1. いま得られている資料をかかげます。ご見解をおしえてください。
2. ▲ 【資料1:ゴータマが求愛をことわる】 ~~~~~~~~~~~
3. マーガンディヤーの父親が、たまたま釈迦に会い、その説法を聴聞する
と父親は釈迦にほれ込んで、この男になら娘を嫁にやってもよいと思う。父親
は釈迦に還俗して、婿入りすることをしきりにすすめる。
4. ある日、釈迦はマーガンディヤーの両親の家を訪問し、両親と娘の3人
にむかって説法をはじめた。娘のマーガンディヤーには直接せずに、両親に説
法をするのである。内容は次のようであった。
5. 「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人
の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。
大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは
この女の足にさえ触れようとは思わぬ」
(『スッタニパータ835』)
6. 「大小便の詰め込まれた女」とは、ほかならぬマーガンディヤーのこと
である。釈迦の真意は、娘を溺愛し、盲愛し、執着しすぎている両親をその苦
から救うことにあった。いずれ死別はくる。両親が先か、万が一娘が先か、そ
れはわからぬが。であるならば、娘に執着せずに手離しなさいとうのが釈迦の
深い諭しである。この説法で両親は真意を悟り、出家を決意する。
7. しかし、救われないのは娘のマーガンディヤーである。目の前で「大小
便の詰め込まれた女」と言われれば、傷つき「許せない」と思ったであろうこ
とは容易に想像がつく。そして彼女は当然、釈迦を憎んだ。
8. その後、マーガンディヤーはコーサンビー国(* コーサンビーはヴァン
サ国の都)の王と結婚し、王妃となる。釈迦がコーサンビ-国に布教に来たと
き、彼女は屈辱的な過去を思い出すのである。そこで、釈迦に復讐するために、
人々を扇動し、王妃の命令によって托鉢に歩く釈迦に石を投げさせ、罵詈讒謗
を浴びせたのである。
9. このように誤解ゆえの迫害は、釈迦にもあったのである。
(『徒然草2001 法則編』 《註2》の後半です。
http://www.melma.com/backnumber_31267_1625651/ )
10. ☆【資料2:その後の悲劇】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
11. 瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』によると。マーガンディヤーが
ヴァンサ国王の第三夫人となったあと すでにブッダに帰依していた第二夫人
のサーマーワ゛ティーに敵愾心を燃やす。
12. しかも その遠因には かつてブッダに冷たくあしらわれたという過
去があずかった。とうとう サーマーワ゛ティーの館を全部 火を放って焼き
尽くし かのじょを中にいた侍女たちもろとも焼き殺したと言う。
13. 《このサーマーワ゛ティーのむごたらしい最期は とてもショック無
しでは聞けないし うなづけない。世の中は 必ずしもいい人がいい死に恵ま
れるとは限らないし 悪業を犯した人間が案外この世で栄えていたりするもの
だ。そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》という
のは 寂聴の記すところ。
14. 僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとや
はり寂聴が伝える。
僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。この世でたとえいくら
生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すで
に死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。それにくらべ い
つでも熱心に道を需め 正しいことをしようと願い 慈悲の心の燃えて
いる者には 永遠の命がさづけられている。現実に肉体の死はあっても
魂の死はない。マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で
何の生命もなかった。サーマーワ゛ティーは どんな死に方をしても
永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから
すでに聖者の位を得て死を迎えている。
(寂聴:前掲書《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》 p.158 )
15. さらに結語として次のようにしるす。
人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は
考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間で
はかってはならないのだろう。
(同上 p.159 )
16. わたし(=質問者)の考えですが ブッダあやまてり なのでは
ないでしょうか。
17. ◆ 【資料3:ブッダに好意的な議論】 ~~~~~~~~~~
【とびらの言葉】その第3回にゴータマ擁護論があります。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~houon/tobira-bk01.htm
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
No.11ベストアンサー
- 回答日時:
身体が生まれ変わるんじゃ無いんでしょうね。
何れにせよ、私の場合は、輪廻が語られたのは何故なのかとか、輪廻があるとしたらそれはどう言うわけか、と言うことの方を気にします。死ねば蒸発する、輪廻など無いと言って一蹴して分かった気になっても、それって無意味なので。キリスト教徒の中には死後天国に行って永遠に生きるとか、地上天国で永遠の命に預かるとか言う者もいるじゃ無いですか。それについて私は、何言ってんだ?となりますが、同じ様に、やはり何故天国や永遠の命が語られるのかと言う理由を、どうせなら知りたいと思いますね。
経典の記述を哲学的に評価するのは結構だと思います。客観的な分析や評価となる様、頑張って下さい。
今回、私からはこの辺で。
ありがとうございました^_^
ご回答をありがとうございます。
★ 身体が生まれ変わるんじゃ無いんでしょうね。
☆ 《生まれ変わり》とは 言っていますね。いつぞやの雪山童子は わたし
の前世の姿だとか言いますね。
★ 何れにせよ、私の場合は、輪廻が語られたのは何故なのかとか、輪廻があ
るとしたらそれはどう言うわけか、と言うことの方を気にします。
☆ 輪廻転生が説かれたのは ブラフマニズムの時で いわゆるカースト身分
制のもと 人びとは・つまり低いカーストの人びとは 貧乏・不自由な生活に
固定されている。
いやいや これは 前世のカルマの所為である。因果応報なのだ。だから も
う二度と生まれ変わることのないように 人生の晩年には修行を積むのだと。
★ キリスト教徒の中には死後天国に行って永遠に生きるとか、地上天国で永
遠の命に預かるとか言う者もいるじゃ無いですか。それについて私は、何言っ
てんだ?となりますが、同じ様に、やはり何故天国や永遠の命が語られるのか
と言う理由を、どうせなら知りたいと思いますね。
☆ 神の霊(息・風)のことです。へそを曲げて道を外したあと それでもわ
れに還り自然本性を取り戻すことが出来るのは この霊のチカラである。
つまり この霊のありかを たとえば 天国(パラダイス)または神の国と言
ったわけですし これをこの世とは別のあの世として――分かりやすく――譬
えて いろんな物語としても描いた。それだけのことだと思います。
★ 永遠の命
☆ は 霊なる神は 絶対性ゆえに 時空間を超えており 無限ないし永遠で
あるので そのように表現することになります。アートマンやブッダターのこ
とです。
★ 経典の記述を哲学的に評価するのは結構だと思います。客観的な分析や評
価となる様、頑張って下さい。
☆ そうですね。きちんとした推論を心がけて問い求めて行きたいと思います。
★ 今回、私からはこの辺で。
ありがとうございました^_^
☆ こちらこそ ありがとうございました。
No.10
- 回答日時:
別に私にとってお釈迦さんがブッダを自称しようがしまいがどうでも良い事なのです。
ふと耳にした彼の言葉が傾聴に値すると思ったので、経典などを読んだということです。法華経も同じですね。作者不明の経典ですが、楽しいので読んだ、という事です。その中で、舎利弗に三度こわれて正法を説く場面がありますね。六祖壇経にも書かれている事ですが。この問答については以前した記憶があります。
ブッダを自称する者は現代にも過去にもいくらでもいますが、私にとってはそれはどうでも良い事で、大事なのは何が語られたかという事なのです。事実、詐欺、偽物だと言うことで幾らも糾弾されている者がいるでしょう。語る言葉がヘボければブッダを自称してても意味はない。
この流れで、ブラジェさんはお釈迦さんを偽物だと思い糾弾している、それだけの事です。私は別に糾弾しないし、崇拝もしない。それだけの事です。
マーガンディヤーの件は残る資料から後は推測するしかなく、(憶測まで行くとワヤですから)それで述べたのが先程までの私の見解ですね。マーガンディヤーがお釈迦さんに直に口答えしなかったのは、お釈迦さんを恐れていた可能性もあります。しかしもう、マーガンディヤーの心境も、お釈迦さんの判断も、今となっては正確に知る事はできない。推測の域を出ないのですね。
後は、提婆達多ですが、彼は遠い未来に天王如来だったかな、になると授記をされています。提婆達多縁起と言うそうです。
マーガンディヤーも遠い未来に仏になるのかもしれません。これは、輪廻転生を前提とする仏教の世界観を否定できない限りは、この可能性を否定する事はできないでしょう。この観点から、道を求めない者は死んでおり、求める者は永遠に生きると言われるのでしょう。永遠の輪廻が死なのであり、そこからの解脱が生だと言う事です。
ご回答をありがとうございます。
★ 別に私にとってお釈迦さんがブッダを自称しようがしまいがどうで
も良い事なのです。
☆ はい。
★ 法華経・・・の中で、舎利弗に三度こわれて正法を説く場面があり
ますね。
☆ 乞われても説かなかった。ですよね? その話を聞いたら人びとは
混乱するからと。
★ 大事なのは何が語られたかという事なのです。
☆ 一貫して その姿勢で問い求めて来ています。
★ ブラジェさんはお釈迦さんを偽物だと思い糾弾している・・・私は
別に糾弾しないし、崇拝もしない。それだけの事です。
☆ そのことも 問題の焦点ではなく 焦点は 哲学としての評価です。
常識や定説などを 哲学として確かめているだけなんです。
それによって 少しでも世の中は 明るくなると思います。明るいほう
がいいですから。
★ マーガンディヤーの件は残る資料から後は推測するしかなく、
☆ その点は じつは 課題として残っています。それでもこのように
《批判》の対象としているのは スッタニパータに載ったゴータマ氏の
お断わりの言葉が 第一次資料として取り上げるにあたいする。と思わ
れるからです。
★ マーガンディヤーがお釈迦さんに直に口答えしなかったのは、お釈
迦さんを恐れていた可能性もあります。
☆ それは 両親が前面に出て 説法を聞いてもいたし 結婚の申し込
みをも おこなった〔だけ〕かも知れません。どちらも推測です。
★ しかしもう、マーガンディヤーの心境も、お釈迦さんの判断も、今
となっては正確に知る事はできない。推測の域を出ないのですね。
☆ ですから スッタニパータの文句も問題ですし 寂聴の著わした本
の批評・批判ということも課題であるということで ひとつの仕事にな
ると考えます。
★ 後は、提婆達多ですが、彼は遠い未来に天王如来だったかな、にな
ると授記をされています。提婆達多縁起と言うそうです。
☆ そういう場合は――ひとつの人生を超えてしまうことは残念ですが
――物語としてはあるのかも知れません。
★ マーガンディヤーも遠い未来に仏になるのかもしれません。
☆ これは いまから言っても 無理だと思います。個人的感想は 自
由ですが。
★ 輪廻転生
☆ じつは 同じ遺伝子の人間は 自分以外にいないので 無理だと思
いますよ。
No.9
- 回答日時:
出家じゃなくて、解脱ですね。
解脱しなければ一切皆苦は解決しないと言うことだと思います。マーガンディヤーの更生をどう見ていたのかは分かりません。初めで見た時から無理と見ていたのか、分かりません。
私は、お釈迦さんは衆生済度は考えていないと思います。仏は真理を体現し、こわれたならば道を説く。ただそれだけだと思います。そもそも仏がこの世に居ても居なくても解脱する人は解脱するわけです。お釈迦さん自体がそうだったのだから。
心を寄せ心を同じにすると言うのは同情する事です。しかしブッダの境地は"想い"からの解脱ですから、これも違うのでしょう。想いの束縛からは解放されているでしょう。
彼に何かを期待して、人々は聖者に集るけれど、本当には、期待出来るような自分になる事です。
ご回答をありがとうございます。
★ 出家じゃなくて、解脱ですね。
☆ あぁ 間違えました。
★ 解脱しなければ一切皆苦は解決しないと言うことだと思います。
☆ その中身はどうか? 人びとに還元し得る内容であるか?
★ マーガンディヤーの更生をどう見ていたのかは分かりません。初
めで見た時から無理と見ていたのか、分かりません。
☆ そういう問題です。
どう判断したかがあれば 解脱とは 人びとのための知恵です。
初めから無理だと判断したのなら 衆生済度の志向性があります。
けれども そういう判断またはさばきは あり得るでしょうか?
ならば デーヴァダッタについても 初めからその最期の姿はこうだ
と見通し得ていたはず。
となると どうして前もって 犠牲が出るような悪行におよぶと分か
っているのだから 用心しなさい・危険にそなえなさいと言ってやれ
なかったか?
★ 私は、お釈迦さんは衆生済度は考えていないと思います。
☆ えっ? ええええええっ?
★ 仏は真理を体現し、こわれたならば道を説く。ただそれだけだと
思います。
☆ 法華経でシャーリプトラには 乞われても説かなかったのですが。
★ そもそも仏がこの世に居ても居なくても解脱する人は解脱するわ
けです。お釈迦さん自体がそうだったのだから。
☆ 証拠がなくても仕方がないかも知れませんが 証明としての説明
が必須でしょうね。
ただ この上なくただしい知恵のさとりを得たぞと宣言しただけにな
っています。その宣言だけで人びとが ついて行っただけになってい
ます。
★ 心を寄せ心を同じにすると言うのは同情する事です。
☆ いいえ。キサーゴータミーには わが子を亡くした傷みと悲しみ
を克服するように 助言をあたえました。《同情》ではありません。
★ しかしブッダの境地は"想い"からの解脱ですから、これも違うの
でしょう。想いの束縛からは解放されているでしょう。
☆ いいえ。《苦》とは 《思うようにならないこと》です。苦から
の解脱とは 思うようになることです。《自由》という理念とその実
現なはずです。
★ 彼に何かを期待して、人々は聖者に集るけれど、本当には、期待
出来るような自分になる事です。
☆ 期待などしていません。持ち上げる人がいるので その内実につ
いて問うています。
No.8
- 回答日時:
一切皆苦からの解脱という事については理解が及んでいないため、推測しか出来ないですが、お釈迦さんから見れば、生も苦、死も苦だったのでは無いか。
これが一つ。そして、マーガンディヤーは時の権力者の妃であり、簡単に説き伏せたり正面から公的に戦いを挑める相手では無い。面子を汚したと言うだけでお釈迦さんを殺す理由にはなったと思います。そんな相手に対してお釈迦さんはどの様に対峙したのかと言うことが、今回の事件の示唆するところであるかもしれません。彼は魔法使いではないですから。
出世間とは、場所の移動ではなく境地の事ですから、お釈迦さんも托鉢なんかしながら世間の中にはいたわけです。ただ、その心的境地として、出世間だったと言う事でしょう。もし解脱によって場所を移動していたなら、マーガンディヤーとも、他の弟子たちとも出遭うことすら無かったでしょう。
ご回答をありがとうございます。
★ 一切皆苦からの解脱という事については理解が及んでいないため、
推測しか出来ないですが、お釈迦さんから見れば、生も苦、死も苦だ
ったのでは無いか。これが一つ。
☆ 《生も苦 死も苦》は サーマーワ゛ティーにもマーガンディヤ
ーにも・つまり一切衆生にとって 同じ事態ではないのですか?
出家すれば解放される。出家しなければ 解脱は無理。という意味で
すか?
★ そして、マーガンディヤーは時の権力者の妃であり、簡単に説き
伏せたり正面から公的に戦いを挑める相手では無い。
☆ たぶん 違うと思います。もしゴータマ氏に 衆生済度の心があ
るとすればですが どこかの国王とも懇意になっていますから その
ツテで話をすすめる方途はあったと考えられます。
★ 面子を汚したと言うだけでお釈迦さんを殺す理由にはなったと思
います。そんな相手に対してお釈迦さんはどの様に対峙したのかと言
うことが、今回の事件の示唆するところであるかもしれません。彼は
魔法使いではないですから。
☆ 初めは ゴータマらに対して 石を投げさせたんですから その
ときに じゅうぶん接触して話をする機会はあったのではないでしょ
うか。
マーガンディヤーが 《魂がまだ死んでいない》ならです。その時点
から《すでに死んでいる》と見なしたのでしょうか?
それとも 《われ関せず》という隠れ蓑を出家者らは 着ることが出
来ていた?
★ 出世間とは、場所の移動ではなく境地の事ですから、お釈迦さん
も托鉢なんかしながら世間の中にはいたわけです。ただ、その心的境
地として、出世間だったと言う事でしょう。もし解脱によって場所を
移動していたなら、マーガンディヤーとも、他の弟子たちとも出遭う
ことすら無かったでしょう。
☆ 《心のありか》という場としての世間から出世間への移動 これ
が成るならば もう人びとの苦をめぐる悩みについては 《心を寄せ
心を同じくする》ことからも解放されていた?
No.7
- 回答日時:
ブッダはおそらく、社会的な役割や責任と言うものを持ってないのではないかと思われます。
生死の流転からの解脱を果たしたのだし、何よりも出世間でありながら世間的な事柄に縛られると言うのはブッダの在り方として矛盾します。そして、マーガンディヤーの自由意志の事もありますし、このお釈迦さんの一連の対応は肯定もできないが否定もできないと言う感じになりますね、私は。この判断は逃げというのではなく、そもそも人間の天秤で量れるような事でブッダを計量しようとしても、正しく量れない。
しかし、その天秤であえて思量してみますと。少なくともこの場合、もし、マーガンディヤーにさとられるような温情を示したなら、間違いなくつけあがるに決まっています。マーガンディヤーの怨恨の炎が燃え上がるのを見ながら、民衆に石を投げられても堪えていた。第二夫人が殺されても堪えた。これは何もしていないように見えて並々ならぬ事をしているとも見れます。第二夫人の命に対して無責任なのでは無いかという疑問は出ますが、第二夫人はなぜ戦わなかったのか。お釈迦さんはそれも考慮したはずです。
お釈迦さんがチンケな奴かどうか、判定するには材料が足りない。むしろ今のままではスゲェ奴ってことになりかねない。私がお釈迦さんを擁護してるわけではなく、客観的に見てそう思うということです。
ご回答をありがとうございます。
★ ブッダはおそらく、社会的な役割や責任と言うものを持ってないのでは
ないかと思われます。
☆ 《社会生活からの解脱》を目指したし それを《さとり》と言うと。
★ 生死の流転からの解脱を果たしたのだし、何よりも出世間でありながら
世間的な事柄に縛られると言うのはブッダの在り方として矛盾します。
☆ 《思うようにならない苦》からの解放とすれば 《思うようにならない
その社会という場》から解放された位置にいるということでしょうか。
それは 《目覚めた》とは言わないと思うんですがねぇ。
《無明から明知への自己革命》は 無明や煩悩や渇愛の場から離れる(つま
り 出家する)という場の移動を言うのですかねぇ。
★ そして、マーガンディヤーの自由意志の事もありますし、このお釈迦さ
んの一連の対応は肯定もできないが否定もできないと言う感じになりますね、
私は。この判断は逃げというのではなく、そもそも人間の天秤で量れるよう
な事でブッダを計量しようとしても、正しく量れない。
☆ つまり 《世間知としての判断をまぬかれた場に移動した》 それが
ブッダの智慧だと。
★ 少なくともこの場合、もし、マーガンディヤーにさとられるような温情
を示したなら、間違いなくつけあがるに決まっています。マーガンディヤー
の怨恨の炎が燃え上がるのを見ながら、民衆に石を投げられても堪えていた。
第二夫人が殺されても堪えた。これは何もしていないように見えて並々なら
ぬ事をしているとも見れます。第二夫人の命に対して無責任なのでは無いか
という疑問は出ますが、第二夫人はなぜ戦わなかったのか。お釈迦さんはそ
れも考慮したはずです。
☆ つまり 《われ関せず》なる超然主義の態度を採ることが 《さとり》
であり まさしく《出世間》なりと。
人生半ばで望まぬ犠牲となるのは 本人の責任である。それが 仏法なり。
ブッダの所為にするな。
★ お釈迦さんがチンケな奴かどうか、判定するには材料が足りない。むし
ろ今のままではスゲェ奴ってことになりかねない。私がお釈迦さんを擁護し
てるわけではなく、客観的に見てそう思うということです。
☆ 絶対的な《われ関せず》をつらぬくことが出来たんだ。なるほど 世間
を超えています。
つまらぬ思いやりから自由になりなさい ですかね。
No.6
- 回答日時:
足りない様ですので、お礼欄、使って下さい^_^
それでは №5へのコメントをおぎないます。ご回答をありがとう
ございます。
★★(A№5) マーガンディヤーや提婆達多の件は、それぞれ彼女、
彼ら自身が招いたことであると見なければならないのではないでしょ
うか。もしお釈迦さんに責任を問うなら、それ以前にしつこく還俗を
せまったマーガンディヤーの両親にも罪があることにならないでしょ
うか。
☆ ですから 責任の程度にそれぞれ違いがあるでしょうが みんな
が互いに《悪の共同自治》のために 協力しあうという方向性がおの
づと持たれて来ます。
そういう社会のあり方をめぐって 指導者のひとりとして尽力するの
が ゴータマ氏であるのでは?
というように 全体観のことを問題にして考えてみると ゴータマ先
生はまことに みみっちい。
自分は無罪だといううったえだけに汲々としているように見えます。
《個人主義》に立つ。ゆえに 一人ひとりがそれぞれ《道を需める》
という行き方なのだ。――でしょうか?
★★ 私は、道を求めない人が死んでいるとは思いません。その論理
で言っても、道を求めるようになれば生き返るのだから。可能性があ
る。だから、本当に死んでいる人間などいない。もし、道を求めない
まま死んで、可能性も無くなったのならそれは死んだという事だと思
います。
☆ という事情を ゴータマ氏が サーマーワ゛ティーら犠牲者の追
悼にあたって しっかり・はっきりと説くのがよかった。
そのあと 悪の共同自治をめぐる実際の政策を考えて行くという方向
性です。
犀の角のごとくひとり歩め――なのでしょうか?
(ちなみに 犀には 角がふたつあるのもいるそうですね)。
どうも 《しみったれ牟尼》というキャラに見えます。
No.5
- 回答日時:
・・・裏腹に 欲望が――抑えてはいるけれど
――内に煮えたぎっていると告白しているみたいです。
とのことですが、真相は私には分かりません。想像するに、本能の動きに反応するはずの心が解脱によって脱落していて、本当に一切の性の欲動を感じていなかった可能性があります。もし性欲を我慢しているだけなら解脱者とは言えない気がします。
・・・かのじょの復讐を招いたけれど ゴータマ氏の振る舞い
は 文句なしにただしかったから 何も責任はないか?
これは、責任は問えないと思います。これの責任を問うならば、提婆達多の件についても責任を問われるはずです。しかしながら人の自由意思を尊重するならば、マーガンディヤーや提婆達多の件は、それぞれ彼女、彼ら自身が招いたことであると見なければならないのではないでしょうか。もしお釈迦さんに責任を問うなら、それ以前にしつこく還俗をせまったマーガンディヤーの両親にも罪があることにならないでしょうか。
この件は単に、マーガンディヤーがお釈迦さんに一蹴されて、口論、戦いにすらならずに敗北したというだけだと思います。言い返せなかったマーガンディヤーが敗北を認めたくなくて悪あがきし八つ当たりしたのだと。
▲ 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間
☆ つまり 《仮死人間・生けるしかばね》問題ですよね? 《放ってお
く。復讐するにまかせる》が ゴータマ氏の答えだったのでしょうか?
これは単純に、他者が悪行を働くのをブッダでさえ止めることはできない、という事だと思います。お釈迦さんは弟子である提婆達多を止めることもできなかったし、弟子であるコーカーリヤを止めることもできなかった。それはお釈迦さんが悪いのではないでしょう。出来ないものは出来ないという事ではないですか。
お釈迦さんは質問文にあるような事を言ったかもしれませんが、私は、道を求めない人が死んでいるとは思いません。その論理で言っても、道を求めるようになれば生き返るのだから。可能性がある。だから、本当に死んでいる人間などいない。もし、道を求めないまま死んで、可能性も無くなったのならそれは死んだという事だと思います。これは、生ける屍の話に関わらず、死んだら死んだのだという、厳然たる事があるのでしょう。それに、人はいつ死ぬか分かりません。胎児でも、幼児でも、子供でも、青年でも、中年でも、老年でも、その時が来れば死ぬ。そんな中で、道を求めなければ何時でも誰でもマーガンディヤーのような評価を受けると言えるか?そんなことは言えない。道を求めないまま死ぬ人は少なくないだろうが、やりたい放題悪いことをしたマーガンディヤーと、ただ道を求めないまま死んでしまった人々は同じではないでしょう。道を求めないからと言って人格が否定されるのではそれは増上慢ではないか。道を求めているようで形だけを追う者もいれば、道を意識しなくともそれを歩んでいる人もいる。道と言うのは微妙であるでしょう。
ご回答をありがとうございます。
☆☆ ・・・裏腹に 欲望が――抑えてはいるけれど
――内に煮えたぎっていると告白しているみたいです。
★ とのことですが、真相は私には分かりません。想像するに、本能の
動きに反応するはずの心が解脱によって脱落していて、本当に一切の性
の欲動を感じていなかった可能性があります。もし性欲を我慢している
だけなら解脱者とは言えない気がします。
☆ ① 性欲に罪はありません。② その《告白》は わたしのただの
推測です。
☆☆ ・・・かのじょの復讐を招いたけれど ゴータマ氏の振る舞い
は 文句なしにただしかったから 何も責任はないか?
★ これは、責任は問えないと思います。
☆ これは 責任は問えないけれど では 《放っておくのか?》とい
う問題です。
デーヴァダッタが仮りにブッダ殺しを意図するなら 仏罰(?)を受け
るぞという教訓話だったんだとしても マーガンディヤーの場合は い
ったい何のレッスンがそこにあるのか? という問いにもなります。
そして:
▲ サーマーワ゛ティーは どんな死に方をしても永遠に生きつづける。
☆ という言葉で済ませることができるか? という問いが永遠に問わ
れ続けます。
《責任がない。悔いも残らない》なら 事後の言葉だけで済まそうとす
るなかれ! です。何も言わなかったのなら まだ信用できる人間です。
★ この件は単に、マーガンディヤーがお釈迦さんに一蹴されて、口論、
戦いにすらならずに敗北したというだけだと思います。言い返せなかっ
たマーガンディヤーが敗北を認めたくなくて悪あがきし八つ当たりした
のだと。
☆ 広義のセクハラというのは 自称被害者が 責任を問えずじっさい
無実の相手に対して 何をするか分かったものではありません。どうし
て それが ゴータマ氏は分からなかったのか?
そして マーガンディヤーが いくつかの嫌がらせをやったなら それ
は ゴータマ・《ブッダ》に《わたしに取り憑く悪霊を追い払って欲し
い》と暗に叫んでいたのかも分かりません。
▲ 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間
☆☆ つまり 《仮死人間・生けるしかばね》問題ですよね? 《放っ
ておく。復讐するにまかせる》が ゴータマ氏の答えだったのでしょう
か?
つづく
No.4
- 回答日時:
大小便を体内で生成しない人間なんていない。
マーガンディヤーは、「あんたも”糞ブッダ”だろ?」とお釈迦さんを罵ってスッキリすればよかっただけの話なのに、自分ではそれすら言えず、民衆に石を投げさしたり、第二夫人を殺したりして、なんて卑怯なんだと思う。直接いやぁいいだけの話だったんじゃないでしょうか?別にブロックされたわけでも無し、直接言うチャンスはいくらでもあったはずです。マーガンディヤーはルックスは良かったのかもしれないが、ネチネチしていて嫌らしく、性根の腐ってる女ですよ。一方で、美人に一切なびかないお釈迦さんも普通じゃないが、別にそれは悪いことではない。
ご回答をありがとうございます。
★ マーガンディヤーは、「あんたも”糞ブッダ”だろ?」とお釈迦さんを
罵ってスッキリすればよかっただけの話なのに
☆ これは おもしろい。痛快感を味わえます。
ううーん。と同時に――往生際わるく―― 反論もあり得ます。
ゴータマ氏は お断わりを述べているだけなのではなく 《説法》をして
います。ここでは その《性愛観》が問われます。うたがわれます。
お断わりの文句は 単なる伝承ではなく スッタニパータなる教典に載っ
ているものです。
▲ 渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人の魔女〕
☆ なる女性観が 女性論一般に通じていないか?
▲ われは この女(☆ =マーガンディヤー?)の足にさえ触れようと
は思わぬ
☆ こんなことを言うのは おかしい。まるで《交わりたいという欲望す
ら起きなかった》という表現とは裏腹に 欲望が――抑えてはいるけれど
――内に煮えたぎっていると告白しているみたいです。
★ マーガンディヤーは・・・自分ではそれ(罵り返し)すら言えず、民
衆に石を投げさしたり、第二夫人を殺したりして、なんて卑怯なんだと思
う。
☆ つまり 誰が見てもかのじょの報復行為はおかしい。間違っている。
そのとき では かのじょの復讐を招いたけれど ゴータマ氏の振る舞い
は 文句なしにただしかったから 何も責任はないか? と問われないか
です。
★ 直接いやぁいいだけの話だったんじゃないでしょうか?
☆ 長く・酷いかたちで尾を引いたけれど 初めの対応を問題にすべきだ
そして それだけで済ませるのが よい。――でしょうか?
▲ 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間
☆ つまり 《仮死人間・生けるしかばね》問題ですよね? 《放ってお
く。復讐するにまかせる》が ゴータマ氏の答えだったのでしょうか?
★ 別にブロックされたわけでも無し、直接言うチャンスはいくらでもあ
ったはずです。マーガンディヤーはルックスは良かったのかもしれないが、
ネチネチしていて嫌らしく、性根の腐ってる女ですよ。
一方で、美人に一切なびかないお釈迦さんも普通じゃないが、別にそれは
悪いことではない。
☆ この見方をすべて飲み込みうべなったあとにのこる(?)問題です。
ゴータマ氏は 心づもりが みみっちい。しみったれだ。と思います。
No.3
- 回答日時:
~~~~~~~~~~
雑談ですが
にゃんにゃんこさんとメールをしていた頃のメールアドレスが
175だったのですが、別に良い子ではないです。
当時、メールアドレスを作成したら、文字列の後の数字が17語で、
蟲かよと躊躇したけれど、読みやすいし、イナゴライダーとか
キグルミさんに管理されていたのでしょうけれど
まあつらかったとしか。
ブッダの話のマーガンディヤの無助に関しては
禁欲主義的な立場からの作詞したのかもしれまえんね。
No.2
- 回答日時:
妹からは蹴られるし、
速く寝ろとか、人格を否定されることをひどく言われてるし、
父オカラもおン学だの母そういうことまで親も一までも風邪を治さないし、
意味和から兄ですが
家族化kんえきがめちゃくちゃなので
悩んでます。
私は聖書だの仏教の瞑想だの
心を落ち着けようとしているのに
誰も私には配慮しないのね。
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№5つづき
★ これは単純に、他者が悪行を働くのをブッダでさえ止めることはで
きない、という事だと思います。
☆ 分かりました。神通力も及ばないことがあると。
★ 出来ないものは出来ないという事ではないですか。
☆ だから 何もしなかった。過去の因縁がかなり分かっていてそれは
本人(つまりゴータマ氏)に少なからずかかわっている。それでも 何
もしなかった。出来ないものは出来ない。こういう見方ですね。
わたしは それは けち臭いというように思います。相手の《犯行》は
ただのいたづらではなかったのですから。
▲ マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で何の生命もな
かった。
★ お釈迦さんは〔この〕ような事を言ったかもしれませんが、私は、
道を求めない人が死んでいるとは思いません。
☆ だとすれば――だとしますから―― なおまだ《出来ることがあっ
た》のではないですか?