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「この村に住んでる人でAさんを知らない人はいないでしょう」

この文の【住んでる人「で」】の「で」は格助詞でしょうか 修飾語?
そして「で」を副助詞「は」と入れ替えると違和感がありますが、それはどうしてなのか教えてください

A 回答 (9件)

「で」を格助詞とする見解がありますが、格助詞の「で」は手段・原因・理由の認識を表すもので、次のような使用法になります。



この村に住んでる人でAさんをどこかに案内しよう。
この村に住んでる人だけで東京に行こう。
この村に住んでる人で電車を維持するのは無理だ。

この場合、基本的には副助詞「は」に変えても意味は通じます。■
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勝手に下記の続きと考えました。


A 食事の後{デ/ニ}薬をのむ【「で、起こっている」と「に、起こっている」の違い……】 その3
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10505940.html

「A」のやり取りの主なテーマは「食事の後デ薬をのむ」のデの働き。
 このときも、「格助詞」説と「助動詞」説がありました。
 このデは「格助詞」だと思います。「助動詞」と主張している人がいましたが、結局肝心の「助動詞」と解釈できる文脈は出てこないで、オネオネオネと……。それじゃ話になりません。主張する本人しかわからない主張なんて……。
「格助詞」か「助動詞」かもっとまぎらわしい例があるんだろうな……と考えていたら、こんな微妙な例が……。

「この村に住んでる人デAさんを知らない人はいないでしょう」のデはどちらともとれそうです。
 コメントも2派に分かれていますが、どちらかと言うと「助動詞」が優勢ですかね。
 個人的には「助動詞」説をとりたい。そのほうがラクそうだからです。(←オイ!) 

 ということで、まず「助動詞」と考えて話を進めます。
 助動詞のデの典型的な例として「森鴎外は医者デ小説家でした」をあげます。「○○は」が先だと都合が悪そうなので、「医者デ小説家だった森鴎外は、大文豪です」という形にしますか。
 この場合のデは「医者であって、かつ小説家」という意味です。
「この村に住んでる人デAさんを知らない人はいないでしょう」
 のデを助動詞と考えるなら「〈この村に住んでる人〉であって、かつ〈Aさんを知らない人〉はいないでしょう」ということです。
 このデをハにできないのは明白でしょう。意味が通じません。
 このように、助動詞と考えれば、さほどむずかしい問題ではありません。
 
「格助詞」と考えるとどうなるのかは、まだよくわかりません。
 現段階の考えに関しては下記をご参照ください。
 
【「この村に住んでる人〝デ〟Aさんを知らない人はいないでしょう」の〝デ〟 教えて!goo 辞書】
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12383745485.html
 以下は一部の抜粋(重言)。

 ところが、↑のデを「格助詞」と考えると、泥沼が待っている。
 問題がむずかしすぎるのか。辞書がバカすぎるのか。それとも当方が……。
 そもそも、デの働きがなんなのだろう。辞書の全文は末尾に。
 先行コメントにあった〈4 期限・限度・基準を表す。「一日で仕上げる」「五つで二〇〇円」〉だろうか。
〈「この村に住んでる人」という限度(範囲)で〜〉
 一理ある気はするが、辞書の例文とあまりにもかけ離れているのでは。

 ほかには下記もありそう。
〈5 動作・作用の行われる状態を表す。「みんなで研究する」「笑顔であいさつする」〉
 でもこれもなんだか。

 原点に立ち返って考える。
〈[格助]《格助詞「にて」の音変化》名詞、名詞的な語に付く。〉だよな。
「一日ニテ仕上げる」
「五つニテ二〇〇円」
「みんなニテ研究する」
「笑顔ニテあいさつする」
 ちょっと不自然なものもある気がするけど、まあアリだろう。
 元の例文だと「この村に住んでる人ニテAさんを知らない人はいないでしょう」か。相当おかしい。
 やはり違うのでは。
「この村に住んでる人デA決めましょう」なら、
「この村に住んでる人ニテA決めましょう」にできる。
 これは「限度」と言うより「動作・作用の行われる状態だろう」。「みんなで研究する」と同じ。

 デをハにできるか否か。
 その考え方に無理があるのでは。
「一日ハ仕上げる」
「五つハ二〇〇円」
「みんなハ研究する」
「笑顔ハあいさつする」
 2つ目と3つ目は文脈によってはおかしくないが、意味が全然かわってくる。

 問題は原文をハにした場合。
「この村に住んでる人ハAさんを知らない人はいないでしょう」
 これだとかろうじて通じるような気がするから困る。
 これは「〜デ〜(し)ない〜はない」という一種の慣用表現のせいって気がする。
 デを何かにかえるなら、ナラ、デアレバ、……etc.
 格助詞にかえるのはむずかしそう。やはり格助詞ではないのでは。
 詳しいことはわからない。(←オイ!)
 
https://kotobank.jp/word/%E3%81%A7-573220#E3.83. …
(略)
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格助詞「の」、最初に言ったのは、たぶん言語学者?、文法の専門家?、その根拠は?。


「の」も格助詞足りうる、だから、こんな場合に使える、または使うべきだ・・・・・?。
今一つ、おおくの文章での表現例を集め(今でいえばビッグデーター)それを分析した結果、「の」も格助詞足りうると」判断した。
個人的にはたぶん後者ではないかと思います。
>それはどうしてなのか教えてください
これにこだわりすぎるのは、どちらかといえば前者のような考え方では・・・と思います。
後者の考え方では、明確な「どうして」「何故」は無いように思います。
もちろん良く分析すればそれなりの答えは出ると思いますが、分析すればするほど行きつく先は元のビッグデーターのような気がします。
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この回答へのお礼

「の」のことは聞いてませんが・・・
それにその根拠は?と聞かれましても、どうこたえていいのか分かりません

お礼日時:2018/06/14 08:38


この「で」は、
4 期限・限度・基準を表す。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/148951/meaning/m …
という用法の格助詞でしょう。
「この村に住んでる人」という限度(範囲)で~、⇒「この村に住んでる人」の中で~、
という意味。


>「で」を副助詞「は」と入れ替えると違和感がありますが、それはどうしてなのか

「この村に住んでる人は、Aさんを知らない人はいないでしょう」
「は」は主題提示の係助詞(副助詞)です。
「この村に住んでる人」についてお話しますと~、という意図の文になる。
つまり、続く内容としては「この村に住んでる人」の動作や状態について述べる必要があるのですが、そうはなっていません。
「Aさんを知らない人は」という句で、「Aさんを知らない人」という別の主題を提示してしまっている。
「この村に住んでる人」について述べていたはずなのに、突然「Aさんを知らない人」について述べる構文になっているため、筋の通らない違和感のある文になるわけです。
「この村に住んでる人は、Aさんを知らないことはないでしょう。」
などなら特に問題ありません。
この場合も主題提示の「は」が使われていますが、「Aさんを知らないことはない」というのが、「この村に住んでる人」の動作や状態を表しているので構文的に成立している。
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「で」が格助詞か断定の助動詞(連用形)かは考え方に差が出てくる可能性があります。

わたしは「断定助動詞説」ですが、「で」と「は」を入れ替えられるという考えは、「で」が格助詞だと考える場合でしょう。
 とりあえず、「で」を格助詞ということにして話を進めます。
 「格助詞」は 『を・に・が・と・より・で・から・の・へ・(や)』があります。(や)の扱いには問題がある(「並列」)のでのぞきますが、これらの格助詞のだい部分に「は」をつけることが可能です。絶対につかないのは「が」です。(「がは」とはならない)さらにもう一つ「を」ですが、古い時代には「をは」(=をば)という形を使ったのですが、現代ではほとんど通用しません。従って、「が・を」だけは、「は」に置き換え可能です。(置き換えても意味が同じだということではありません)後の格助詞に「は」がつけられるのに、置き換えて「は」を使う必要がありません。「では」の形で使えるのです。「が」は「は」がつかないから、「が」と「は」の両形があるのです。「人がいる」「人はいる」の使い分けが問題になります。同様に「ものを」「ものは」の違いも問題になります。
 逆に言えば「で」を「は」に置き換える必要は全くなく、「は」を使いたければ「では」とすればいいわけです。なお、ついでに言えば「は」を使うのは、主題化する場合や取り立て(一種の強調法)の場合です。
 「この村に住んでる人でAさんを知らない人はいないでしょう」の中の「で」を「は」に置き換え、「この村に住んでる人<は>Aさんを知らない人はいないでしょう」とする必要はまずないでしょう。というより文のつながりが悪くなります。先ほど言ったように「この村に住んでる人<では>Aさんを知らない人はいないでしょう」もまた同様です。
 その点も含めると、「この村に住んでる人で(あって)Aさんを知らない人はいないでしょう」のように、断定の助動詞「連用形」の「中止法」であるといえます。
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先の回答に補足させていただきます。



副助詞「は」に入れ替えて違和感を感じるのは、「この村に住んでる人」という特殊性の認識の後に、さらに「Aさんを知らない人は」という別の、範疇を異にする特殊性の認識が繋がっている点にあります。

「この村に住んでる人はAさんを知らないはずはないでしょう」という「は」を二重に使用した推量の文でも正しい表現になります。■
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この「で」は、肯定判断辞「だ」の連用形で、中止法です(連用形【で】の「で」と同じです)。



「この村に住んでる人」を肯定判断し、次にそれに対応した判断が述べられます。

この「で」を副助詞「は」と入れ替えると、「は」は特殊性の認識を表し、他の村ではなく「この村に住んでる人」という特殊な人について適合する判断が続かなければなりません。

しかし、「Aさんを知らない人はいないでしょう」というのは「でしょう」という推定で、特殊性に適合した判断ではないため違和感を生じます。特殊性に対応し、この特殊な人は「Aさんを知らない」か、「Aさんを知っている」と断定しないと論理的に適合しません。さらに、「Aさんを知らないはずはない」と断定することもできます。■
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この「で」は断定の助動詞「だ」の連用形です。

終止形は「である」意味ですが連用形になると「であって」と下に続く形となります。
文の構造は、「この村に住んでる人」と「Aさんを知らない人」は同格、2つ合わせて「いない(でしょう)」の主部となっています。
「は」に入れ替えるとこの構造が破壊されるので違和感が生ずることになります。また、それに伴い意味もよく分からなくなりますね。
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>そして「で」を副助詞「は」と入れ替えると違和感がありますが、それはどうしてなのか教えてください


何を言いたいのか、何を表現したいのか、が曖昧になる。
「は」は係助詞と認識しています、主題の提示という説明があります。
簡単に言えば、「住んでいる人」についいて(限定して)説明します。
その説明に二重否定の上さらに、「でしょう」曖昧な断定では、たぶん説明にならないように感じます。
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