『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

考えても甲斐 ( 解でもよいが ) の無い、正義だとか、愛だとか、正義だとか、宇宙だとか、真理だとか、生きがいだとか、存在だとか、是だとが非だとを、全て自分で抱え込み、ああだこうだと考えても、自分を追い詰め、苦悩しているだけ。(もっとも、苦悩を味わい・逆に楽しんでいる人もいますが)

16億人という信徒が親しむイスラム教。神様に全てを従う、というイスラム教徒のあり方は、良い示唆をあててくれまいか? 主体性を持たず、神様に全てを丸投げする、と思えばよいでしょう。。
(ここでのイスラム教徒には、イスラム教の過激派を含んでいません)

A 回答 (6件)

かつては、神様の命じるままに考え


生きていれば、それで良い、と信じられて
きました。

そう言う時代なら、御指摘のような煩悩は
少なかったと思われます。

しかし、神様は次第に信用を失います。

神様の言う通りに戦争したら負けた。
十字軍の失敗。

神様に御願いしても、病気でばたばたと人が
死んで行く。
ペストに、教会は無力であった。

神様の代理である教会が、女や金に溺れている。
免罪符事件。


こんな歴史が続いたので、人間は神様を信じなく
なったのです。
神様が信じられないので、人間は自分で考える
しか無くなりました。

それでこうした煩悩に苦しむことに
なったのです。

つまり、神様を信じようが、信じまいが、
人間は不幸になるのです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
(各種の質問で、お世話になっています。)
十字軍。ペストなどで、神の信用がなくなりました。
ところで、ヨブ記によれば、神の不条理なことでも、人はひたすら堪え
従うべきある、とうたっています。大きな神の行為は、ちっぽけな人には理解しがたいものだ、ということですね。
とはいえ、私には、神との関係・付き合いの仕方がなかなか理解できません。
<つまり、神様を信じようが、信じまいが、人間は不幸になるのです。>
は、まとめとして卓見ですね

お礼日時:2018/06/12 17:10

住宅ローンやマイカーローン、教育ローン、サラ金などという邪悪な金融制度を禁止し、人間がカネの奴隷にならないようにするには、金利を禁止しているイスラム教が最適と思います。



私はイスラムの教えに厳格に従い、一生涯、カネを借りることなく過ごしてきました。

しかし、金融制度を廃止したら、企業など、他人資本を必要とする法人はどうするのだろう?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
プロテスタントは資本主義の発展に寄与(擁護か)したが、イスラムは難しい立ち位置にいますね。金利はあってはならないが、投資は許されているから(
たんに、大目に見られているだけなのかな)、これにより広く資金を集めることになるのかな?

お礼日時:2018/06/15 11:30

なるべく長文にならない様にしましたが、やはり少々分かりにくかったようです。



人間は何も知らない真っ新な状態で生まれてくるといえます。
そして、例えば人間とは何かとか、社会とは何かとか、人生とは何かとか、あ
るいは様々な概念の基本的な部分を、子供のうちの猛烈な吸収力で習得してし
まうと思います。

幼いころからの友人、あるいは自身のことを見てみて、基本的な考え方が変わって
いないことが多いことを考えるとき、文明の中の教育というものの力を感じます。

その後、人間は学びます。学校での勉強、読書、映画を見たり芸術作品を鑑賞したり
人の話を聞いたり…
その学びの中で、物事の根本的な部分に触れるものというのは、それほど多くないと
思います。
例えば、トルストイであったり、デール・カーネギーであったり、孔子であったり、
チェ・ゲバラであったり、三島由紀夫であったりするわけです。
そして、自分の中の哲学を書き換えてゆく…

それと同列に、釈尊の哲学、聖書の哲学、コーランの哲学、あるいは科学全般、がある
と考えたいのです。
過去においては、釈尊の哲学、聖書の哲学、コーランの哲学に人々は惹かれ、信じまし
た。
現代においては科学というものに人々は惹かれ信じているということで、科学というも
のが過去における宗教にとってかわりつつあると私は考えています。

宗教というと、占いとか風水などのイメージを持つ人が少なくないようです。
確かに、そういう風に細かいところまで「こうせよ。ああせよ」とする宗教は存在します。
それでは確かに主体性のない、神様丸投げ人生になってしまいますね。

宗教というものは、始めから宗教ではなかったと思います。多くの人々が支持をして宗教に
発展したのではないでしょうか?
繰り返しますが、科学というものが「宗教的なもの」に変化するほど現代人には支持されて
いると思います。

また、仏教とキリスト教とでは哲学が違いますから、「宗教」とひとまとめに論ずることが
できる部分とできない部分があると思います。

結論として、宗教であろうが哲学であろうが科学であろうが個人的な人生哲学であろうが、
要するに人間の幸せと満足をもたらすものかどうか、そういう公平な目で改めて吟味するべ
きだと思います。
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この回答へのお礼

度々のご回答ありがとうございます。
<公平な目で改めて吟味するべき>
ですね。ただし、私のような凡人には吟味が困難。指針を熱望(安直に)

お礼日時:2018/06/12 19:16

そうやって面倒くさい事を、「外注」で済まして、依頼心以外に、何が残りますか?



成長もせず、面倒くさいことは神様頼み?

アッラーもそんな「クズ」信者に欲しくないのでは?
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
外註で済ませることは。歴史的に進行しています。昔は一人(家族も含み)で、衣食住全てに対処していましたが、次第に外注で済ませるようになってきました。精神面でも、同じように専門家を頼ってきています。
アラーの神は。<神様頼み>の<「クズ」信者ほど好意を持っている、と思います。余計なことに囚われるな、ワシの言う通りに行えばいいのだ、と。

お礼日時:2018/06/12 06:54



長くなりすぎない様にできるだけ簡潔に述べたいと思います。
端折りすぎて分かりにくいところもあるかも知れません。

「正義」「真理」などの形而上のものも無限であるはずです。ですから、「解」
というものはないわけです。
存在するものは常にそして永遠に「相対的なもの」であるはずだと考えます。認
識として。

また、こうした人類に普遍的な概念を現実の社会の中に顕現させるなどというこ
とは極めて困難なことであり、このことの実現に関与できる人はほんのほんの一
握りの人間なのでしょう。

だからと言ってこうしたことを考えることが「甲斐のないこと」「無駄なあがき」
だとは私は思いません。
例えば、「民主主義国家」というものの恩恵を我々は受けていると言えると思いま
すが、これは自然にそうなったのではなく、マララさんのような熱情的で頑固一徹
の人達の努力と、それを支持する人々と、また多くの犠牲があり、その結果がもた
らしたものであると思うからです。

私はイスラム教徒ではありませんが、マララさんのことは心から尊敬をしています。
信仰は個人の内面のものですから、実は色々な「信じ方」「捉え方」があると推測
しますが、信仰というものは…

科学というものの正確さ厳密さとその恩恵を信ずるのと同様に、科学というものの
上位に(科学を否定するものでなく)神・仏の存在とその恩恵を信ずる、というもの
であると考えています。
それは、人間として主体性を失うことでもなく、神仏に全てを丸投げすることでも
なく、科学的事実を否定することでもなく、むしろより現実的に生きることを志向
させるものであると思います。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうござました。
丁寧な解説ありがとうございました。頂いたご回答により、あれこれ考えています。
気になった個所だけ書きます。
1.<熱情的で頑固一徹の人達の努力と、それを支持する人々と、また多くの犠牲があ>などを、なぜ行うのでしょうか? 経典に書いてあれば、その通りやればよい、と思いますが。
2.<むしろより現実的に生きることを志向させるものである>について、したがって、自分を宗教に自分を丸投げすればよい(少し誇張気味ですが)、と思いますが。
(難しくて、私の頭では誤解しているかもしれませんが)

お礼日時:2018/06/10 19:31

イスラム教は猿から進化した原人の宗教だから、宇宙人を先祖に持つローマ系や中国系人種は入れません。

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この回答へのお礼

尤も

お礼日時:2018/06/12 19:09

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