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§ 1 長すぎる前口上――《蚊が刺しただけ》をめぐって――

1. フェミニズムというのは 昔の昔を思えば ただの野生の勢いによ
ってでも現われて不思議ではなかった時期がある・・・とも考えられます。

2. その過程で 屁理屈による運動は淘汰されたのではないかと思って
いたら 世の中には職場でのチカン行為から果てはコトにまで及ぶパワハ
ラかつセクハラが 人によってはそうとう日常茶飯事のごとく まかり通
って来ていたようですね。


3. これをどうするか?


4. そうとう苦労しているようですね。あるいは #MeToo 運動につら
なろうにも どうもその気が起こらないでやっぱしあきらめるといった情
況にあるのかも分からない。

5. 法律や職場での規則にかかわる問題は それとして すすめられる
でしょうが 人間の心や意志のあり方として微妙な行き違いやそれによる
泣き寝入りに甘んじなければならないといった生活がつづけば 心が晴れ
ない。



6. 一般に男も 地位の上下関係から来るアース役はつらいよ現象に甘
んじて来ているのだから ちょっとした(?)セクハラの慣習(?)にか
んしてくらいは 我慢せよという声が 大きいんでしょうかね。女性の心
の中においても。

7. 声のデカい理念派=正義派や チャラチャラした欧米追随派や 浮
遊する憂さ晴らし派などなどやに飽き足らず それらを掻い潜って いま
のひょっとしたら鬱屈さえしているかも分からないこの気持ちと心を す
がすがしき人間のものとしたい。

8. ――上っ面のうごきには満足しない言わば職場や社会にとって縁の
下の力持ちである多くの名も無き人びと。この人たちは 暗中模索してい
るんでしょうか。あるいは やはりあきらめているのでしょうか。



9. われわれは いやしくも心に期するところがあって哲学の門をくぐ
って来たからには これらの声を聞かなければならない。

10. われらが魂は ゆらいでいます。
わたしの骨が おののいています。
みづからのちからのよわきに うちのめされそうではないですか。





§ 2 エリザベス・スマートはなぜ回復したか。

11. 次の評論にもとづき 質問(☆)をして行きます。

▲ Tamaka Ogawa:性犯罪加害者は勝ち続けてきた 
https://note.mu/ogawatamaka/n/n931e8e9f3c0b

▲ (2)エリザベス・スマートはなぜ回復したか。 ~~~~~~~~

12. エリザベス・スマート誘拐事件
2002年、14歳だった彼女は自宅で就寝中に連れ出され、その後9カ月間、
家に戻れなかった。

13. ・・・彼女は男から繰り返し強姦被害に遭い、それを手記に全て
綴っている。その後のインタビューで「10%だけ書いてあとは砂糖をまぶ
して曖昧にするようなことをしたくなかった」と語っている。

14. エリザベスは運良く救出されてから数ヶ月後に、当時のブッシュ
大統領に招かれ、その横で家族とともに笑顔を見せていた。


☆ 15. なぜなら 蚊が刺しただけなのだから。と考えるがどうか?


16. 彼女が見つかったとき、両親は当たり前だけど心から喜び、それ
をテレビカメラの前で隠さなかった。一方で匿名掲示板・・・を覗いてみ
たら、「娘がレイプされてるのによく喜べるな」というような書き込みが
複数あった。これが偏見だ。


☆ 17. この T.Ogawa 説についてはどうか?


18. 恐らくエリザベスの両親には、「娘が人前に出せない恥ずかしい
目に遭った」「”キズモノ”にされた」という意識がほとんどなかったか、
むしろそのような偏見に立ち向かうことを良しとしたのだと思う。


☆ 19. この批評について見解を! 次の事項についても同じくどう
ぞ!


20. 性犯罪の被害者に「恥」のスティグマを押すのは加害者であり、
世間である。被害者は何も悪いことをしていないし、恥ずべきことでもな
い。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


21. 資料:
▲ ヰキぺ:エリザベス・スマート誘拐事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA …

質問者からの補足コメント

  • つづき1

    ★ 一方で、強姦やセクハラによって酷く深く傷付いたと重く受け止め
    るのは、その犯罪が人間特有であり意味のあるものだと見るところから
    来るのだと思う。
    ☆ やはり人間性としては無効であるというとき とは言うものの も
    し被害者が心の中で《合意》をしてしまっていたなら 《人間特有で意
    味のあるもの》となります。

    それなら 《合意をしたけれど これを悔やむ》とき その人は心に傷
    を受けるかも知れません。

    心が傷つくのは みづからの思いと行動(合意)によってであるとわた
    しは考えます。

    つまり 他人の言動によっては わが心が傷つくことはあり得ないと。

    つづく

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/06/04 17:11
  • (№1)つづき2

    ★ 私はと言うと、そのどちらでもなく、それらの犯罪は欲求(動物的
    なもの)から来たものではなく、かと言って人間的(意味のあること)
    から来たのでもない、欲望(悪魔的なもの)から来たものであると見て
    いる。
    ☆ これは むつかしい。つまり よく《無意識〔なる独特の作用〕》
    が 引き合いに出されますが これは あり得ません。脳細胞にムイシ
    キなる独立した部位は見つかっていないからです。

    だとすると 《欲望(悪魔的なもの)》とは それでも《人間にそなわ
    った自然本性》のことであり それとしての自由意志のさらにその過剰
    な可能性としての自由度に属するといった捉え方が 提出されるのでは
    ないか。

    つまり――議論を端折りますが――この《欲望(悪魔的なもの)》をも 
    人間性の内におさめる。自治する。しかも ツイ関係は 特に単一(単
    独)性ではないからには 共同自治である。

      補足日時:2018/06/04 17:16
  • №7つづき1

    ★ 人間は、誰かに必要とされている限り、自分を励まして、強くなって
    ゆけるものです。
    ☆ それは 基礎ではなく 補助としてのチカラではないでしょうか。

    あたたかい心に接して力づけられ 科学のチカラによって希望の光を灯さ
    れ心が明るくなる。

    けれども わが心の奥のその燈心そのものが灯されるのでなければ 外か
    らの光だけでは 衰えぬ生きるチカラは得られない。

    問題は オシヘやそれにもとづく集まりではないのだと思います。

    ★ 親に愛されて育った彼女が、紆余曲折があったにせよ、事件の後、傷
    だらけでも、自尊感情を一から育ててゆく、基礎がきちんと形づくられて
    いたといえます。
    ☆ わたしの考え方は 自然本性にすでにそなわっている。です。

    無根拠にもとづく思想です。


    つづく

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/06/08 00:49
  • №7つづき2

    ★ ”傷物にされた”とは、なんと心無い言い方でしょう。親の言葉が、子供
    の心をいかに傷つけるか、知っておくべきです。(もちろん、これは、アメ
    リカでの話です。)
    ☆ 心が他人の言動によって傷つくことはないと考える者ですが 戸惑った
    りするでしょうね。

    ★ 日本は、日本。アメリカはアメリカで、似たように見えても、実際は、
    地球の裏側です。アメリカの統計をそのまま、日本の事件に結び付けて結論
    を出すには、無理があるし、研究者の怠慢です。キリスト教ベースのない、
    日本には、自然な国民感情があり、まず、口をつくのは、現実的には、”もう
    嫁にいけない”なので、アメリカの事例を一旦忘れて、”日本の被害者”の社会
    復帰を促すには、どうして行ったらよいのか、独自のリサーチを進めてほしい
    ものです。
    ☆ 《被害はなかった》 これが わたしの行き方です。無根拠です。

    つづく

      補足日時:2018/06/08 00:55
  • №7つづき3

    ★ 最期に、どこで読んだか忘れましたが。。。確か日本語でした。。。
    セクハラ親父は、若い女の子と話しているうちに、自分も若返った気にな
    り、そうこうしているうちに、若い女の子に好かれていると勘違いして、
    思い切った行動をとってしまう、と分析されていて、妙に納得したもので
    す。セクハラ親父には甘い分析ですが、一抹の真理があるかもしれません。
    ☆ そのような流れになってもおかしくないと思えるようなクウキ(雰囲
    気)がありますね。

    セクハラで心が傷つくことはない――これが浸透することを わたしとし
    ましては 祈っています。

      補足日時:2018/06/08 00:59
  • №8つづき1

    ☆ ええっと。
    ★ 非人間的なものである故に、結果加害者の人権をある程度無視して罰
    することができ
    ☆ 無効の意志行為は 人間のものではないへそ曲がり人間の意志行為だ
    から へその曲がりが直るように拘束する。では ダメですか?

    ★ 私の言う人間の意志とは、対関係においては他者を一個人間として認
    めることが基になっています。
    ☆ 同感です。つまり 一般の二角関係からツイ関係に入る。

    ★ その前提が失われている種々の犯罪の場面においては、対関係は成立
    しておらず無効であり、(ここまではブラジェさんと同じ見解だと思いま
    す)
    ☆ ええ。

    ★ また非人間的なその行為を、加害者の人間性が覆い包むという事もあ
    りません。(ここがブラジェさんと違う見解になっているでしょう)
    ☆ へそ曲がり人間は 容易にはそれが出来ないでしょう。出来るように
    なるのが 更生だと思います。

    つづく

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/06/09 17:44
  • №8つづき2

    ★ 人間は、自身が本能や悪意を持った複合体であるという事を自覚して、
    持つ人間性でもってそれらを無視してはならず、放置してもならないと思
    っています。
    ☆ はい。

    ★ このことによって、種々の犯罪やハラスメントの加害者になる事を未
    然に防ぎ、また、もし加害者になってしまった場合には、自己の内にある
    本能や悪意に自らの人間性が敗北したのであると見て、相応の報いを受け
    るものだと思います。
    ☆ 触れたことがあると思いますが 人間は自分がかわいい。ですからい
    くら反省すると言っても やがては自分を赦します。

    ならば 負のわざ(へそ曲がりによるあやまち)に対する報い(罰)を与
    えるというよりは 母親の愛情のように 自分の悪意を自分の中におさめ
    なさい・・・と言ってやったほうが 現実的なような気がします。


    つづく

      補足日時:2018/06/09 17:47
  • №8つづき3

    ★ 被害者的立場においては、人間がそのような複合体であると見て警戒
    を怠らず、
    ☆ ですから 加害者が心の広い人間になるかどうかを見守っていくほう
    が 楽な道なように思います。


    ★ 誰でも彼でも全人的に信用することなく、しかし相手の人間性を尊重
    してそれを助長するように、その人の人間性を信頼して、互いの関係をよ
    くするのが理想かなと思います。
    ☆ 裃をつけた気配が チャランポランなわたしには します。立派な倫
    理観だと思いますが。

      補足日時:2018/06/09 17:50
  • №8つづき4

    ★ また、もし被害者になったとしても、そのような自己の内部の本能や
    悪意に負けてしまった敗者の行為を人間的なものとは決して受け止めない
    ことによって、犬に噛まれたようなものと思って意に介さず、心に傷を受
    けることのないようにすることができるのではないでしょうか。
    ☆ ここで きさらぎさんのお説に整合性がつらぬかれているとはっきり
    感じました。

    やや・かすかに へそ曲がり敗者への排除の論理が見え隠れしているかも
    ・・・とも感じましたが その点どう思っておられますか?

    排除というよりは さげすみでしょうか。(それにあたいするというのも
    事実だろうと思いつつ)。



    お疲れさまでした。

      補足日時:2018/06/09 17:53

A 回答 (16件中1~10件)

偽りや間違いも、自らの選択であるならそれは主体性のある事となる、と言うことですね。

ふむ。確かにニュアンスは違ったようです。

人は心の傷から癒える事ができるか?と言う問いには、できると答えたいところです。それが、現実離れした道だとしても。

そしてその道も、自然本性の働きと言うならば、最早自然本性は、全人的に人や社会関係を包含した巨大な何かであり、端的に言うところの生きる力のようなものとなるでしょうか。

この力による再生の道の方が、加害者が人間だとか間だとか言うことよりも根源的で完全な方法のように私は思います。

しかし初めに言ったように、現実の人間は社会関係において生きているのであり、彼らにとっては、この様なある種の原型的な大きな熱量を直接に行使して生を肯定するのは想定外の生き方だと思われます。

このギャップはともすればより大きな困難をその再生せんとする人に与えかねない。社会との間に大きな軋轢の生じる原因となるかもしれません。
社会では、より小さな力で事を為すのを良しとし、巨大な生命力の氾濫を、人間力でもって制御する事が正しいとされている様に私には思われます。

今回は、やや分かり難い事を言ったかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 偽りや間違いも、自らの選択であるならそれは主体性のある事
となる、と言うことですね。ふむ。確かにニュアンスは違ったよう
です。
☆ 自由意志ないし主体性も あやまち得る。ウソをつくことがあ
る。という単純なことだとも見られます。

★ 人は心の傷から癒える事ができるか?と言う問いには、できる
と答えたいところです。それが、現実離れした道だとしても。
☆ つまり さらにその先を行くことが出来るのではないか? つ
まり 心の傷から癒えることができないのだとすれば 人は受けた
傷の累積とともに生きるしかないことになります。

思いやりは ただの気休めなりと確定してしまいます。

★ そしてその道も、自然本性の働きと言うならば、最早自然本性
は、全人的に人や社会関係を包含した巨大な何かであり、端的に言
うところの生きる力のようなものとなるでしょうか。

★ この力による再生の道の方が、加害者が人間だとか間だと
か言うことよりも根源的で完全な方法のように私は思います。

☆ これらの表明のあとに 次の《しかし》が来ますが その逆接
が いまひとつ捉え得ずにいます。

★ しかし初めに言ったように、現実の人間は社会関係において生
きているのであり、彼らにとっては、この様なある種の原型的な大
きな熱量を直接に行使して生を肯定するのは想定外の生き方だと思
われます。
☆ 《熱量》は――人間の努力をも伴なうでしょうが 基本として
は―― 自然本性の自然治癒といったハタラキだと思います。

★ このギャップはともすればより大きな困難をその再生せんとす
る人に与えかねない。
☆ ですから 《ある種の原型的な大きな熱量を 〈直接に〉 行
使する》ということにはならないと思うのですが。

はっきり言えば《非思考のナゾ〔のハタラキ〕》がかかわって来ま
すが 思考の場としては 《無根拠なる根拠による》ハタラキです。

この《生きるちから》は 《自然〔本性〕》ですから《巨大な》ハ
タラキであるかも知れませんが その《生命力の氾濫》ということ
にはならないのではないか。

自然本性なる治癒のちからが:
★ 人間力でもって制御する
☆ ことを余儀なくされるほど 過剰にはたらくことはないと思う
のですが。《自己組織化》が参考になるかも分かりません。

お礼日時:2018/07/05 21:34

主体性について。


主体性に委ねるという事は自己を信頼するということであり、それには非常に広範な自由を感じます。そこに別に根拠など必要とはしないと言う程に。善悪に縛られることも無く、自己の望みが叶うとかかなわないとか言う事にも囚われない、一種、自由の究極の相を想起します。現実の人間存在とはかけ離れたこの状態を何と名付ければよいのか分かりませんが。それが現実の人間存在の本当のあるべき姿と言うならば、そこには信仰というものも関わってくると思います。

さて、ここらへんで質問本題に話を戻したいと思います。

・種々のハラスメントや犯罪から被害者は精神的にいかに立ち直るのか。

今までの話の流れでは、人間には獣性、非人間的なる部分が存在し、その部分が犯した過ちについてはそれを人の行いとは見做さないことによって心に傷を受けないという筋書きが一つあると思います。
もう一つは、自分自身の主体性を信じて、自らに縛している傷つき得る人間関係の制約を解いて、自由の境地に至るという道(ただしこれは現実の人間存在からはいささか離れているかもしれないが)を歩むという事、の二つがあると思います。

いずれも誰かとの対関係において互いに人間であるという事は、時に裏切られ傷つき得ることであるという現実を回避、又は超克しようという話だと思います。互いの信頼、平等を前提としている健全な対関係においては、相手を不当に傷つけるということは無いが、一度不当な攻撃が発生したときには、その関係は無効であったという判断になり、つまり人としての対関係はご破算になる。このご破算が如何に立て直され真っ当なものになるのかという困難な話を正面から受けるのかどうか。

 既に述べた二つの方法においては、一つはむしろ関係をご破算にすることによって被害者を心理的に救済する道であり、もう一つはご破算とか成立するとか言った対関係の状態如何を主体性の真髄?の発揮によってそもそも超えてしまうという、言ってしまえば人間の社会関係そのものを超えてしまうといういささか人間離れした道でした。

ここに、覆い包むという話がどう交わってくるのかが、この話の主題になろうかと思いますがいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 主体性について。
☆ わたしの場合は 特殊な用法であるかも分かりません。つまり:
★★ 〔自然本性の自然なる〕中核や《わたし》と言われるところの
もの
☆☆ は とにかく人たる存在全体としての《わたし》であり その
やはり意志行為またそのいわゆる主体性です。
☆ という捉え方です。

《わたし または わたしの意志行為》そのものを《主体性》と言い
かえています。

ですから つぎのような捉え方とは微妙に異なります。:
★ 主体性に委ねるという事は自己を信頼するということであり、そ
れには非常に広範な自由を感じます。
☆ でも 重なるかも知れません。

つまり 《わたしなる主体性》をわたしが意識し その確認のもとに
みづからの自覚を高めるとき わたしと主体性とは 一体であると。

★ そこに別に根拠など必要とはしないと言う程に。善悪に縛られる
ことも無く、
☆ この点は 大事でしょうね。自由は 善悪の彼岸ですから。




★ 自己の望みが叶うとかかなわないとか言う事にも囚われない、一
種、自由の究極の相を想起します。現実の人間存在とはかけ離れたこ
の状態を何と名付ければよいのか分かりませんが。それが現実の人間
存在の本当のあるべき姿と言うならば、そこには信仰というものも関
わってくると思います。
☆ ここは じつは――信仰(非思考)と思考との――順序がどうで
あるかで 微妙なところです。とは考えています。




★ 人間には獣性、非人間的なる部分が存在し、その部分が犯した過
ちについてはそれを人の行いとは見做さないことによって心に傷を受
けないという筋書き
☆ この方法は ふつう一般の経験思想なら 誰もが考えており努力
をしているのではないかとは思われます。


★ ・・・自らに縛している傷つき得る人間関係の制約を解いて、自
由の境地に至るという道

★ ご破算とか成立するとか言った対関係の状態如何を主体性の真髄?
の発揮によってそもそも超えてしまうという、言ってしまえば人間の
社会関係そのものを超えてしまうといういささか人間離れした道

☆ へんな議論をします。人は心の傷から癒えることが出来るか?
 
もし癒え得るとすれば 《人間離れした道》も人間の自然本性にそな
わっていると考えざるを得ません。

お礼日時:2018/06/28 22:27

ふむ。

なかなか難しいご返信でした。ハラスメントの話は少し脇に置いての返答となります。

まず、
「自然本性の自然(中核)が 脱線気味の奔放なる
自由度を覆い包む。あるいはつまり それらの全体としての《わたし》
が みづからを統覚しおさめる・・・ということを目指します。」
というところの、中核や《わたし》と言われるところのものは、自然本性の内に数えるべきものなのか、それとも別の何かと認識した方が良いのか。あるいは、自然本性の中に存在する整合性や全体性と言ったものの働きとして存在するのか。と言った点が気になります。

そして、《わたし》が発揮する自由統覚性というものが、無常観を免れ得ず人間の拠り所とはなり難いという見解ですが、無常観を免れなければ人間の拠り所は存在し得ないのか?という疑問が出ました。無常観のままに、拠り所無き事を受け入れられる器が人間存在にはあるのではないか?という気もしました。

そして最後の、
「無根拠を根拠として 自然本性にゆだねるわけです。」という箇所について。
無根拠が根拠に転ずる理由が分からないので何とも言えないのですが、無根拠のままに、《わたし》を含めた自然本性に委ねるというのであれば、これは微妙な話になると思いました。
自然と言うものをどうとらえているのかと言う文化の話にも通じるかなと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 
〔自然本性の自然なる〕中核や《わたし》と言われるところのものは、
自然本性の内に数えるべきものなのか、それとも別の何かと認識した方
が良いのか。あるいは、自然本性の中に存在する整合性や全体性と言っ
たものの働きとして存在するのか。

☆ これは かんたんです。とにかく人たる存在全体としての《わたし》
であり そのやはり意志行為またそのいわゆる主体性です。

ただし そこに根拠があるわけではなく その――詭弁のごとく言うわ
けですが――無根拠に根拠をおいています。

思うように目指す結果が必ず得られるというのは むつかしいようです。

★ そして、《わたし》が発揮する自由統覚性というものが、無常観を
免れ得ず人間の拠り所とはなり難いという見解ですが、無常観を免れな
ければ人間の拠り所は存在し得ないのか?という疑問が出ました。

☆ 舌足らずでした。ここで無常観というのは 《必ずわれが欲すると
ころを成就するわけではない》という単純な意味で出しました。

★ 無常観のままに、拠り所無き事を受け入れられる器が人間存在には
あるのではないか? 
☆ これは 神論であり信仰の問題だと思います。なるべく触れるのを
禁欲しています。


★ 
「無根拠を根拠として 自然本性にゆだねるわけです。」・・・
無根拠が根拠に転ずる理由が分からないので何とも言えないのですが、
無根拠のままに、《わたし》を含めた自然本性に委ねるというのであれ
ば、これは微妙な話になると思いました。

☆ これは 苦肉の策です。けっきょく 信仰のことです。先ほどは禁
欲していると言いましたが はっきり言えば ごまかしの表現です。

★ 自然と言うものをどうとらえているのかと言う文化の話にも通じる
かなと思います。
☆ 自然と文化をひっくるめた経験世界を超えている何ものか――つま
り絶対性――にゆだねるということに行き着きます。

ただし 無神論も《無い神なる絶対性を無条件で――無根拠という根拠
で――わが心に受け容れている》というはずですので 偏頗な見方では
ないと思います。

経験合理性を超えているかも知れませんが それに反しているとは言え
ない余地が――それこそ自然本性の《あそび(プラス α )》が――そな
わっているはずだと。《絶対性とわれとのカカハリ》として。

お礼日時:2018/06/22 04:41

>つまり 覆い包む説は:


★ 本能や悪意そのものを変容せしめ昇華させる
☆ とは言っていません。おさめる(収納する・治める)ですから。

なるほど了解しました。

>自然無為、自然本性にゆだねることは、無策かもしれないという批判について。

 これは、自然本性と言われるところのものが一体何なのかと言うその内容によって是非が分かれると思います。自然本性なるものが、ゆだねるに値する、信頼しうるものである場合は、批判は当たらないとなるでしょうし、NO.6のお礼にあるような、「人間の意志には 基礎として《自然本性の心が やましさを感じることなく恥ぢをおぼえることなく ものごとを志向する場合》と そして 《その上にあたかも思い上がりで膨れたまぼろしの意志としてのごとく 身の感覚としてはやましさ反応をともなっているのにそれにさからってでも強行するという欲望や下劣な悪意〔を利用する意志の自由度〕を発揮する場合》とがある。」と言うところの(奔放な)もののみとしてあるならば、批判しても良いと思います。やましさや恥を覚えることによってそれを制するのであって、もしやましさや恥を覚えることなく物事を志向するだけではそれは只の未熟な人間像とも取れます。自らに恥じることのないふるまい故に自信をもって為せる、また自信をもってそれを制止する。やましさや恥が無かったり、それに逆らったりするだけが自然本性であるならば、それに委ねることは得策ではないと思いました。
 ただ、この、《やましさを感じることなく恥を覚えることなく、物事を志向する場合》と言われていることが、自分にやましくない、恥じない、人間として相応しいという確信を背後に持っている場合のことを言っているのであるならば、自然本性は人間の拠り所とも言え、自然本性に委ねることは妥当なのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~
 ★ >つまり 覆い包む説は:
 ★ 本能や悪意そのものを変容せしめ昇華させる
 ☆ とは言っていません。おさめる(収納する・治める)ですから。

なるほど了解しました。
~~~~~~
☆ ありがとうございます。次の《自然無為》につながります。

● >自然無為、自然本性にゆだねることは、無策かもしれないという
批判について。

★ これは、自然本性と言われるところのものが一体何なのかと言うそ
の内容によって是非が分かれると思います。
☆ 身と心です。心は 精神であり 記憶・知解・意志の三つの行為能
力を持つと見ます。これらは 生まれつきそなわったものであり こ
れらは順に国家における司法・立法・行政の三つに当たりますが こち
らは 人為的な社会組織だと思います。

★ 自然本性なるものが、・・・「人間の意志には 基礎として《自然
本性の心が やましさを感じることなく恥ぢをおぼえることなく もの
ごとを志向する場合》と そして 《その上にあたかも思い上がりで膨
れたまぼろしの意志としてのごとく・・・欲望や下劣な悪意〔を利用す
る意志の自由度〕を発揮する場合》とがある。」と言うところの(奔放
な)もののみとしてあるならば、批判しても良いと思います。
☆ つまり 《奔放なもののみとしてあるなら》 それはゆだねられま
せん。

つまり この場合も 自然本性の自然(中核)が 脱線気味の奔放なる
自由度を覆い包む。あるいはつまり それらの全体としての《わたし》
が みづからを統覚しおさめる・・・ということを目指します。

★ やましさや恥を覚えることによってそれを制するのであって、もし
・・・やましさや恥が無かったり、それに逆らったりするだけが自然本
性であるならば、それに委ねることは得策ではないと思いました。
☆ 微妙です。ほんとうに微妙です。なぜなら 《わたし》が自由度を
統覚しおさめると言っても その自然本性としての自由統覚性は:
★ 自然本性は人間の拠り所とも言え
☆ るほどの確実性は ないかも知れません。無常観をまぬかれている
わけではありません。

じつは 無為無策です。つまり いま言っていることが 根拠がないと
いう意味です。

つまり 無根拠を根拠として 自然本性にゆだねるわけです。どうなり
ますやら。

お礼日時:2018/06/15 15:36

追伸:


排除の論理が見え隠れしているかもと思われたのはあながち外れでもないのですが、今回は分別すると表現いたしました。
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この回答へのお礼

№11からのつづきです。

ただ:
★ むしろ分別したままに制御しようというスタンスに立っています。
☆ というとき 人間の努力だけで《制御できる》とは・《制御し切れ
る》とは 思っていません。

と言えば 無策だとの批判を受けるかも分かりません。あとは 自然本
性にゆだねますから。


★ 本能もあり、悪意もあり、人間性もあるという状態を正しく把握し
ておく。それは、何者が人生を歩むのか、歩もうとするのかと言った、
主体の在りかを明らかにすることにとても役立つと思われます。
☆ と聞くと わが《覆い包む》説は 無策を嘆かなければならないか
も分かりません。《主体》問題はこれも 自然無為にまかせますから。


次のご議論つまり 環境からのアプローチは 他律的な傾向を助長しが
ちであり 犯罪者も周りの人間も その犯罪行為をそれぞれの意志の内
に――環境整備のごとく――おさめるというのは 主体性の問題にとっ
て 不安ないし疑問があるのではないか?:
★ ところで、北欧では、良い生活環境を整えれば、或いは与えれば、
犯罪は軽減するという考えが普及しつつあるらしいです。・・・
しかし同時に、人間は外的環境に左右されるものであり主体はそれに従
属しているという一面の事実を濃く反映した考えを人々に普及する事に
もなるでしょう。・・・ですが、環境に左右されない自分を確立したい
という願望があります。その願望が、一抹の違和感をもたらしているの
でしょう。
☆ へそ曲がりの意志を人間性なる意志のもとにおさめる説は 人をよ
い環境におくという策であり あとは 無為です。

そして 自然本性にゆだねることは 策としては環境だけではないか? 
と突っ込まれると 確信はまだ揺らぎませんが よわいかも知れません。

★ 犯罪からの人間の復活、・・・黒歴史を超えて、人間はいかに歩き
直すことができるようになるのか、ここら辺に、「人間性でもって覆い
包む」と言われるところの論点の核心があるように感じました。今は加
害者サイドの話ですが、今後被害者サイドの話に移った時にも、これは
重要なキーワードとなるのだと思います。
☆ 覆い包む説は 加害者にも被害者にも当てはまります。そして い
かに暗から明へ復活するかは 無為自然です。

こんなかたちでボールを打ち込みましたが。・・・

お礼日時:2018/06/10 23:53

そうですね、いい話ができているかと思います^^



ふむ、更生ですか。これは重要な観点ですね。更生という観点からは、人間性が非人間性を覆い包むという説明は濃い意味を持ってくると思います。
更生と言う観点で言うと、私の考えは、加害者は罰を受けることによって自らを許し、人間として更生できる可能性が開けるというものです。悪いことをして何も罰されなければ、ただ人間性による恩赦だけを享受するのではある意味ペットと同じで、人間の下位に位置する存在から脱却することはできないと思います。謝罪し、服役し、罰を受けるという、人として裁きを受ける権利を加害者は有するのであり、その権利を認めなければ、極論、何時までも犬や虫けらの地位から脱却できないのではないでしょうか。加害者の自己認識も、周囲の加害者に対する認識も、変容しないままになってしまうのではないでしょうか。この更生を喩えるなら、土壌を割って出る人間性の息吹です。本能や悪意のはびこる土壌を、罰と言う苦悩を受けて堪えることで、人間性が発芽し、ついにはそれが土壌の主領域を制すれば良いという見方です。覆い包むというよりも、地下から覆(くつがえ)す感じです。

一方で、人間の抱える本能や悪意を、人間性でもって覆い包むことによって変容せしめること、これは不可能とも思えません。非常に有意義な試みであると思えますが、その後の更生した元加害者に顕れる人間像を、私は想像ができません。本能や悪意を人間性でもって覆い包み変容したなら、それは何と呼ぶべきものになるのか?分かりません。そのため、現状私は、本能や悪意そのものを変容せしめ昇華させるのではなく、むしろ分別したままに制御しようというスタンスに立っています。本能の役割は本能に任せ、悪意が自己のうちに顕れた時にはそれを客観することでそれに呑まれないようにし、人間性が必要な場面ではそれをはばからずに行使する、このようにそれぞれを分別することで、自己の内像の複合体をそのままに理解しておく、本能もあり、悪意もあり、人間性もあるという状態を正しく把握しておく。それは、何者が人生を歩むのか、歩もうとするのかと言った、主体の在りかを明らかにすることにとても役立つと思われます。

ところで、北欧では、良い生活環境を整えれば、或いは与えれば、犯罪は軽減するという考えが普及しつつあるらしいです。罰を与えるのではなく。それはとても合理的なように思います。ウェルフェアの意味に近い考えだと思います。これは、犯罪の軽減と言う良い結果を残すと私は思います。しかし同時に、人間は外的環境に左右されるものであり主体はそれに従属しているという一面の事実を濃く反映した考えを人々に普及する事にもなるでしょう。それが悪いというわけではないですが、喩えるなら楽園に飼われる幸せのような、一抹の違和感を感じないでもありません。もちろん、私自身も荒んだ環境におれば荒んだ気持ちになると思います。人格者でもない限りは、荒んだ環境においても潔白でいることは難しいでしょう。ですが、環境に左右されない自分を確立したいという願望があります。その願望が、一抹の違和感をもたらしているのでしょう。

更生と言う観点に話は移行してきましたが、犯罪からの人間の復活、リバイバル、黒歴史を超えて、人間はいかに歩き直すことができるようになるのか、ここら辺に、「人間性でもって覆い包む」と言われるところの論点の核心があるように感じました。今は加害者サイドの話ですが、今後被害者サイドの話に移った時にも、これは重要なキーワードとなるのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ふむ、更生ですか。これは重要な観点ですね。更生という観点から
は、人間性が非人間性を覆い包むという説明は濃い意味を持ってくると
思います。
☆ はい。ありがとうございます。

★  更生と言う観点で言うと、私の考えは、加害者は罰を受けること
によって自らを許し、人間として更生できる可能性が開けるというもの
です。・・・
☆ いえ。刑罰は 受けさせます。ふつうの社会生活を奪います。

★ 謝罪し、服役し、罰を受けるという、人として裁きを受ける権利を
加害者は有するのであり
☆ ます。犯罪者の法的扱いにかんしては 同じだと思います。


★ この更生を喩えるなら、土壌を割って出る人間性の息吹です。本能
や悪意のはびこる土壌を、罰と言う苦悩を受けて堪えることで、人間性
が発芽し、ついにはそれが土壌の主領域を制すれば良いという見方です。
覆い包むというよりも、地下から覆(くつがえ)す感じです。
☆ 後出しじゃんけんのようで心苦しいのですが そして周りの人間も
同じようにするのですが 取り分け本人が ヘソの曲がった悪意を行為
に表わしたが それは 自分自身の――変なものになっていたが――意
志による行為であったというかたちで覆い包むわけです。

この捻くれた意志行為をも自分の意志の内におさめることが出来たとき
に 雲をやぶって光が差して来る・・・のではないかと。

★ 一方で、人間の抱える本能や悪意を、人間性でもって覆い包むこと
によって変容せしめること、これは不可能とも思えません。非常に有意
義な試みであると思えますが、その後の更生した元加害者に顕れる人間
像を、私は想像ができません。
☆ 罰を受けるということ あるいは 暗から明へ・または苦悩から喜
びへという転換の過程が 必要であり大事だということでしょうか。

でも 次のご説明は 覆い包む説と同じなように思います。:
★ このようにそれぞれ(本能・悪意・人間性)を分別することで、自
己の内像の複合体をそのままに理解しておく、本能もあり、悪意もあり、
人間性もあるという状態を正しく把握しておく。

つまり 覆い包む説は:
★ 本能や悪意そのものを変容せしめ昇華させる
☆ とは言っていません。おさめる(収納する・治める)ですから。

途中ですが №12へつづきます。

お礼日時:2018/06/10 23:33

頑張ってますね♪



社会から、ごうかん等の悪識
非道徳、


悲劇をなくそう!
彼女も、その希望を持てたから、今は立ち直り前を向くことができるのでしょうね


後はそれら心の構成に、割合あり、そのお陰で、回復したと呼べる。
どの程度かを周りの人は憶測する。
心の機微。デリケートな問題でもある

あまり、被害者のプライベート考察は、難易度が高く、
あえて敷居をあげておくべき点もあると思いますので。

皆さん発言には 鋭意、細心の注意を持ち、
紳士性ある、
社会人の発言を心がけましょう。

これは(主には) 回答ではないので返信は不要です。
\(_ _)
では失礼いたしました
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ これは(主には) 回答ではないので返信は不要です。
☆ では そうですね。そんな感じですね。――と応じることと
します。

お礼日時:2018/06/10 22:22

HIVに感染させられることが無かったから。


シェリーン・エルフェキの『HIV ― 悪法の伝染といかに闘うか』
https://www.ted.com/talks/shereen_el_feki_how_to …
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ HIVに感染させられ
☆ ていたとしても 《回復》は成る・・・場合があると思います。

病気が 人格に影響を与えることはあっても 人格を左右すること
はないのではないか? とは思います。

言いかえると どちらが正解かは分かりません。

つまり あなたの見解が ただしいかどうかも まだ分からないと
思います。

お礼日時:2018/06/10 16:10

なるほど。


私の場合は、本能や悪意と、人間の意志とは別のものだと考えていましたので、ブラジェさんとは違う見方をしていたという事になるのでしょう。つまり、非人間的行為は人間の意志からは生まれないし、選択もされないという事です。
 腹が減ったから飯を食う、これは本能的なことであり人間の意志によるところではありません。相手を苦しめて喜ぶ、これは悪意によるところであって人間の意志によるところではありません。つまり、非人間的なものを人間性が覆い包むという見方をしてはいません。人間とはコンプレックス(複合体)であって、「人間らしさ」を発揮する場面と言うのはむしろ限られていて、実際人間は生活実態の多くを本能にゆだねており、また時に悪意を起こすこともあるという見方です。つまり、人間における人間性とは部分的なものであり、全人格的な覆い包むものではないという見方です。

種々のハラスメントや性犯罪が、非人間的なものである故に、結果加害者の人権をある程度無視して罰することができ、しかもその行為を虫けら(蚊など)の所業であると見てそれを無効、被害者が精神的に傷つくものではないという見方をすることも可能かなと、そう考えるのです。

ですので、もし、非人間的行為が人間の意志によるところであるとすると矛盾をきたしてしまうのです。人間の意志と言うところの内容の違いですね。私の言う人間の意志とは、対関係においては他者を一個人間として認めることが基になっています。
 その前提が失われている種々の犯罪の場面においては、対関係は成立しておらず無効であり、(ここまではブラジェさんと同じ見解だと思います)また非人間的なその行為を、加害者の人間性が覆い包むという事もありません。(ここがブラジェさんと違う見解になっているでしょう)

人間は、自身が本能や悪意を持った複合体であるという事を自覚して、持つ人間性でもってそれらを無視してはならず、放置してもならないと思っています。このことによって、種々の犯罪やハラスメントの加害者になる事を未然に防ぎ、また、もし加害者になってしまった場合には、自己の内にある本能や悪意に自らの人間性が敗北したのであると見て、相応の報いを受けるものだと思います。

被害者的立場においては、人間がそのような複合体であると見て警戒を怠らず、誰でも彼でも全人的に信用することなく、しかし相手の人間性を尊重してそれを助長するように、その人の人間性を信頼して、互いの関係をよくするのが理想かなと思います。また、もし被害者になったとしても、そのような自己の内部の本能や悪意に負けてしまった敗者の行為を人間的なものとは決して受け止めないことによって、犬に噛まれたようなものと思って意に介さず、心に傷を受けることのないようにすることができるのではないでしょうか。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

回答№7と言い わたしたちは よい問い求めをやっていますね。

★ なるほど。
私の場合は、本能や悪意と、人間の意志とは別のものだと考えていました
ので、ブラジェさんとは違う見方をしていたという事になるのでしょう。
つまり、非人間的行為は人間の意志からは生まれないし、選択もされない
という事です。
☆ では 悪魔か? マザコンの母親か? 上司の命令一下か?

ただ 悪魔もマザーもガミガミ役も その指令を受けてこれを実行に移す
わたしがいるんですよね。いやいやながらも自分の意志をやはり発揮して
いる。


★ 腹が減ったから飯を食う、これは本能的なことであり人間の意志によ
るところではありません。
☆ つまり 本能の欲求を受け留めて やはり自分の意志としておこなう。
のだと見るわけです。何を食うかは 思考して決めます。


★ 相手を苦しめて喜ぶ、これは悪意によるところであって人間の意志に
よるところではありません。
☆ へその曲がったやはりおのれの意志なんです・・・と言うと おかし
いですか?



★ つまり、非人間的なものを人間性が覆い包むという見方をしてはいま
せん。
☆ 覆い包まざるを得ない。なぜなら ほかに行為の主体がいないから。

★ 人間とはコンプレックス(複合体)であって、「人間らしさ」を発揮
する場面と言うのはむしろ限られていて、実際人間は生活実態の多くを本
能にゆだねており、また時に悪意を起こすこともあるという見方です。つ
まり、人間における人間性とは部分的なものであり、全人格的な覆い包む
ものではないという見方です。
☆ でも 母親は 子のあやまった行動を受け留めてやり そのへそ曲が
りの意志をも包容してやるように思います。

★ 種々のハラスメントや性犯罪が、非人間的なものである故に、結果加
害者の人権をある程度無視して罰することができ、しかもその行為を虫け
ら(蚊など)の所業であると見てそれを無効、被害者が精神的に傷つくも
のではないという見方をすることも可能かなと、そう考えるのです。
☆ あっ そこは同じような結論に到るんですね。

★ ですので、もし、非人間的行為が人間の意志によるところであるとす
ると矛盾をきたしてしまうのです。人間の意志と言うところの内容の違い
ですね。
☆ ええっと。

つづく

お礼日時:2018/06/09 17:40

彼女が恢復したように見えるのは、アメリカ国民が、いかにキリスト教の原理にしたがって、生きているかの証明になるでしょう。



私見ですが、彼女のような経験をした女性は、一生、トラウマを抱えて生きてゆくし、カウンセリングは欠かせないし、薬剤も常用しているかもしれません。現在は、落ち着いているように見えても、何かの暴力沙汰が身の回りで起きたときに、非常に不安定な精神状態になります。それでも、社会は、温かく見守ります。

ご存じでしょうが、米国でのキリスト教の、第一義は、”私は、神によって生かされている。私が生きていることには、意味がある。自分は、小さいけれど、欠けてはならないパズル・ピースである”です。従って、生きて帰った時の、両親や家族の本当にうれしそうな顔、カウンセラーさんの”貴方には、何の罪もない”と言う励まし、そして、これからは、自分も、性犯罪の被害に遭った人たちとつながり、そして、被害者を助けて行けるというのが、彼女の心の支えになったでしょう。

人間は、誰かに必要とされている限り、自分を励まして、強くなってゆけるものです。親に愛されて育った彼女が、紆余曲折があったにせよ、事件の後、傷だらけでも、自尊感情を一から育ててゆく、基礎がきちんと形づくられていたといえます。

周りの人間がこぞって、”あの事件は、恐ろしいことだったけれど、これからの貴方の人生には、何の関係もない、蚊に刺されたのと同じことよ”、と繰り返し、繰り返し、言ってあげることが、本当に大切なのです。被害者の社会復帰を念頭に置いた言葉です。”傷物にされた”とは、なんと心無い言い方でしょう。親の言葉が、子供の心をいかに傷つけるか、知っておくべきです。(もちろん、これは、アメリカでの話です。)

日本は、日本。アメリカはアメリカで、似たように見えても、実際は、地球の裏側です。アメリカの統計をそのまま、日本の事件に結び付けて結論を出すには、無理があるし、研究者の怠慢です。キリスト教ベースのない、日本には、自然な国民感情があり、まず、口をつくのは、現実的には、”もう嫁にいけない”なので、アメリカの事例を一旦忘れて、”日本の被害者”の社会復帰を促すには、どうして行ったらよいのか、独自のリサーチを進めてほしいものです。

最期に、どこで読んだか忘れましたが。。。確か日本語でした。。。セクハラ親父は、若い女の子と話しているうちに、自分も若返った気になり、そうこうしているうちに、若い女の子に好かれていると勘違いして、思い切った行動をとってしまう、と分析されていて、妙に納得したものです。セクハラ親父には甘い分析ですが、一抹の真理があるかもしれません。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 彼女が恢復したように見えるのは、アメリカ国民が、いかにキリスト
教の原理にしたがって、生きているかの証明になるでしょう。
☆ うーむ。偽善に落ち入らないほどに 人びとの建て前の善意につつま
れて 癒やされているし 世間との和解をも勝ち得ているのだと。こうい
った捉え方でしょうか。

★ 私見ですが、彼女のような経験をした女性は、一生、トラウマを抱え
て生きてゆくし、カウンセリングは欠かせないし、薬剤も常用しているか
もしれません。
☆ それは 実際のことでしょうか。

トラウマとよぶ後遺症が残るということは 一般的であり 分かりますが 
トラウマが一生消えないという見方は 精神分析の世界の狭い見方ではな
いかとは考えます。証明は どちらの側にも ないでしょうが。


★ 現在は、落ち着いているように見えても、何かの暴力沙汰が身の回り
で起きたときに、非常に不安定な精神状態になります。それでも、社会は、
温かく見守ります。
☆ これは 現在までの事実なのでしょうか? ふつうの健常者でも 暴
力沙汰や学校で銃の乱射事件が起これば 不安にかられます。

★ 米国でのキリスト教の、第一義は、”私は、神によって生かされている。
私が生きていることには、意味がある。自分は、小さいけれど、欠けては
ならないパズル・ピースである”です。従って、生きて帰った時の、両親や
家族の本当にうれしそうな顔、カウンセラーさんの”貴方には、何の罪もな
い”と言う励まし、そして、これからは、自分も、性犯罪の被害に遭った人
たちとつながり、そして、被害者を助けて行けるというのが、彼女の心の
支えになったでしょう。
☆ そういった社会性・つまり人びととのつながり それは あるでしょ
うね。その思想内容も然ることながら 絆というものは 疎外された社会
にあっても 持ち得るものと思われます。

ですが それは 和解や治癒のための情況としての要因ではないかとも考
えます。

基礎は・基本は ひとの生まれながらにそなわった自然本性としての自己
組織化といった治癒力ではないかと考えます。

われがわれに還るというそのチカラであり 作用です。その自然本性は外
から・つまり他人の言動によっては 傷つくことがない。その自己同一性
が 基礎ではないかと。

つづく

お礼日時:2018/06/08 00:38

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