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邪馬台国はなぜ畿内説と九州説があるのですか?

A 回答 (7件)

それだけでなく四国徳島説もあります。


私はこういう少数説に興味を持っていますので、まるで肩入れするような書き方をしてみましょう。
尚四国徳島説は下のwikiをスクロールした下の方に数行書かれていますので参照してください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC …

畿内説と九州説が良く知られるのは、それらしき「根拠」がつけられて高名な学者がそう主張したからというのが大きな理由でしょう。
しかし今のところそれらを裏付けする決定的な証拠は何も発見されていません。

しかし両説とも魏志倭人伝を論拠にする割には邪馬台国の所在地に関する記述は適当な伝聞や推量で書いたのだろう
というスタンスです。「どうせ当時は夷蛮の地である日本のことなどどうでも良かったのではないか」という事なのでしょう。
ところが、この所在地に関する記述をその通り解釈すると邪馬台国は四国徳島になるのです。

魏志は中国の正史です。正史は侮れません。最初の正史である史記に書かれた殷という王朝ですが、19世紀に学者の間ではあれは単なる
伝説であって、司馬遷が伝聞や推量で書いただけで、実在してなかったのではないかと言われていました。ところがこういう説を
吹き飛ばしたのが19世紀末にあった、現在「殷墟」と呼ばれる遺跡の発見です。この殷墟からおびただしい甲骨文字の類が発見され
それを解読すると、司馬遷の史記の記述とピッタリ一致したのです。これ以降、殷王朝の存在を疑う人はいなくなりました。
したがって魏志の所在地に関する記述も、当時朝貢してきた人間に詳しく聞いたうえで書いた可能性があります。

それと気になるのが古事記の国生みの記述です。
イザナギとイザナミはまず淡路島を産みます。2番目が四国です。つまり、四国は日本の古代ではかなり重要な場所であった
と考えられるのです。おまけに淡路島の地名ですが「阿波へ行く道筋となる島」からきています。徳島の方には悪いですが
徳島は今は落ちぶれていますが、当時は文化的に進んでいたことも知られています。
参考までに、千葉県勝浦市にある遠見岬神社(とみさきじんじゃ)のサイトには古代に阿波の国から優れた文化が伝わった
事が書かれています。

http://www.tomisaki.or.jp/

で、最初の質問に答えますが
四 国 徳 島 説 も あ る ん じ ゃ ! という事になります。
(高知説もありますが、徳島説よりもさらにマイナーです。)
現在身を立て名をあげたような歴史学者は四国徳島説の様なマイナーな説を挙げることは無いと思いますが。

あと卑弥呼の墓はこれだ!というところがあります。
徳島八倉比賣神社(やくらひめじんじゃ)の裏にある五角形の石積みです。ヒマなときに見てください。

https://bqspot.com/shikoku/tokushima/569
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なぜかというと「魏志倭人伝が書かれた時代、大きな集落をもっているのが九州か畿内しかなかったから」です。



魏志倭人伝の中に出てくる邪馬台国は当時としてはそれなりに大きなクニであったし、また近隣に狗奴国などの大きなクニもあったとされ「3世紀当時の農業生産高でそれだけの人口を維持できるのは、それなりに大きな平野である必要がある」わけです。

そのためそのような平野をもっているのは、畿内平野か筑紫平野だろう、という推測があるのです。

またこの二つの地域は古墳や出土する土器などから相当に大きな勢力をもつ支配者が居たことがわかっています。だから「どちらかであろう」といわれているのです。

魏志倭人伝は距離の記述があまりにもずさんなので、日本の別の場所である可能性もないとはいえないのですが、しかし「大きな人口を養えるだけの作物が取れるところ」「現在まで残っている大きなクニの証拠(出土品など)」で九州と畿内にほぼ絞られているのですが、どちらなのか?というといまだに論争があって決定的な証拠がないので「分からない」ということになっています。
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単に、学者の派閥争いや、地元関係者等による「邪馬台国が自分のところにあったことになれば、観光客が来て儲かる」というだけのエゴの争いです。


何ら論拠もないし、そもそも学術的には何の意味もありません。
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畿内ヤマト王権が日本を統一したので、畿内を掘ればその関連の遺跡が沢山出ます。

その予算を獲得するのに有名な邪馬台国は都合が良いのです。

書かれている魏志倭人伝の記述が曖昧というのもあります。魏志は陳寿という歴史家が書いたものですが、東夷伝の序文に”信じがたい記述もあるが(解明は)後世の人に託しそのまま記す”旨があり、実際に以下のようなところがあります。

1、国々の行程文の最後の2つが”水行20日”と”水行10日陸行1月”という記述
2、国々の行程文に書かれている”里”の数値が、実際に使われていた”里”の5倍くらいの長さで書かれている

この2つのことにより、邪馬台国を日本のどこにでも解釈できるなどという状況になっています。

しかし、魏志倭人伝を読んでみれば、それがおおよそ九州であることが分かります。上にあげた2つのことも、
”1”は最後の2つ以外の行程文の距離が”里”で書かれており、ほかの歴史家が「(文明人である)中国人なら距離を(距離の単位でない)日数で書くことはしない」と書き残しているように、距離のように書かれている2つの日数の記述はあきらかに何らかの違う情報が混入している。
”2”は”里”数が5倍(1里の距離が1/5)で書かれている理由は不明ながら、魏志倭人伝内ではその”里”で整合性が取れており、それに従えば邪馬台国の位置は北九州を出ない。

特に、魏志倭人伝の出発地である帯方郡から邪馬台国までの”里”数として12000里という記述があるが、朝鮮半島内で7000里、3回の渡海で3000里と書かれており、少なくとも日本(九州)に上陸してから約2000里で邪馬台国に着くことが分かるように書かれています。しかしながらこの12000里という記述は、多くの場合無視されています。


魏志倭人伝を実際に読んでみれば、邪馬台国の場所は一番面白みのない記述である九州の筑紫平野であることがおおよそ分かるのですが、日本人で魏志倭人伝を読んだことがある人というのは、おそらく数百人程度しかいないと思うほど少ないのも本当です。魏志倭人伝関連の本を出しているような人でも、自身の説の妄想を主張するのに忙しく魏志倭人伝を読んでいないだろう、と思うほど酷い人も多いのです。魏志倭人伝自体はわずか2000字程度、ゆっくり読んでも約1~2時間で読めるくらいの量なのですけどね。
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九州説は主に東大系の学者が主張、畿内説は京大系の学者が主張、考古学会の学閥争いです。

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中国の「三国志・魏志倭人伝」に曖昧な記載があるだけで、物的証拠が見つかっていないからです。

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どちらも決め手がないからです。

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