A 回答 (7件)
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No.8
- 回答日時:
#5です。
お礼ありがとうございます。>関ヶ原とは戦国時代を終わらせた戦いではなく天下統一された後のいわば政権争いの戦いって感じなんですかね。
こういう句がありますよね
織田が突き、羽柴が捏ねし天下モチ、座りしままに食うは徳川
織田信長は苦労して「天下持ち」になったけど殺されてしまい、その後釜に座った秀吉はせっせと中央政治の体制を捏ねて作り上げたわけで、関が原や大阪城攻めなどはあったにしても、徳川は信長と秀吉の作った「天下持ち」という土台にどっかりと座って250年の江戸時代の基礎を作ったといえるでしょう。
質問者様のご質問に端的に答えている一句だと思います。
ちなみにですが、私はどちらかというと世界史のほうが得意なんですが、その国の社会的な変化があると騒乱になって、国内が安定して秩序が完全に回復するまで最低でも50年、長ければ100年以上かかります。
たとえばフランス革命はバスチーユ襲撃から何度も政治体制が変わって、王政復古やナポレオンによる皇帝制なども経験して80年後の第三共和政でようやく安定していきました。フランス革命で出来た「共和政府」も3回目でようやく成り立ったわけです。
古代ローマも共和政から皇帝制になるまでに、スッラ・カエサル・アウグストスと三代必要だったと言われれていますし、信長にしてもスッラにしてもフランス革命にしても最初は武力で人々を強制的に従わせ、2代目はそれを安定させようとして失敗し、結局3代目が完成させて安定し反映していく、ということが歴史をみるとけっこうあります。
こういうのを見てみると、信長・秀吉・家康のバトンタッチは「歴史上の必然」といえるかもしれず(その時代を生きた人にとっては結果にすぎませんが)、家康が頭角を現した関が原は間違いなく、ほかの武将たちも「これで自分たちの命運が決まって、天下泰平に向かう」と思っていたでしょう。
彼らは中国の歴史などをよく読んでいましたから、歴史からいろいろ学んで判断に利用していたと思います。
phj様再度回答いただきありがとうございます。
>織田が突き、羽柴が捏ねし天下モチ、座りしままに食うは徳川
言い得て妙ですね。
当質問の根本に立ち返って関ヶ原の戦前に戦に勝った方が治世を作る
事が予想できてた武将がどれだけ居たのかはさておき
歴史を引いた目で見てみるとその土台は既に出来上がって居たってことですね。
私は日本史以上に世界史には疎いのですが
社会が大きく変わり安定するまで最低でも50年はかかるってケースが多いのですね。
いや~歴史って面白いですね。
これから少しづつ触れていきたいと思います。
No.7
- 回答日時:
> 当時この戦いが始まる前はそういう認識は各武将にあったんですかね?
間違いなく「あった」と思いますよ。
なぜなら、「関ヶ原は別格」ですから。
さすがに戦国時代と言われるだけあって、「応仁の乱」に発端し、江戸幕府が成立,安定するまでの間には、大小数百に及ぶ戦闘行為が行われています。
しかし、複数の戦国武将や軍団が参戦する様な戦闘は、それほどありませんし、戦国武将が両陣営に別れて対立する様な戦闘は、片手ほどしかありません。
言い換えれば、当時の戦国武将は「一国の主」であって、領地の枠を超えた大戦は、それほど経験してないんですよ。
すなわち、主には国境紛争や、一揆などを含めた内紛とかで。
信長の後半になって、ようやく大規模な地方討伐戦が行われる様になるのですが、たとえば秀吉の小田原征伐でも、北条氏側の視点で言えば、防衛戦争だし、「大阪の陣」も、豊臣氏の視点で言えば同様です。
それらの従来の戦闘の「枠」を超えた、日本史上でも最大の戦闘が、関ヶ原の戦いです。
東西陣営の主力が、互いを目指して領地を進発し、それぞれに味方する有力武将が集結して、衝突する真ん中辺りで会戦なんて言う戦闘は、関ヶ原が最初で最後です。
真ん中で衝突するパターンは、秀吉と家康が直接対峙した唯一の戦闘である、小牧長久手の戦いなども該当しますが、規模や参加武将の数も全く違います。
正直なところ、参加武将の正確な認識までは判りませんが、よほどのボンクラ武将ではない限り、「これまでの戦闘とは明らかに違う」と言うくらいの認識はあったと思われます。
一方、家康の戦後処理の流れを追いますと、「関ヶ原の勝者=覇者」と言うのは、ある程度は戦前からの既定路線とか、武将間のコンセンサスであった様にも感じます。
まあ、戦後処理の采配まで、家康が見事だったのかも知れませんが。
9月15日の戦闘から、わずか10日で、西軍大将の毛利輝元を大坂城から追い出して、東軍武将を入れ込むと共に、家康自身も27日には入城して、当然の様に実権を掌握し、論功行賞や西軍武将の処断などにも着手しています。
rose2011様回答ありがとうございます。
関ヶ原が別格の件なるほどです。
確かに領地の枠を超えた大戦は数多くはないですよね。
>従来の戦闘の「枠」を超えた、日本史上でも最大の戦闘が、関ヶ原の戦いです
ですよね。
戦闘の規模については結果そうなってしまったのではなく
戦前からそういう展開になるとは誰の目から見ても明白だったでしょうし。
家康の戦後処理の件は知りませんでした。
色々と勉強になります。
最後にこの欄をお借りしてご回答頂いた皆様に改めて感謝申し上げます。
私自身歴史は素人で不勉強なものですからこうしていろんな意見をいただけて大変
勉強になりました。そしてこの質問して良かったなと思いました。
No.6
- 回答日時:
>関ヶ原の戦いは「天下分け目」とか「戦国時代に終止符を打った」って表現をよくされますよね。
天下分け目とは言われますが、戦国時代に終止符を打ったとは言われません。
戦国時代の定義ははっきりとは定められていませんが、既に秀吉が天下統一した後なので「関ケ原の戦いで戦国時代は終わった」と考えるのは難しいです。
>勝者が後に治世を作るんだろうと想像してたのかどうか
東軍が勝った場合は家康が治めるだろうと想像できますが、西軍が勝ったとしても石田三成や毛利ではなく豊臣家中心の政治になっていたのではないでしょうか? 東軍が勝ったのであくまでも推測ですが。
viajar_rajaiv様回答ありがとうございます。
>天下分け目とは言われますが、戦国時代に終止符を打ったとは言われません
なるほどです。
他に回答頂いた方からも同じようなご意見を頂きましたが
その辺の認識が私には無かったです。
西軍が勝った場合は事態は混沌としてたかもですね~。
そういうの想像するのも面白いですね。
No.5
- 回答日時:
>事実そうだと思うんですが当時この戦いが始まる前はそういう認識は各武将にあったんですかね?
関が原に参加した武将にも参加しなかった真田家のような人々にも、天下分け目の意識は大いにあったと思います。
そもそも、関ヶ原の戦いはすでに「戦国時代が終わった後」の戦いであることを理解しておくほうがいいと思います。戦国時代というのは、学説としては室町幕府がまだ有った1467年の応仁の乱に始まり、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した1568年で戦国時代は終わり、関が原まで織豊時代(安土桃山時代)になったとされています。
戦国時代というのは「室町幕府という中央政府が国家としての統制機能を失ったこと」に由来します。
したがって、織田信長という文句なしの日本一の実力者が「足利義昭を将軍として認めてその指示に従う(だから、将軍に従わないやつは俺が切る)」ということで、室町幕府が再度政権能力をもったことから「戦国時代が終わった」ということになるわけです。実際には信長が後ろで足利義昭を操っているのは誰の目にも明らかだったでしょう。
そして足利義昭は信長と対立し、備後に追われ、信長は本能寺で弑されるまで国家の実権を握ることになりました。
信長が死ぬと後釜にだれが座るかで争いがおきます。しかしこの時点で室町幕府は一応足利義昭将軍職で機能しており、問題は「誰がその後ろ盾になるのか、それとも足利義昭を追い落として新しい幕府を開くのか」に焦点が置かれたわけです。
これを取ったのは羽柴秀吉であり、その後朝廷に奏上して関白職として国家の統制権を保持します。秀吉の関白職就任をもって、足利義昭は将軍職を辞退しています。
天下取り=国家統制権という視点でみれば、その後の秀吉の国家運営に全国の実力者たちが服したのは明らかであったといえます。
結局のところ、秀吉の死後「誰が跡目を継ぐか」ということであり、徳川家康だけでなく前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元には「秀頼を篭絡して自分がコントロールする」という野望を持っていた可能性があります。
ただ、その動きを頭一つ先に出したのは家康であり、結果としてほかの大老たちは徳川家の実力に対抗するか、阿るかの選択を迫られていくわけです。この時重要なのは「政府としての国家運営」は五奉行と言われた石田三成などが官僚レベルで実務を取り仕切っていたことです。
ようするに今でいえば、首相や国会議員が衆議院解散でどたばたと選挙をやっている間も、官僚たちが国家運営を粛々とやっているようなものです。
戦国時代の頃はこのような「国家運営機能」そのものが室町幕府の崩壊によってほとんど失われていたわけですから、戦国時代と、国家運営機能が戻った織豊時代は分けて考えられるわけです。
当時の人々も「秀頼を支える大老たちと五奉行(つまり西軍)が勝つか、自分で政治をやりたい徳川家康が勝つか」という意識を持っていたはずで、特にどちらかの陣営で参戦せざるをえない大名レベルは非常に悩んだことでしょう。だからこそ関が原の戦いでは東軍に寝返る武将たちが続出したわけで、またこれに参加しなかった西軍側の真田家は「犬伏の分かれ」で西軍・東軍両方に保険をかけたわけです。
このような動きは「勝った方が天下を取り、国家運営権をもつ」からこそ各武将の決断で様々なドラマが生まれたわけですし、関が原前夜は信長が足利義昭を奉じたような時期とは「権力者が持つ国家運営権の重み」が明らかに違った、ということです。
ですから、西軍は自分たちの正義のために、東軍は自分たちの野心のために、裏切った人々は自分たちの未来のために、関が原を「天下分け目」と判断し戦った、のです。
phj様回答ありがとうございます。
>関ヶ原の戦いはすでに「戦国時代が終わった後」の戦い
なるほど。そうなんですね。
>戦国時代というのは「室町幕府という中央政府が国家としての統制機能を失ったこと」に由来します。
なるほどです。その定義も知りませんでした~。
詳しい時代考察述べて頂いてありがとうございます。勉強になります。
関ヶ原とは戦国時代を終わらせた戦いではなく天下統一された後のいわば
政権争いの戦いって感じなんですかね。
No.4
- 回答日時:
無かったと思います。
まだまだ騒乱は続く、と考えていた人が
多かったと思います。
だからこそ、大阪城にあれだけの牢人が
集まったのです。
逆に言えば、家康自身、そうは考えて
いなかったでしょう。
だからこそ、鐘に刻まれた文字に因縁を
つけて、大坂の陣に引きずり込んだのです。
これで終わり、と考えていたら大坂の陣など
発生するはずがありません。
tanzou2様回答ありがとうございます。
家康自身もどこまで見えていたのか。
割といきあたりばったりだったんじゃないかなって私も勝手に想像してます。
No.2
- 回答日時:
ないでしょう。
後世の人が、その後の歴史も含めて振り返ったら、そうだった、と言うだけです。
西暦2018年が、歴史の分け目になるとは、今は誰も考えてないでしょう?
t_fumiaki様回答ありがとうございます。
ですよね。
結果論で後の人間がそう言ってるだけでそこまで明確に結果が見えてた
戦いじゃなかったと私も思ってるのです。
学校で習った時のことをなんとなく思い出したり。あるいは物語等で語られる関ヶ原って
家康が計算ずくで周到に準備して大勝利をもたらしたみたいなイメージを植え付けられてましたが
勝敗を含めて実情はものすごく危ういものだったらしいですし。
No.1
- 回答日時:
結論から言うと人によって想像していたり、いなかったりだと思います。
秀吉公が亡くなった後、豊臣家の跡継ぎはまだ幼く、家康がこれにとって代わろうとしていました。
このままでは、家康に天下の権が奪われてしまうと危惧した石田三成、大谷 吉継あたりが直江兼続などと連携して家康を排除するために戦を仕掛けたのが、関が原に発展したわけです。
東軍の総大将は言うまでもなく家康、西軍は総大将に(三成に頼まれた)毛利輝元を立てて対立したわけですが、豊臣政権のトップ同士の争いという形です。言わば政権のno2争いです。しかし政権トップの秀頼は幼いから事実上の政権no1争いとも言えなくはなさそうです。
だからこの戦に西軍が勝てば、豊臣維持派が権力を握り、秀吉の死後好き勝手に振舞ってい家康が勝てばその行いがますますエスカレートするであろうという事は当然ながら、諸将には想像できていたはずですね。
ただ、関が原に家康が勝利したとして、武将によっては家康が豊臣から天下を奪うであろうと想像した者もあるだろうし、そこまでは想像できなかったものもあると思います。
徳川譜代などは家康が天下人になるところまで想像していた者が多いかもしれませんが、豊臣家に恩義のある諸将は豊臣が天下を追われるとは想像していなかったことでしょう。でなければ、豊臣秀吉子飼いの 福島正則や加藤清正などが家康に味方する思考回路が理解できないことになりますよね!
彼らは家康に味方して勝たせれば、その後は秀頼をサポートして立派に豊臣家を守っていってくれると思っていたことでしょう。
masterkoto様回答ありがとうございます。
結果東軍が勝利したこの戦いですがもし西軍が勝っていたらさらなる混沌があったかもですよね。
また東軍が勝った場合という予想段階でも福島正則や加藤清正の例のご説明は納得です。
戦がたった半日ちょいで決着がついた件も合わせて誰もが予想外の連続でなんだか分からないけど
そうなってしまったって感じなのかなと素人ながら想像してました。
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