違う解釈ですね。すべての人間というのは、生まれて死ぬまでイエスの言葉を聞く機会をもたなかった異教徒も含まれますよね。最後の審判って、その教育後、試験があったりするんでしょうか。
3
実は、三位一体はかなり無理がある説だと思っています。後付けですよね。聖書原典(というものが存在しないことは知っていますが)にはない。でも「現世の人間には理解できない」という説明は誠意がないと(あなたに対してでの思いではありません。一般的なカソリック教義?に対して)思います。十戒に書かれたものならともかく、人間が考えた説なんだから、人間にわかるようにするのが筋なのに、自分でもちょっと何言ってるかわかってないんじゃないの?と思ってしまいます。ちなみに私はエホバじゃないです。
それはそうと、この回答だと、いまいち私の質問に対する答えが得られませんでした。
4
価値のある命だからこそ贖罪たりえたというのは、私には新しい視点でした。でも、自分の子の血でもってして犠牲を払うというのが理解できません。「穢れを払う」的な考えは、どちらかというと東洋的なのかなと思いますが、キリスト教でもそういった考えがあるのでしょうか。
5
勉強不足ですみません。できたらそれがわかる部分を抜き出してもらえないでしょうか。イエスの発言部分で。
それと新たな疑問が。犠牲になるため使わされたのが神の意志であるとするならば、イエスを殺したのは神の意志にかなうことになります。すると、ユダヤ人たちの判断は正しかったことになる。よきことだと思われますか?
6
ありがとうございます。勉強になります。

お礼日時:2018/06/01 10:24

聖書は創世記からあったわけではない、ノア以降あちこちに人間が現れ言葉は一つ二ムロデ王の時代バベルの塔を造り神の怒りを買って隣人と話ができなくなり、民族が分裂、人間は動物のように増え続け善悪を知っているから悪だけが目立ち人間の群れは幾万もの神を造り今なを残っている八百万の神々、神は一つの民族を選び神の言葉神の御使いよって導かれた、信仰心が完成したのは何と言っても信仰の父アブラハムの決断たった一人の息子イサクを神えの捧げものとしたとき、血統民族を重んじる神は子々孫々ユダヤ人を存続させた、紀元前およそ2000年の歴史の歩みの中で神の教えは捻じ曲げられ見かねた神は跡取り息子イエスキリストを地上に送り3年間ユダヤ人達に悔い改めよ天国は近い、イエスキリストは殺され人類すべて命の贖いとなって我々生きる資格のない者達の罪の代価が支払れ生きているときも父と子と聖霊三位一体の働きを得てイエスキリストの御恵の下で養っていただく、聖書を読んだとき笑い飛ばしたりさげすんだり馬鹿にしたりする箇所は一か所もない、自分もイエスキリストを罵り、ユダの裏切り、ペテロの3度鶏が鳴くもっとひどい人間であるこの事実を教えてくれたイエスキリストに感謝、1~6までの答えは聖霊が教えてくれる。

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この回答へのお礼

信者の方です?
こういうスタイルの回答には辟易しています。
人に伝えるという誠意、対話意識をもった回答を望みます。
ロジカルでない一方的な物言いでは、誰も聞く耳を持ちません。
とりあえず句読点、改行くらいしないとね。不親切、非常識という印象です。
読ませる気ないでしょ。なら、何のために回答するのでしょう。
その言葉で人の心が動きますか?

お礼日時:2018/06/01 10:32

お礼、拝読しました。

本来なら、教会にいらして、聖職者や信者さんと話し合って、自分なりの解決策を見つけるのが、一番だと思うのですが、何かご事情があるのでしょうから、この機会が与えられたことに感謝しつつ、私でできるだけ、回答してみますが、未熟ですから、到らないところはお許しください。

2
(no1の方とは違う解釈ですね。すべての人間というのは、生まれて死ぬまでイエスの言葉を聞く機会をもたなかった異教徒も含まれますよね。最後の審判って、その教育後、試験があったりするんでしょうか。)

聖書の中で、最後の審判が描かれるのは、黙示録ですが、20:13に、”また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。”と言うふうにあります。この”命の書”に書いてあることによって、神の国に行けるかどうか決まる、とありますが、その後のダンテの”インフェルノ”には 、異教徒は、煉獄に送られる、というふうに書かれています。現代では、キリスト教徒であろうとなかろうと、その人の生き方で裁かれる、と、(オフレコで)仰る方も多いです。

それ以上のことは、私には言えないし、判らない、というのが、正直な気持ちです。

3
(三位一体論だとイエスは神の子、人間ではない。いわば神の身内。
イエスが自ら人間の救済を言い出したのでしょうか。
「俺に免じて許してやってよ。ちょっと地上行ってくるから見てて」と。)

こちらの質問の回答は、私の力の及ぶところではありません。聖書には、(マルコ8:31、マルコ9:30、マルコ10:33)イエス自らが、磔刑による死と、その後の復活について弟子たちに話す場面があります。その旅に、弟子たちは、まったく見当違いの反応を見せています。

4
(価値のある命だからこそ贖罪たりえたというのは、私には新しい視点でした。でも、自分の子の血でもってして犠牲を払うというのが理解できません。「穢れを払う」的な考えは、どちらかというと東洋的なのかなと思いますが、キリスト教でもそういった考えがあるのでしょうか。)

律法によれば、ユダヤの”神への貢ぎ物”には、五つの種類があり、ほとんどは、神を喜ばせたいという、けなげな気持ちから行うものです。1.香をたく、2.穀物を納める、3感謝する、3.4.罪を浄化する5.罪の意識を軽くする、銀で治めるのも可、という種類があり、いちいち、細かい規定があります。4.では、穢れのない(健康で、一番状態の良い)家畜を屠って神に捧げれば、自らの罪が浄化できると考えられており、キリストの十字架での死は、これに見なされます。普通の人間のが犠牲になっても、とても、神への捧げものとしては、認められません。

5
(できたらそれがわかる部分を抜き出してもらえないでしょうか。イエスの発言部分で。
それと新たな疑問が。犠牲になるため使わされたのが神の意志であるとするならば、イエスを殺したのは神の意志にかなうことになります。すると、ユダヤ人たちの判断は正しかったことになる。よきことだと思われますか?)

イエスの生前、教養のなかった、でも純粋であった弟子たちは、子犬が主人を慕うように、イエスを愛していた様子が、四福音書に現れています。生前は、”人はどのように生きるべきか、どうしたら、死や苦しみのない神の国へ行けるか”と言うことを、繰り返し、語り続けたイエスでした。一つには、難しいことを言っても、弟子にさえ、わかってもらえなかったからでしょう。

でも、ファリサイ派のインテリであったニコデモに、”聖霊によって生まれ変われる”可能性を示唆します。(ヨハネ3)その後、3:16で、”神はただ一人の子をくださるほど、この世を愛している。それは、人々を裁くためではなく、救済するためである”と断言します。

その後、磔刑から復活、昇天を経て、弟子たちの布教活動が始まりますが、まったく統制がとれていなかった。生前は、一度も会ったことがない、霊感に打たれて信者になった、パウロを待たなければなりません。パウロは、やはりファリサイ派で、キリスト教徒を弾劾する立場にあったのが、まさかの改宗でした。混迷するイエスの死後のキリスト教の礎を築いた人です。彼の書いた、ローマ人への手紙が、現在のキリスト教の教義の根本となっています。

ユダヤ人については、イエス殺し、ということで、国が敗れた後、ヨーロッパで、散々差別されてきました。ゲットーに住み、衣服の背中には、黄色いマークを付けられ、それでも、お金儲けの才能が有ったので、生き延びられたのには、脱帽します。米国が独立して、一番助かったのは、ユダヤ人でした。現在、イスラエルに米国が大使館を移転させたのは、ご質問に対する、ひとつの回答になるかもしれません。良しあしではなく、必然であった。他に選択肢はなかったでしょう。

長くなりましたので、この辺で。
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この回答へのお礼

2、3
ありがとうございます。確かにその記述だけでは想像するしかないですね。
わからないことはわからない、とおっしゃっていただき、はっとしました。
本来はその姿勢が唯一正しいもので、「こうに違いない」を持ち出した時点で、真実から離れる可能性がある。時には、真逆にだってなるかもしれない。
アインシュタインも、神がないと断定はしませんでした。断定したら可能性を否定するからです。無神論者でないのは、むしろ誰より科学者らしく真摯な態度なのかもしれません。
長年信者の方が、わからないことをわからないまま受け入れているのを知って、理解することと解釈することは別に考えた方がよさそうだと思えました。

4
文化的な背景を知ることも大事ですね。
ありがとうございます。

5
なるほど、ありがとうございます。
こういう情報を求めていました。調べてみます。

イエス殺しが正しかったかどうかは、どういうご意見なのかよくわかりませんでした。すべて神の手中で踊らされている物語のように思えてしまいます。ユダの裏切りがそうであると解釈されることが多いですよね。必然である。それを言ってしまうと、アダムとエバの背反すらそれに当たらないでしょうか。

質問が次々出てすみません。お返事なくてもあとは自分で一所懸命考えてみます。ありがとうございます。

お礼日時:2018/06/04 12:10

詳しい回答が来てるので


ちょっとイサクの話だけ

神が
アブラハムに息子イサクを生贄にするように命じ
アブラハムは、最愛の息子を差し出した
それで、神はアブラハムの信仰心を認めた

というお話ですね

でも新約聖書を知っている私たちは
この話とイエスの磔刑を
関連づけて読むことができる

アブラハム(人間)が息子を神に差し出したから
神も人間のために息子を差し出したのだ、という読み方です

イエスが人の子として生まれ
人間の罪を贖ってくれたのは
アブラハムのおかげ、という感じ

あと
イエスを殺したのはユダヤ人、っていうのは
ナチが言ってたらしいけど
イエスだってその弟子たちだって
ユダヤ人なのにねー変な理屈だよ
って思います

ナチのユダヤ人大量虐殺について沈黙したことについて
バチカンは正式に
「間違っていた」と謝罪してます
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お礼、拝読しました。

よく考えていらっしゃるなぁ、と、感心しました。もうすぐ、締め切りになるでしょうから、取り急ぎ、できるだけ、回答してみます。

ユダヤ教徒は、旧約聖書(とは呼ばないが)に似たものを聖典にしていて、イエスを認めず、現在も、彼らの救世主を待っている状態です。それに比べると、キリスト教徒は、旧約は、イエスの存在を預言する、大きな陰であり、イエスが待望されていた光である、という立場です。ですから、旧約のいたるところにイエスを導き出すしるしがある、としています。

例えば、No.1さんの回答なさった、アブラハムが嫡子イサクを神の言いつけどおり、犠牲にしようとすると、天使が止め、脇の藪に引っかかっていた子羊を代わりにせよと言われて、その通りにする。その、イサクを救った子羊が、人間を救うイエスである。

また、神に不服従であったアダムの罪を背負うとともに、アダムから、現在、そして将来にわたる人類全体の神への反逆を、全て背負って、イエスが磔刑にかかることで、神は人間の罪を許してくださった。ですから、宗教画では、十字架にかかるキリストの足元に、必ず頭蓋骨が描かれ、アダムの骨であると、説明されます。アダムの罪が許された象徴となっています。

最期に、旧約には、あちこちに、救世主についての預言があり、イエスは、その預言を満たす存在でした。ミカ書5:2、イザヤ書53、ゼカリア書12:10、また、イエスの先祖に当たる、ダビデ王の詩編の端々に、イエスの生涯が暗喩されている、と、聖書学者は指摘しています。

クジラのお腹の中で、三日間、3.生き永らえたヨナの話も、死後三日目に復活したイエスに通じるといわれています。ヨブにも、ライ病にかかった際、”将来、この病を治せる人がやってくる”と、まるで、イエスがライ病患者を直して歩くのを知っていたような記述があります。

旧約全体から、その生涯が預言を受けていたイエスです。ユダは、のちに、首を吊りますが、イエスに、”行きなさい”と言われたと聖書にあります。そんな風に考えてゆくと、イエスという神の子は、”イフ”という問いを許さないほど、完璧な人生を送ったのだ、という、感慨に打たれるのです。

以上、取り急ぎ、お知らせまで。
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます。
うーん、やっぱり色々腑に落ちないのですが、イエスの降臨と磔刑と復活が予言されていたということが、私の疑問を拭う材料になりません。
難しいですね。でも色々ヒントは得た気がします。

お礼日時:2018/06/10 16:14

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