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前期倭寇と後期倭寇の違いを簡単に説明しなさいという問題があります。

前期倭寇は14世紀の倭寇で日本人が中心。
後期倭寇は16世紀の倭寇で中国人が中心。
この答えでおかしくないでしょうか?
申し訳ないですが教えてください。

A 回答 (2件)

前期は日本人が中心で、対馬、壱岐、備前が本拠だが、朝鮮と中国沿岸を荒らした(略奪、人さらい)。



後期は中国人とポルトガル人が多かった。本拠は日本だが、活動は東シナ海と南洋方面(銀・生糸の交易のかたわら海賊)。
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前期倭寇が活動していたのは14世紀、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたります。


日本では北朝を奉じて室町幕府を開いた足利氏と吉野へ逃れた南朝が全国規模で争っており、中央の統制がゆるく倭寇も活動し易かったのです。
『高麗史』によれ1350年2月「倭寇の侵すは此より始まる」という記事があり、これが当時の公式見解であったようですが、庚寅年以前にも多数の記事があります。
文献によると最も古いのは『高麗史』によれば高宗10年(1223年)5月「倭寇金州」とあるのが初出である。これ以後史料には頻繁に現れている。
1370年代の前期倭寇の行動範囲は朝鮮北部沿岸にも及び南部では内陸深くまで侵入するようになったと言われています。倭寇の被害を中心的に受けていた高麗では1376年には崔瑩が鴻山で、1380年には、李成桂が荒山、崔茂宣、羅世が鎮浦で、1383年には鄭地らが南海島観音浦で、倭寇軍に大打撃を与え、1389年の朴葳による対馬国侵攻では、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜を救出し、その後、町を焼き討ちして帰還したと言われています。これ以降倭寇の侵入は激減します。

一方、後期倭寇は日本では1523年に勘合を巡って細川氏と大内氏がそれぞれ派遣した朝貢使節が浙江省寧波で争う寧波の乱(寧波争貢事件)が起り、勘合貿易が途絶すると倭寇を通じた密貿易が盛んになり、さらに中央で起こった応仁の乱の為、再び倭寇の活動が活発化する事になります。

後期倭寇の構成員の多くは私貿易を行う中国人であったとされています。
『明史』日本伝には「大抵真倭十之三,從倭者十之七」と記述され、真倭(本当の日本人)は10のうち3であり、これに従う者7としており、日本人は少ないながらも指揮官的立場にあり、当時日本が戦国時代であったことから実戦経験豊富なものが多く、戦闘の先頭に立ったり指揮を執ることで倭寇の武力向上に資していたことがうかがわれます。
また大太刀を振りかざす倭寇の戦闘力は高く、後に戚継光が『影流目録』と倭刀を分析し対策を立てるまで明軍は潰走を繰り返したと言われてるいます。この時期も引き続いて明王朝は海禁政策により私貿易を制限しており、これに反対する中国(一説には朝鮮も)の商人たちは日本人の格好を真似て(偽倭)、浙江省の双嶼や福建省南部の月港を拠点としました。
これら後期倭寇は沿岸部の有力郷紳と結託し、さらに後期には、大航海時代の始まりとともにアジア地域に進出してきたポルトガルやイスパニア(スペイン)などのヨーロッパ人や日本の博多商人とも密貿易を行っていました(大曲藤内『大曲記』)。後期倭寇の頭目には、中国人の王直や徐海、李光頭、許棟などがおり、王直は日本の五島列島などを拠点に種子島への鉄砲伝来にも関係しています。
鉄砲伝来後、日本では鉄砲が普及し、貿易記録の研究から、当時、世界一の銃の保有量を誇るにいたったとも推計されています。
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